第3話 気付く

 国際関東大学、それは日本が誇る世界有数の最先端科学の研究がなされる場所。そんな大学の今後の心理学分野を引っ張っていくだろうと期待されるのが、駒込英光だった。彼はまだ三十五歳という若さだが、その見識の深さと独創的な発想力は他者の追随を許さない。ここ数年で十本の革新的な論文を発表しているほどの、まさしく天才と呼ばれるにふさわしい男だった。

「かくして、AIの研究が進むのに比例して、人間の認知に関する研究も進んでいった。そして内部表現などといった、革新的な考え方が生み出されるようになったんだ」

 そんな男でも、准教授として大学に所属している以上、学生たちの教育活動にも携わっていかないといけない。今は、専門分野である認知科学に関する講義を行っているところだ。駒込のネームバリューが凄まじいので、心理学部に所属する学生の七割が受講する超人気講義となっている。加えて、聴講生の数も他の講義に比べて圧倒的に多い。

「つまり認知科学の結論は、我々人間は誰一人として、全く同じものを見ているわけではないということだ。二人の人間がリンゴを見た時、一人は青森県民でその品種に着目するかもしれないし、もう一人は昆虫学者でそのリンゴにある虫食いにのみ興味を惹かれるかもしれない。物理的に見れば、二人は同じリンゴを見ていることになる。でも、前者はリンゴの色や艶等の果実全体を見ているのに対し、後者は虫食いの穴のみを見ている。この二人が同じリンゴについて語っても、その話が嚙み合うことは無い。そうでしょ?」

 今日も駒込の軽快なトークにより、難しい認知科学の世界が噛み砕かれて、学生や聴講生に届けられる。大講義室全体に、納得感が広がっていく。その場にいる誰もが、首を縦に振る。それを見届けると、駒込はパソコンに視線を落とした。

「それでは、今日の講義内容はここまでです。次回取り組む内容をお知らせします。スクリーンに注目してください」

 駒込の言葉に応じて、大講義室にいる全員がスクリーンへ視線を向けた。しかしそこには、ランダムに並んでいるとしか思えない黒い模様があるだけだった。誰もその真意を読み取れないのだろう。駒込以外の全員が首を傾げている。

「なんと書いてあるか、分かりませんか。では、これならどうでしょう」

 そう言いながら駒込は、パソコンのキーを強く叩いた。するとタイピング音とほぼ同時に、講義室の中に感嘆の声が響いた。スクリーンの変化としては、先ほどの黒い模様が黒枠で囲われただけである。だがそこには確かに、先ほどまでは全く見えなかった『サクシ』という白い文字が書かれていた。

「人間は何かを見る時、無意識に図地判別というものを行います。詳しくは次回の講義で説明しますが、要するに、最も重要だと思う要素にだけ注目し、他を背景と考えて適当に見るようなものだと思ってください。現代に生きる私たちは、白い紙に黒い文字が印刷されているのに慣れています。だから先ほどの画像を見た時、無意識の内に白を背景、黒を図と判別してしまったんです。結果、最初から書いてある白い文字を読めなかった」

 駒込はそこで言葉を止め、講義室全体の様子を見渡した。そこには六割の目を輝かせて聞く学生、三割の疑問や反論が思い浮かんでいそうな学生、一割のまだ何も理解できていなさそうな学生の姿があった。駒込はいつも講義の最後に次回予告をし、その時の学生の様子から次回の講義内容を考える。今回の様子なら、多少説明を省いてより詳細な説明をした方が良さそうだ。

 駒込がそう判断して微笑むと、丁度講義終了を知らせる鐘の音が鳴った。全員に最後の挨拶を済ませ、パソコンなどを片付けていると、十名ほどの熱心な学生たちが質問にやってきた。この講義では、毎回恒例の出来事である。

「悪いけど、今日は先約があるから、質問はオフィスアワーによろしく」

 そうして断りを入れ、駒込は講義室を後にした。研究室に戻ると、そこには既に三枝静子と幸の姿があった。幸は右手で赤のクレヨンを握りこみ、一心不乱にスケッチブックへ何かを描いている。

