悪魔の名前は


『待っていたぞ、アルヴェェェン』


 悪魔の右手が私に、左手が烏丸さんに向けられる。

 烏丸さんが咄嗟の判断で和奏さんを手放し、私は全身に力を込めた。


 ドンッという正面からの衝撃。

 たたらを踏むように後方に追いやられる。一方、烏丸さんは体を飛ばされて部屋の壁に打ち付けられていた。


 私は体勢を立て直して、十字架のネックレスを握る。

 でも悪魔はすぐそこにいて、また私の体に念動力サイコキネシスの塊が放射された。


「うっ」


 足がもつれて私は廊下に倒れる。


『アルヴェェン。人間の分際でよくも俺を檻に閉じ込めてくれたな。あれは苦痛だった。この代償をどうしてくれようか』


 そこに追い打ちをかけるように、悪魔の念攻撃が重ねられる。強い力で押されたように廊下を転がる私は、落ちていた額縁を拾うと悪魔に――、


 投げれない。悪魔は悪魔であってもその体は柚葉さんなのだ。万が一にも体を傷つけることがあってはならない。私は悪魔に背を向けて走る。その背中に衝撃が加わり、私はもんどりうつようにして柚葉さんの部屋に飛び込んだ。


 悪魔が小首をかしげて自分の右手を見ている。

 するとその顔に、明らかな苛立ちを貼りつけた。


『おかしい、俺の力が効いていない? お前が神父と違うのは分かっていたが、これもそのせいか』


 私が、然してダメージを受けていないことに疑問を抱いているのだろう。


「さあ、どうかしら」


 悪魔が犬のように柚葉さんの鼻をひくつかせ、臭いをかぐような仕草を見せる。


『くせぇ、やっぱりくせぇ。この、俺を甚だいらつかせる臭い』悪魔がはっとした表情を見せる。『まさかお前……守護聖人の生まれ変わりか?』


「だとしたらどうする? 白旗上げて降参する? 今すぐ柚葉さんを返してくれれば、お前を祓う必要はなくなるのだけど」


 生まれ変わりではない。私は守護聖人ビルギッタ・ビルゲンスドッテルによる恩恵を受けたにすぎない。だけど宿っているものは、ビルギッタの聖凱せいがいそのものであり、悪魔はそれを嗅ぎつけたようだ。


『調子にのるなよ、アルヴェェン。守護聖人だろうが、天使だろうが、神だろうが、この俺が怖気づくことはない。俺が怖いのはな、憑りついた人間が絶望と恐怖と苦痛の中で死んでいくその様を見れなくなることなんだよ。さあ、お前はどんな感情を見せてくれるのだ?』


 悪魔が廊下をひたひたと歩いてくる。

 その落ち着いた動作を見るに、悪魔は気づいてない。


「もしかして袋小路に追い込んだとでも思ってる? 飛んで火にいる夏の虫っていうことわざは知ってるかしら? お前が今、そうなのだけど」


 私は、柚葉さんの部屋のラグカーペットを端からめくり上げる。そこには敷物シリーズ第三弾の〈喚水の門〉。二階にも仕掛けておいたのだ。私は左手で〈喚水の門〉を触れると、聖水で退魔効果が上昇した十字架のネックレスを悪魔にかざす。


「ミカエルよ。勇気と正義を司るミカエルよ――」


『それはッ! アルヴェェェェンッ』


 私が何を行うか気づいた悪魔が、憤怒の形相を浮かべ猛進してくる。――が、その勢いはすぐに失われ、眩い陽光を嫌がるヴァンパイアのように両手を前にかざした。


「儚き地上の子羊を、その勇敢なる御心でお守りください。その強き御業で、どうか闇の軍勢の者に聖なる鉄槌をお与えください」


『ぐおおぉ、忌々しい能力を使う奴め。その首、ねじ切ってやるッ』


 悪魔が、それでも私のほうに一歩一歩と進んでくる。


「ミカエルよ。神の如き天軍の軍団長よ。邪悪な存在に脅かされる神の仔をどうかお守りください。天界から堕ちた罪深き悪魔を、どうかその御力で断罪してください。あなたの勇猛なる精神でどうか断罪を。私はその剣撃の御力を望みます」


 悪魔が扉に手を掛ける。

 でもそこまでだ。すでに天使顕現の詠唱は終わっている。


 荘厳なる雰囲気が部屋に満ち、悪魔の放つ瘴気が霧散する。部屋の壁と天井を暗影としたミカエルが飛翔して、悪魔の上で手に持つ天秤を揺らした。魔を表す赤い皿が下がり、その罪が決定する。〈抜かれし断罪の剣〉が悪魔に振り下ろされた。


