『このラブコメは糖度の低いラブコメです』

だいこん

第1話 サボりませんか


 急に、悪い事がしたくなった。


 自分の行動に理由をつけるなら、そんなふうに漠然とした感じになるのだろうか。


「……何やってんだ」


 バスの背中が遠のいてゆく。日頃から乗り慣れた、学校近くへと向かう市営バス。あれを乗り逃したら遅刻は確定だ。


 次のバスは――だいたい二十分後に来るらしいから、どうあがいたって朝のホームルームには間に合わない。


 だというのに、なぜだろう。

 不思議とそこまでの焦燥感は湧かなかった。


 かすかに残る眠気のせいで、感覚が鈍麻どんましているからだろうか。

 あるいは、まだ自分がした事に脳の理解が追い付いていないだけなのかもしれない。停留所の時刻表から目を離し、スマホを経由して視線を空に上げる。


 曇りのない一面の青には、薄桃色に染まるひとひらの花びらが舞っていた。


 学校行きのバスに乗り遅れたのは寝坊などというありきたりな理由からではなく、まして体調が悪かったからという訳でもない。


 ただ単純に、僕は歩くスピードを落としていた。


 ほどけていもいない靴紐をやたら細かく結び直し、SNSをしょっちゅう眺めてはまた立ち止まる――足早に過ぎていく人々を横目に、僕だけがかたつむりのように、のらりくらりと時間を浪費しながら歩いていた。


 道中、何度も開いたSNSだ。

 暇つぶしに更新をかけても新たな呟きが数件追加されるだけで、すぐ打ち止めになってしまう。


 似たり寄ったりなスポーツの話題、インフルエンサーのバズった投稿。毎日飽き飽きするほど流れてくる不幸なニュース――目を滑らせているうちに視界の端で車が止まった。バスだ。


「っと、あっぶな……!」


 あやうく足元に置いていた鞄を忘れそうになる。


 車内を見渡せばほぼ一人一席状態、しかし今降りた人たちのおかげで最後部の五人席だけは空いていた。一人で座るのははばかられたが、ここまで立ちっぱなしだったこともあり、座りたいという気持ちが勝つ。


 堂々と真ん中に居座る勇気はないので僕は一人分、横にずれて腰を下ろした。


『発車します――』


 最後部の席は、前側や中央の座席よりも位置が高い。乗客を見下ろすような光景に戸惑いを覚えながら、僕の頭は言い訳をひねり出す為に回転する。


 まさかいけしゃあしゃあと「何となく歩くスピードを緩めていたら遅れちゃいました」なんて、ありのままを白状する訳にはいかない。


 すぐに思いついたのはやはり寝坊か体調不良のどちらかだが、なかば気まぐれで起こした行動だ。学校にその旨を連絡している筈もなく、疑いの目を向けられるのは避けられないだろう。


 ――やっぱり怒られるんだろうな。


 停留所で人が降り、また次の停留所で何人かがけていく。徐々にいてゆく車内が、まるで砂時計のカウントダウンのように思えてくる。さらさらと砂が落ち、じわじわと胸を灰色で満たしていく。


 けれど、怒られることは特別嫌いでもなんでもない。


 どちらか言えば嫌なのは――


『発車し――』

「やあすいません、すいません。誰か乗るみたいですよぉ」


 乗車口のドアを誰かが叩いていた。近くに座っていたおばあさんがそれに気付き、口元に手を添えて運転手に声を飛ばす。


 ほどなくして乗り込んできたのは、一人の女の子だった。


「おはよう小春こはるちゃん。危なかったわねぇ」

「間一髪でした。ありがとうございます、絹恵きぬえマダム」


 透明感のあるあどけない声は、気を抜くと車内の小うるさい物音に消えてしまいそうで。小さく礼をすると綺麗に切り揃えられたボブカットの髪が揺れて、小柄な佇まいが正される。


 学生――おそらく同年代か年下あたりに見受けられるが、あまり見かけた事のない制服だ。


 シルエットはワンピースに近く、色は水色。胸元には赤色の紐リボンがあしらわれ、袖や襟には白が差し色として使われている。けれどもっとも目を引かれたのは、その子の髪色だったかもしれない。


