第5話 絵解きの時間

 緑山輝和がすべての犯行を認めたことで、色命会を巡る一連の事件は幕を閉じた。青坂署の智恵藍と朝倉常長は二人で、捜査協力者であり、犯人の目撃証言に関する謎を解明してくれた博士の元を訪れていた。

「駒込博士、この度はありがとうございました。これ、心ばかりのものですが」

 そう言って藍は、仰々しく紙袋を手渡す。駒込はそれを受け取って中身を一瞥すると、そのままそれを突き返した。

「乳糖不耐症なんです、洋菓子全般は食べられません」

 駒込は、感情が素直に言葉に乗るところがあるようだ。今の発言からも、その怒りと落胆がありありと伝わってきた。

「あの証言からどのように犯人を特定したか詳しく知りたい、ということでしたよね」

「はい。博士が仰っていた犯人の目撃証言に関する仮説について報告書を書きたいので、より詳細に教えていただきたくて来ました」

「……では、こちらを見てください」

 そう言うと駒込は、何時ぞやか講義の次回予告で使った例の模様を見せた。そして同じように、模様を黒枠で囲ったものも見せ、先ほどまでは見えなかった白い文字を見せた。藍も朝倉も、これにはただ驚くばかりだった。

「人間は、図地判別というものを行います。我々は普段から白い紙に黒い文字が印刷された光景に慣れているので、先ほどの画像を見た時に、無意識に黒い模様に意味があると思って見てしまう。だから目の前にずっと書いてあった、白い文字を見落とすんです」

「なるほど。これと同じことだということですか」

「それだけではありません。藍さんから話を聞いた時、私は疑問に思いました。何故証言者全員が、犯人の体に付着した血のことしか覚えていないのか。確かに目の前に現れた人間が血塗れなら、それは強く印象に残るでしょう。しかしほとんどの人が全く同じ反応をするなら、そこにはより血を印象付けるような、別の心理的要因があると考えたほうが自然です」

「心理的、要因?」

「そう。先ほどの画像のような、ほとんどの人間が同じミスを犯してしまう原因です。それは、つまるところこういうことだったんですよ」

 駒込は、パソコンのキーボードを力強く叩いた。そこには、緑地に赤の模様がランダムに並んだ画像が表示されている。

「うわっ、なんですかこれ。なんかすっごい目がチカチカするんですけど」

「私も」

「色は組み合わせによって、強調されして見えるんです。まあ、錯視画像の鉄板ネタです。今回のものはその中でも補色効果と呼ばれるもので、補色が並んだ時に色が強調されるんです。更にその色の彩度が同じだとハレーションという、目がチカチカするような感覚を覚える現象を起こします。これは見ている側にストレスを与えるので、情報の負荷が大きい。負荷が大きいということは覚えておくのも大変なので、記憶する時に無駄だと判断した情報を落としやすくなる。暗がりなら、緑より赤の方が目立つでしょう。先ほどの画像で黒い模様にばかり注目してしまったように、ほとんどの証言者も特に目立って見えた赤、つまり血についてばかり記憶したんです」

 そう言うと駒込は席を立ち、冷蔵庫にあったタッパーからコーヒー豆を三掴み程してミルに入れた。そして洗面台に移動し、脇に置いてあった電気ポッドのスイッチを入れ、その横で立ったままミルの取っ手を回し始めた。ミルは駒込の背中に隠れて見えなかったが、そこから豆の潰れる鈍く渋い音が聞こえてくる。加えて、コーヒーの香りが研究室いっぱいに広がった。

「なるほど。このハレーションが原因で、すべての証言者が同じことを言った。それに気付いたから、教授は犯人が分かった。こういうわけですか」

 朝倉がそう言うと、駒込はミルを回していた手を止めた。

「今の発言には、二つの間違いがあります。一つ目は、私の根拠がハレーションにあるという部分。二つ目は、すべての証言者が同じことを言ったという部分です。証言者の中にただ一人だけ、血塗れ以外のことを証言した人はいたんですよ」