「わざわざご足労頂いて、申し訳ありません。遅くなりました」

「いえ、先生のためなら大丈夫です。あれから警察も大人しくなって、この三日は静かでした」

「それはよかった」

「でも、少し申し訳なく思う気持ちもあるんです。昨日のニュースで、またあの宗教に関係していた人が……っていうのを見て、私たちがもっと協力してたら、それを阻止できていたかもしれないって思って」

「仕方がありませんよ。それに、警察に任せていたら、幸ちゃんが追い詰められていたかもしれない。人が亡くなることも取り返しがつきませんが、子どもの頃に心に傷を負うことも、同じ取り返しがつかないことですから」

 駒込の言葉に、静子は安堵したような表情を浮かべながら涙を流した。静子の警察に対する態度はきついが、それは幸のことを思う親心からなされるもので、本気で殺人犯が野放しになっていいと思っているわけではない。

 僅か五日間。その間の苦悩や葛藤は、想像を絶するものでだっただろう。早く犯人を捕まえて、その呪縛から解放してあげたい。その思いが日に日に、駒込の中で大きくなっていた。

「あ、ひでさん。いつのまにそこにいたの」

「幸ちゃん、こんにちわ。今来たばっかりだよ。ところで、何を描いてたの?」

「さっきこうえんでね、さんたみたんだ。だから、それをかいたの」

 幸の言葉を聞き、駒込は背筋が凍る思いだった。捜査協力者になったあの日、髪の毛がぐちゃぐちゃの刑事からある程度の話は聞いた。そう、幸がを見たと、警察に証言していることもだ。そんなサンタが再び幸の前に現れたということは、警察の情報が洩れて口封じに来たとしか考えられなかった。

 差し迫った危険。幸の笑顔が、今は苦しかった。

「……そう、なんだ。じゃあ、見せてくれるかな」

 絵を見れば、犯人が分かるかもしれない。そう思った駒込は、幸に両手を差し出しながら絵を見せるよう頼んだ。幸は満面の笑みで「上手にできたよ」と言いながら、こちらに絵を差し出した。

 覚悟を決め、絵を見る。しかしそこには、美しいチューリップの花々が書かれているだけだった。何処にも、犯人らしき人影はない。

「あれ? 幸ちゃん、何処にサンタがいたの」

「ぶっぶ~。せんせい、それはまちがいです」

「え?」

「どこに、じゃないでしょ。どこに、でしょ。ほら、ここにあるでしょ」

 幸が絵を指さしたところで、自分たちは大きな勘違いをしていたのだと駒込は気付いた。


 その頃、青坂警察署は騒然としていた。今日また、教団関係者が殺害されたのだ。これで殺害されたのは三人となり、遂には捜査本部が置かれることとなった。

「苦住衛稔、仲代大輔、藤壺紫。色命会の関係者が、立て続けに三人も殺害されている。一件目で多数の犯人目撃情報があったのに、このざまだ。このままでは、警察の面目が丸つぶれだ。なんとしても、早急に犯人を検挙せよ!」

 捜査一課長が檄を飛ばす。会議室内は、とんでもない緊張感に包まれた。そんな時、間抜けで軽快なメロディが流れ始めた。その場にいた全員の視線が、藍に注がれる。藍は肩を最大限まで上げて申し訳そうに頭を下げながら、スマートフォンの画面を見た。そこには、駒込の名前が書かれている。

「捜査会議中に鳴らしたんだ、よほど重要な内容なんだろうな。ここで出ろ」

 捜査一課長が、睨みつけながらそう言った。マナーモードにし忘れただけなのに、どうしてこんな仕打ちを受けないといけないのか。藍はそう思い、駒込の話す内容が事件解決に繋がることを願いながら応答ボタンを押した。

「はい、智恵藍です。はい……はい……え、犯人が分かった!?」

 突然の藍の発言に、会議室は騒然とした。

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