三章『境界のない海で』 その三

「それにさ……せんせぇも、わたしのやつ保存したでしょ?」

 得意げな笑みで見透かしてくる。

「してない」

 ノーノーと首を振る。

「せんせぇがえっちなのもうバレてるから無理だよ……」

「そういうの、言わないの……学校で……」

 これから戸川さんとやろうとしていることを考えたら、なにを言っているのだろうという感じだった。

「せんせぇ、教室でもわたしの方見ないようにしてるよね」

 かーわい、と戸川さんが頬にくっつけた指で軽く掻いてくる。掻かれた部分がチリチリする。

「目が合うと微妙な空気を醸しそうだから」

「そうかも」

 前は合っても自然と離せたそれを、勿体ないなんて感じて粘りそうだった。

 その不自然さが綻びを生むかもしれないのだ。

「わたしはせんせぇのことじっと見てても平気だから、お得だね」

「……そうかもね」

 授業中も戸川さんからの視線は常に感じていた。他の子のそれとなにが違い、明確に感じ取れるのかは分からない。そしてその戸川さんの視線は私が黒板に向いているとき、お尻に注がれていることを知っていた。だから、板書している間に赤面して、それを戻すのに最近必死だ。

 お尻を見るのをやめなさい、なんて注意、面と向かってはなかなか難しい。

 あと、終わっているけど、戸川さんが私を魅力的に感じてくれているなら……悪い気は、しなかった。他の人にされたら嫌なことが、反転するように許容できてしまう。

 こういう感情の名前を見つけそうになって、慌てて、現実逃避した。

「お昼食べましょう」

「そーだね、時間ないし」

 時間。昼休みは始まったばかりなのに、時間が惜しい。

 後に控えているもののために。

 私もだけど、戸川さんも大概……思春期だ。

 戸川さんはいつもどおりおやつみたいな昼食で、私も簡単なお弁当。

 それと。

「はい」

 お弁当は、夫とほぼ同じ内容だけど一つだけ異なるものがある。

夫のより多く入っている、卵焼きを摘んで差し出す。

 首を伸ばす戸川さんの口元にそのまま運ぶと、嬉しそうにくわえていった。

 以前、戸川さんになにか食べるかと聞いてみたら卵焼きを選んで、それからはこうだった。

「せんせぇの卵焼き、おいしいよね」

「甘さ、それくらいでいい?」

 戸川さんは甘めの味付けが好きだと言うので、色々試している。

 思えば、料理をするとき特定の誰かに向けることを意識するのは初めてかもしれない。夫は大体なんでもおいしいと言うし、自分は言わずもがなで、言い方はなんだけどぼんやりしたまま作ってきたことに気づく。自分が覚えた手順をただなぞって、それ以外あまり考えず。

 戸川さんのために作ってきた卵焼きをおいしいと言ってもらえるのは……くすぐったい。

 次はああしようこうしようって未来を思える。

 これまでもそうだけど、戸川さんには教えられることばかりだ。これが単なる教師と生徒であったら、どれほど美しかったか。だけど私たちは普通に収まれなかったので、私が食べ終わるのを待ちわびていた戸川さんの唇が、優しく迫ってくるのだ。

「……する?」

 女子高生のそのいざないと脳を掬うような声に抗えるものは、ここにはいなかった。

 私たちはどちらも嘘つきだ。

 どっちも、忘れるなんて無理に決まっていて。

 こんなところを誰かに見られたら、そこで私は終わる。戸川さんは……どうなのだろう。下世話な目で見られはするとしても、被害者に留まれるのかもしれない。賭けているものの重さはお互いでかなり違うことを合意のうえで、私たちの秘密が始まる。

 入口の鍵をかけると、戸川さんが床に直接座って手招きしてくる。そこに付随する笑みはまさに蠱惑的と表するのが適切であり、唇の向こうにうっすら見える歯の白さに胸がかき乱される。肩と足が罪悪感から重くなり、それでも吸い寄せられるように歩みが止まることはなかった。

 戸川さんの足の間にゆっくり腰を下ろす。そうすると戸川さんはまず、私を背中から強く抱きしめてくる。戸川さんの髪と香りが波のように私へ押し寄せて、心臓を引き絞る。

 絶対に伝わってしまうくらい早まった鼓動を愛おしむように、戸川さんはそのまま、私に身を寄せる。ゆりかごに収まるように、目を瞑って。私は強く抱き寄せてくる戸川さんの腕に自分の手を添えながら、ただそれを受け入れる。

「せんせぇ……」

 いつも、戸川さんはそうやって私を呼ぶ。呼ぶだけだ。その続きにあるものを口にするのを、懸命に堪えるように。私はその続きを知っている。模範解答できる。でも、見ないふりをする。

 一度それを交わしてしまえば、歯止めが利かなくなりそうだから、先延ばしにしている。

 抱きつきがほんの少し緩むと、いよいよ本番が来るので肩が強ばる。

 戸川さんの白い指先が、真新しいマニキュアの目立つ爪が、私の胸を掬い上げる。スーツ越しでも、間に下着を挟んでも、背中にぞくぞくしたものが走る。足が引きつるように跳ねて反応する中に、嫌悪感はなかった。むしろ迸る緊張の中で、待ちわびているようだった。

 服の上で、戸川さんの指が挨拶のように軽く動き回る。動きに合わせて真っ先に反応するのは首筋で、その震えを感じ取った戸川さんが首を舐めるように唇をくっつけてくるものだから余計に敏感になってしまう。

 準備運動を終えたように、戸川さんの手の動きが大胆になっていく。こちらも肌が火照り、まばたきをする度に火花のようなものが目の中で散る。戸川さんの指が私の胸をしっかりと、確かめるように掴むのを感じると額から血が流れるように錯覚した。

 正面の教科準備室の扉を、とても遠くに感じる。

「これから教壇に立つせんせぇが、お昼休みにおっぱい揉まれてるなんて……真面目に授業して教科書を開いてるせんせぇが、こんな顔してたなんて……誰も思わないよね」

 なによりこの戸川さんのささやき声が、私の許容量を遥かに超える一助となっていた。

 今のところ、服の中にまで手が入ったことはない。

 それはなにかに言い訳するような、中途半端な淫猥だった。

「わたしだけだよ、知ってるの……わたしだけ……ね? せんせ……」

 時折覗かせる独占欲に、生々しく、汚い感情が湧きあがる。あくが強く、噛みしめるだけでも一苦労するような、しつこい後味の気持ち。自分にあることを知らなかった、充足。

「戸川さんだけ……」

 反芻するように肯定する。そして溺れているように顎を上げて、乾いた呼吸をこぼす。

 最初は、欠けた母性を拗らせているのかとも考えた。でも、違う。

 この子は明確に、私に性的な興奮を抱いている。私を求めている。

 そして私はそれを、受け入れてしまっている。同質の、興奮と共に。

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