「え、なにを言ってるんですか。五人の証言者は皆、犯人が血まみれだったと――」

「証言者は五人ではなく、六人です」

 そう言って駒込は、二人の前に一冊のスケッチブックを置いた。朝倉がそれを手に取って、付箋が付いた部分を捲ってみると、クレヨンで描かれたチューリップの花畑が現れた。

「それは、三枝幸さんが書いたものです。彼女はこれを僕に見せる時、満面の笑みで、を描いたと言いました」

「は? これはどう見てもチューリップでしょ。どういうことですか」

「幸ちゃんの証言について考える時、私は重要なことを忘れていました。それは彼女がまだ四才であり、発達段階の途中にあるということです」

「つまり幸ちゃんは、チューリップのことをサンタと呼んでいた? でも、緑山の姿からどうしてチューリップなんて考えたの」

「きっと血まみれの犯人を見て、赤からチューリップを連想してサンタと言ったんですよ」

「では、次のページをめくってください」

 駒込がそう言ったので、朝倉は渋々次のページをめくった。そこには、サンタと聞いて誰もが最初にイメージする、赤い服に身を包んだ白髭のおじいさんがいた。

「それは私が、サンタさんを描いてほしいと彼女にお願いした時のものです」

「え。駒込博士、これは一体どういうことですか」

「はい。このことを考えるのにはまず、言葉が発達する際に特徴的な二つの要素を考える必要があります。アブダクション推論と誤学習です」

 そこまで言って駒込は、いつの間にか淹れていたコーヒーを一口啜った。

「例えば、子供が絵本でショベルカーという言葉を覚えたとします。その子は絵本を開く度にその絵を指してショベルカーと呼ぶので、周りの大人は、その子がショベルカーの意味を理解したと思うでしょう。しかし、やがてその子はショベルカー以外の働く車に対しても、ショベルカーと呼ぶようになりました。これが、まさしくアブダクション推論です。この子は特定の絵に結び付いたショベルカーという言葉から類推し、黄色くて大きいタイヤのついたものをショベルカーと呼ぶのだろうと考えたんです。結果は間違いですが、それを周りに訂正されれば、また新しい言葉を学べます。こうして、子どもの言語は発達していくんです」

 藍はかつて母親から、自分が小さい時は、犬のこともニャーニャーと呼んでいたと言われたことを思い出した。

「ですがこの間違い、修正するのが難しい場合もあります」

 そう言うと駒込は、自身が持っているマグカップを指さした。

「朝倉さん、これは何というものですか」

「え……マグカップ、ですよね」

「なるほど。では私は、今マグカップを飲んでいるということですね」

「はい?」

「今のことを説明すると、こういうことです。朝倉さんは私がマグカップを指さしていると思って答えましたが、私はコーヒーについて質問したつもりでした。そのため私は、この飲み物の名前をマグカップというのだと誤認したんです。このように、時として子どもが指さしているものや興味を持っている物が分からない時があります。そしてこのやり取りがずっと繰り返されると、私はコーヒー=マグカップだということを完全に記憶してしまい、日常生活でも使うようになります。これが、誤学習です」

 藍と朝倉は、ただ黙っているだけだった。

「幸ちゃんはとあるものを、さんたと言うのだと誤学習したんです。それはクリスマスの町中に溢れているもので、サンタと並んで展示されるもの。特定の物体ではないから、中々気付きにくいもの――赤と緑の組み合わせのもの全てです」

 朝倉のオーバーリアクションが、研究室に轟いた。

「幸ちゃんは緑と赤の飾りに興味を持って尋ねているのに、お母さんはその隣にあるサンタの絵について訊かれているのだと思い答える。恐らくはクリスマスの町中で、こんなやり取りが何度もあったのでしょう。形や物が違っても、お母さんはそれらをサンタと呼んでいる。それらの共通点は色だ。そんな推論を経て、幸ちゃんは。そんな彼女にとって、緑の服に赤い血をつけた犯人の姿はさんたと表現するにふさわしいものだったことでしょう。しかし我々にとってのサンタは、赤服のおじいさんです。そこで齟齬が生まれ、今回のようなことが起きてしまったんです」

「だからチューリップのことも、さんたって呼んだんだ。赤い花に、緑の葉っぱだから……でもよくそんなことに気付きましたね」

「――いえ、私はもっと早くに気付くべきでした」

 そう言って駒込は、少し冷めたコーヒーを啜った。

「幸ちゃんと話したなら気付いたと思いますが、彼女はママ以外の人を対象にした言葉には、んです。そんな彼女がサンタクロースにだけ、さんをつけないのはおかしいことだったんです。このことに気付けば、彼女の言うが、私たちの思うとは別物だと分かったはずなんです」

 肩を落とす駒込を見て、藍は最初に警察署でした、幸の発言を思い出した。


「ママ、もうとのはなしはおわったの?」

「さちちゃんね、あのと、あそんでたの」

「ようちえんでね、がおこったんだ」

、かわいいおなまえ!」

「うん。がはしってるのみたよ」


 藍もまた、この違和感に気付かなかった自分のことを責めた。

「私も、全く気付きませんでした」

「いや、あなたは恐らく違和感を持っていたんだと思います。直感とは、正しい推論が無意識の中に隠れ、結論だけが意識に現れること。つまり、直感で幸ちゃんの証言が重要だと判断したあなたは、誰よりも早く正解に辿り着いていたということです」

 駒込は優しく微笑えみ、三度コーヒーを口に運び、一気に飲み干した。そしてこちらに背を向け、洗面台でマグカップを洗い始める。もう話は終わったと、態度で伝えているようだった。

「駒込博士、今回はありがとうございました。また何かありましたら、ご協力お願いします」

「まあ、研究に支障が出ない程度なら協力しますよ」

 藍と朝倉は、研究室を後にした。

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犯人はサンタ 佐々木 凛 @Rin_sasaki

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