『があああぁっ』


 悪魔が身をよじり、扉から離れる。

 一切の慈悲なく、追い打ちをかけるミカエル。

 斬られるたびに苦悶の声を上げ、悪魔が後退していく。やがて辛抱できなくなったのか、遁走していき左方の部屋に飛び込んだ。


「待ちなさいっ」

 

 私は立ち上がり、悪魔を追いかける。

 今や、この春夏冬邸全てがミカエルの領域みたいなもの。どこに逃げたって、ミカエルの攻撃から逃れることはできない。悪魔が完全に沈黙するまで。


 私は悪魔が逃げた部屋に飛び込んだ。ほとんど物が置かれていない例の部屋。割れた窓の前に悪魔は立っていた。


『追いかけてこい。おれを祓いたいならな』


 悪魔が、伸ばした右手のてのひらを握りしめる。

 窓から外に飛んだ悪魔を視界で捉えた瞬間、突然閉まった扉に私は吹き飛ばされた。


 咄嗟に腕で防いで扉の直撃は避けれたものの、廊下を挟んだ反対側の壁に背中を強打。圧迫された肺の苦しみから、思わずうめき声が漏れる。


「莉愛っ、無事かっ?」


 駆け寄ってくる烏丸さん。

 かなりの勢いで壁にぶつけられたはずなのに、けろっとしているのは、やはり鋼の肉体の持ち主だからだろうか。私もあやかりたい。


「ええ、ちょっと苦しいけど大丈夫。和奏さんは?」


「和奏さんには部屋にいてもらってる。もちろん鍵も閉めてな。それと、柚葉さんがあんなことになったのは全て自分のせいだと責めはじめたから、諸悪の根源が内藤さんであることを話しておいた。莉愛はその事実は知っているか?」

 

 私は首肯する。

 和奏さんは罪悪感から解き放たれるだろうか。悪魔を召喚できてなかったとはいえ、望んだという事実は消えない。彼女がそれを呪縛として生きるかどうかは、私が柚葉さんを救えるかどうかにかかっている。


「私は春夏冬家を必ず救います」


 春夏冬家の、難局を乗り越えた先の素敵な未来が見えているから――。


 私は窓の元に走り、悪魔を探す。

 探すまでもなく奴はいた。

 庭園の中に立ち、薔薇の香りを嗅ぐような仕草を見せている。悪魔に花の匂いを楽しむ感性などない。僅かな興味が人間の真似事として発露しているにすぎない。


「お前を待ってやがるな。どうする?」


「誘いに乗るしかないでしょう。焦らせば最悪の行為に出る恐れがありますから」


 最悪の行為とは、悪魔が柚葉さんの体を傷つけること。想像したくもない。

 私は部屋から出ると外へと向かう。烏丸さんの声が背後から飛んできた。


「おい。焦らすって、もしかしてまだ悪魔の名前が分かっていないのか?」


「ええ。ただ首尾よくいけば今頃――」


 玄関に辿り着いたところで、玄関扉が開く。琉翔さんだ。


「あんたか。良かった。柚葉が――いや、悪魔が外にいるんだがどうなってる?」


 琉翔さんに説明している余裕はない。逆に私は問う。


「頼んでおいたことはやってくれましたか?」


 私は琉翔さんにあることを頼んでいた。

 それは中断していた、悪魔の名前の探り当てること。


 柚葉さんを支配している悪魔は、一九八七年に一度、祓われている。なのでまず、柚葉さんが夢で見た〝カラフルな街並〟を検索エンジンで検索。次に、いくつかピックアップした〝カラフルな街並〟を一九八七年という年代と共に〈聖撃の使徒の会〉データベース上で検索。そうすれば誰が以前、柚葉さんに憑いている悪魔を祓っているか知ることができるという寸法だ。


「ああ、やっておいたぞ」琉翔さんが手帳を取り出す。「ポーランドのポズナンって都市がそうだ。そこで一九八七年に悪魔祓いが行われている。悪魔祓いを行った神父はマヌエル・ガッティって人だ」


「祓った悪魔の名前は?」


 神父の名前まで分かれば間違いなく悪魔の名前も判明している。

 私はそれが早く知りたかった。


「悪魔の名前は、フールフールだ」 

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