乾いた心を癒して満たす水。その水は、透明で温かい。溢れて、溶ける。
- ★★★ Excellent!!!
なぜ山に登るのか? なんてよく耳にするけれど、そんな愚問の答えはたった一言。
「そこに山があるから」に他ならない。勿論、登山家である僕も例外ではない。
山を舐めてはいけない、なんてよく耳にするどころか、登山家にとっては当たり前の話なのだけれど、エベレストは当たり前のように『カベバシリ』させてはくれなかった。見通しが甘く、詰めが甘かった。
自分がその山肌に爪を立てんとするエベレストは、まさに獣のそれであり、僕の爪など孫の手よりも優しく感じられるのだろう。そんな山肌に心折られ、早三日。高山病。これもまた、山に登るものを苦しめる要因の一つ。エベレストの標高、約八八四八メートルを考えれば、二〇〇〇メートルは高山とは言えないのだろうけれど、されど二〇〇〇メートル。志だけでも高く持って、もう登頂に成功している気分にでも浸りたい。
そんな僕を気遣って、薬をくれた下宿先の奥さん。良薬は口に苦し、といえどもむしろ今は、苦い方が刺激になるのではないか、と思うあたり中々どうして僕も追い詰められているのかもしれない。だからこそ、願掛けをした。心身共に、下宿先よりも下に降りてしまうことだけはどうしても避けたかった。
できれば、この冷たい井戸水も避けたかったのだけれど、そんなこと口が裂けても言えないどころか、そもそも他に選択肢がないので仕方がない。優柔不断を薬と一緒に飲み込んで、もう腹の中では「行くか、退くか」の戦いが始まっているのだろうかなんてことをぼんやりと考えた。これは決して他人事じゃない、自分事だ。自分軸で、判断することだ。抜けた芯の代わりに新しい芯を通す一夜を。
耳元でささやく声。自分の状況からして精一杯の反応が肯定の返事をすることだった。
僕は今自分がおかれている状況が全く飲み込めない。あれだけ飲むのを躊躇った薬でさえ、結局の所飲み込んだというのに。今の頼みの綱は話しかけてきた女性から得られる情報だけだ。綱というほど太くなく、糸のように脆いのかもしれない。直感でこれだけは絶対に離してはいけないと思った。
夜なのか朝なのか、夢なのか現実なのか。万華鏡をくるりと回すと景色が変わるように、僕も少し首をかしげでもすれば、それがはっきりするのだろうか。少なくとも女性はまだ真実を告げてくれていない。煙に巻かれているみたいで不安だけが募っていく……。
ややあって、悪夢だということが決定した。……いや、悪夢だということが知れたのが朗報なのか悲報なのかは、さておくとしても状況は依然として膠着状態だ。
彼女の状態もとても軽視できるような状況にはないらしい。でも、そんな中でも少しずつ彼女のことが分かってきた。真っ暗闇の中にわずかながら、本当に少しずつ光がさしてくるような、そんな気がした。
返事を考えるのは十までとは中々手厳しい。今書いているこれだって、一行書くのに十秒以上はゆうに越えるというのに。……何を言っているんだ僕は。あまりの悪夢に、現実との境目まで超えてしまったのか? まぁいい話を戻そう。
キョウコさんに話す、自己紹介。テンプレートな質問ばかりだったけれど、初対面の人にする自己紹介なんてこんなもんだろう。……っていや、年齢でどんな感じ? と聞かれたところで答えようがないぞ……。中学生じゃあるまいし「思春期真っ只中です!」みたいに答えるのか……? いや、そんな風に答える思春期真っ只中の子供なんていないけれど。
初めの頃、キョウコさんはエベレストについて勉強をしていると言っていたけれど、なるほど、確かに山についての造詣は深いのだな……って、え……?
言葉も心も奪われたような感覚に陥った。これは決して、キョウコさんに惹かれた、というわけではなく、その衝撃的な言葉に、返す言葉もそこに乗せる心情も、とても十秒では思いつかなかったから。何とか絞り出した回答は、実にデリカシーに欠けていて、続く言葉も追い打ちのように感じられてどことなく自己嫌悪に陥りそうになる。まるで寝付く前の僕そのものだ。優柔不断。
選択肢が存在しないのではなく、そもそも「選択」ができない。気丈に振舞っているキョウコさん。その強さに裏打ちされた秘訣は……。
母の懺悔。真実の告白。エベレストに匹敵するほどの高い山々をキョウコさんは乗り越えて、生きた証をその身に刻むため、エベレストに挑むのだと。
クリス・マーキュリーの手記を携えてエベレストを登っていく彼女の姿を想像すると、苦しみながらも楽しんでいる様子が浮かんできて、それは決して想像に難くない。
今度は僕のターン。僕にとって、十七ってなんだ。十秒という時間が自分を急かす。と、同時に背中を押してくれているような気がして、ようやく自分の思いを吐露することができた。そう、生きていることは苦しい。生きるとは苦しいことだ。全てが苦しい。そこにわずかでも美しさを見出すことなんて、僕にはできない。そんな僕を受け入れてくれたのは山だった。父よりも母よりも、僕を受け入れてくれた山。
それでも、僕は母が心配だった。崩壊していく家庭。父の暴力。母の心身虚弱。
それまで罪の意識があった僕も、そんな粗暴な父の名前で母から呼ばれるのは我慢ができないほどに子供だったのかもしれない。十七歳。まだまだ子供だ。
そんな折、入部した登山部。山だけは決して僕を裏切らない。しかし、部員の家族の話になると、僕は怒りを抑えきれなかった。親との関係性に端を発した一連の出来事はついに、登山にまで及んだ。僕は結局、独りぼっちだった。誰かと同じ時間を共有することの楽しさを見いだせなくなった僕が、唯一魅力を見いだせるものは、頂上からの景色だけになった。……景色って、何色なんだ? とふと思う。
髪を振り乱すように、感情を振り乱して歩く僕の生き方は、キョウコとは正反対だ。キョウコさんが「体」で生きるとするならば、僕は「ボロボロの心」で生きる。……いや、ぼろぼろの心なんて、正反対じゃないな。「正」しくない。
ひとしきり話した僕に、キョウコさんからの提案。といってもそれに乗る気はない。乗りかかった船どころか、乗ってもないし、なんなら山登りに船なんて意味がない。でも、キョウコさんが向こうから船に乗ってやってくるような感覚がある。
キョウコさんが伸ばした手を、僕はまだ握らない。僕は一人が良い。
結局、握り返したかどうかははっきりわからない。それくらい、体の感覚すら曖昧になってきたから。
僕の名を、好きな鳥の名を呼んで、耳を舐めて。そして、一言を残して、旅立ったキョウコさん。立つ鳥跡を濁さずとは言えども、この耳に感じる確かな温もりだけは確かに僕の心を濁していったのかもしれない。勿論、この心の濁りは、どこか心地よい。
あの日の真実。しかし、つい先ほどまでのキョウコさんとの邂逅もまた事実。キョウコさんの思いも背負って僕は登る。キョウコさんは、体を。僕は心を。
砕け散ってしまった、ガラスを。確かに、並べ直しても決して元通りにはならない。
だけど、そのガラス片をかき集めて、溶かして、一枚のガラスにしたならば。
ステンドグラスのように、とても美しい仕上がりになるのではないかと、僕は確信している。今の僕ならば、キョウコさんのガラスも、自身のガラスも溶かせるだけの炎が揺らめいているのだから。まずは、拾い集めたガラスを炉にくべて、万華鏡のようにくるくると回して、互いに溶け合う様をじっくりと眺めるのも乙なものだろう。