想像の翼を広げた先に、目を見開いたその先に、ペンギンはきっといる

 可愛いは正義。それは、もれなくペンギンにも当てはまることで。その魅力を余すことなく語れと言われれば、いくらでも語ることもできるでしょう。まぁ現代では、ネットで検索をかければお手軽にペンギンの情報を文字通り、投げ網漁のごとく大量に引き寄せることができますが。……もちろん、ペンギンの姿を実際に見ているかどうかは関係なく。
 主人公もその一人で、ペンギンをどんな形であれ一切見たことがない……家庭事情を鑑みれば仕方のないことと思いつつも、そんな事情は同年代の子供たちにとっては些事に過ぎず。主人公からすれば、思わず匙を投げつけたくなるような衝動に駆られたことでしょう。
 そんな中訪れた一縷の望みにして、一筋の光のようなチャンス。『南極物語』。が、肝心のペンギンの存在は、そりを引く犬のように、『犬』そのものに引っ張られ……伸るか反るかで言えば、結果的には反ってしまったわけで、なんとも無念な結果に……。乗る(伸る)のは犬が引くそりではなく、ぺちぺちと可愛く氷の上を闊歩するペンギンの姿をテレビ越しに目撃することだったのですから。
 しばらくして、ひょんなことから『ペンギン』という単語を耳にした主人公。記憶の奥底に閉じ込めた好奇心の蓋が、今か今かとカタカタと鳴っているような気がして、とてもワクワクしながら読み進めました。……と思っていた次の瞬間。
 えっ……ペンギンを買い忘れた……。それまでカタカタと鳴っていた好奇心の蓋が途端に鳴りを潜めてしまったような感覚に陥りました。
 さらに時が流れ、すっかりペンギンが空想上の生き物になってしまった主人公。「知らない」から「知っている」へは無情にも一方通行で、今はまだ主人公の中では『ペンギン』という固有名詞だけがペタペタとその足跡をつけて回っているのでしょう。
 悪魔の証明ならぬ、ペンギンの証明。「いない」ことを証明することは絶対に不可能で、自分が世界中のありとあらゆる場所を捜索し尽くせば、ペンギンがいないということを立証できるのか。(ヘンペルのカラスならぬ、ヘンペルのペンギン)否、それは詭弁であり、想像の翼はどこまでも自由に広げられるべきであり、視野狭窄に陥るのは、夢を狭めるのと同義で。
 彼の中のペンギンは、ふわふわとした心地のままに自由の翼を広げて、もしかすると空を飛んでいても不思議ではありませんね。その目で『ペンギン』を見るまでは、どんな知識を入れようとも、それはただの空想であり、夢物語でしかないのですから。

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