 乳白色と黄みを含んだ金髪は、例えるならミルクティーのような色合いと呼ぶのがふさわしいだろうか。装いとあわせて可憐な雰囲気を纏って見える。


 小春ちゃんと呼ばれたその子はこちらへ歩いて来て――思わず二度見した。


 空席なら他にもあるというのに、彼女は僕の隣へ座り込んだのだ。

 自分と同じく、たった一人分のスペースを空けて。


「やられました」

「えっ?」


 不意の呟きに思わず相槌あいづちを打ってしまい、


「ここは私の特等席なのですが、まさか先客がいたとは。どうですか? 高いところから下々の民を見下ろせる気分は」

「おじさんとおばさんが見えるだけだけど、大げさじゃないかな……っていうかまるで、僕が人を見下したくてここに座りました、みたいな言い方――」

「おやや? 違うのですか。人を見下ろすのにちょうどいい席だと、絹恵マダムから聞いていましたが」

「いやあのおばあちゃん、絶対にそこまで性格歪んでないよ。……ほら、ちょっと会釈えしゃくまでしてくれてるし」

「違います」


 目を丸くする僕には一瞥いちべつもくれず、


こうべを垂らした、と言った方が、民の上に立つものとしてふさわしい言い回しになるのでは?」

「即席の王様にされてる……」

「そんな王様に交渉です。隣にいっこ、ずれてもらってもいいですか。真ん中に座りたいので」

「ああ……はい、どうぞ」

「かたじけなきにしもあらず」

「なんて?」


 一人分横にずれて、一人分、席を詰められる。ほぼ脊髄せきずい反射だけで会話が成り立った経験は初めてかもしれない。


 それも相手は初対面の女の子で、だとすれば今のはなかなかに得難い体験だったのではないだろうか。話の内容は、突き詰めてしまえばただの席の譲り合いでしかないのだが。


 半分開放されていた窓から吹く風が金髪をさらりと揺らし、桃のように甘く、清涼感のある香りに鼻をくすぐられる。


 二重のまぶたに黒い瞳。童顔の幼さが残る顔立ちは、間近で見るとより際立って見える。独特のワードセンスや喋り方もある意味では個性的。僕の周りやクラスメイトにはいないタイプの人間だ。


「サボりですか」


 単刀直入、薄桃色の唇が胸を刺す。


「この時間帯、バスに乗っている学生はあまり見たことがありません。正解だったら『ピンポ~ン』と言ってください。あ、なるたけ小声で」


 やけに断定的な口調だなとは思っていたが、続く言葉が彼女の確信を裏付けていた。なるほどたしかに、遅い時間にバスに乗っていればそうも疑われるだろう。


 流れてゆく街並みに僕は「そうだね」とこぼし、


「わざとゆっくり歩いてたんだ、今日は。こんな風にしてたらどうなるんだろう、学校遅れちゃうのかな。そしたらだんだん、学校に行かなきゃってところから気持ちが離れて……あとはもう、見ての通り。さっきまでずっと、どんな言い訳してしのごうかなって考えてた」


 嘘だ。本当は今も言い訳を探している。人の減っていく車内に急かされて、僕は今ごろ焦り始めていた。


 しかし今話したことの半分は、嘘偽りのない本心だった。


「レールってあるでしょ」

「電車が走るやつですか?」

「そう、それ」


 彼女が僕の方を向いたのが横目で分かった。


「学校に行って勉強して、家に帰る……毎日その繰り返し。普段、日常っていうレールの上を何気なく走ってるけど、ふと思う時があるんだ。そこから外れたら、いったい自分はどうなるんだろう。分からないから気になって」

「レールを外れたくなった――というわけですか。なるほど、なるほど……」


 考えている事をうまく言語化できたこと以上に、感情を汲み取ってもらえた事に僕は内心、胸がすくような思いを抱いていた。


 不純な熱量に負けて、学校をサボろうとした。

 大雑把に要約してしまえば、僕の行為は不良のそれとなんら変わりがない事に気付いてしまう。言葉にするまで自覚できていなかった。 


 同時に僕は、はたと気付いたことがあり、唇を動かした。


「僕は久世橋――久世橋くぜはし時生ときお。名前、まだ言ってなかったよね」

「久世橋……」


 噛みしめるように呟いてから、


「あだ名は“久世の兄貴”なんてどうでしょう」

「自分で言うのもなんだけど、僕のイメージからかけ離れてない……? 普通にさん付けとかでいいよ。君は――」

「絹恵です」

「小春さんだよね。何、なんで急にあのおばあちゃんの名前出したの?」

「すみません。つい、うっかり」


 「つい」や「うっかり」で人の名前が出てくるのはどうなんだろう、まったくの不意打ちに僕は小さく吹き出してしまった。


槇島まきしま小春こはるです。こはるの字はそのまま、“小”さな“春”。下の名前で呼ばれる事が多いです。気軽にどうぞ」


 小さな、春。

 それを聞いてよぎったのはバスに乗る前に見かけた、空に舞う花びら。


 ありがとう、それじゃあ遠慮なくと返事をすると、バスがゆっくりと停車する。

 小春さんは僕の制服の裾をまんで立ち上がり、


「――学校、サボりませんか」


 開かれたバスの降車口。


 車内通路を照らすうららかな陽射しが、道標のように僕らを導いていた。

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