僕はペンギンを見たことがない

武石勝義

僕はペンギンを見たことがない

 ペンギンは大層可愛らしいと聞く。

 ちょこんともずんぐりともいえるフォルム、ぱたぱたと振るわれる小さな翼、白と黒の体毛に覆われた身体の下から覗く足はひょこひょこと動かして、氷の上をよちよちと歩く様は、実に愛嬌たっぷりらしい。

 そんな姿形に仕草だから、日本どころか世界中にペンギンをモチーフにしたキャラクターが溢れているそうだ。キーホルダーやぬいぐるみになったりゲームのキャラクターとして活躍したり。おそらく普通に生活している日本人なら、ペンギン由来の何物かを目にしない日はないほどではないかという。

 ペンギンについて語ると「らしい」「そうだ」「という」といった伝言文ばかりになってしまう。

 というのも、私はペンギンというものを生まれたこの方見たことがない。

 先に挙げたように、言葉や知識としては知っている。だが実際のペンギンを目にしたことがない。

 それも生物としてのペンギンに限らない、デフォルメされたキャラクターとしてのペンギンすら、今まで見た記憶がないのだ。いや、もしかしたら実際には目にしているのかもしれないが、だとしたらどういうわけかペンギンについてのみ記憶がすっぽり抜け落ちているのだ。


 子供の頃、我が家は貧しかった。不在がちだった父はろくに家に金を入れず、母は夜の店で働きながら私たちを養い、長男だった私は家事や幼い妹の面倒を見るのに追われて、同年代と一緒に遊ぶ暇などとてもなかった。だから小学校の教室で時折り聞こえる、同級生たちの会話に出てくる単語は耳慣れないものばかりだった。私は彼らの会話に割って入るための共通の話題を持ち合わせておらず、ただ時折り聞こえてくる内容に耳を傾けるぐらいしかできなかった。

 そして会話中にしばしば「ペンギン」という言葉が登場することに気がついた。それが彼らの興じるゲームに登場するキャラクターのモチーフであることを知ったのは、ずいぶん後になってからのことだ。

 もしペンギンって何などと尋ねれば、お前、ペンギンも知らないのかと馬鹿にされることはわかり切っていた。実際、その頃の私はペンギンとはどんなものかわかっていなかった。調べようにも当時はスマホどころかインターネットもない時代だ。情報を仕入れようとすればテレビか本しかなかったが、調べ物のために本を買う余裕などとてもなかった。私が尋ねることのできる相手は、母しかいなかった。

 母は私をペンギンがいるという水族館にも連れていったことがないことに気づいて、申し訳なさそうな顔をした。よほど心残りだったのだろう、ある日母は、今夜ペンギンの出る映画がテレビでやるよと教えてくれた。映画のタイトルは「南極物語」だった。ペンギンは南極に棲んでるっていうから、きっとペンギンも出てくるよと言って、母は仕事に出掛けていった。私は妹の世話をしながら、ちらちらとテレビを見ていたと思う。確かにそれは南極を舞台にした物語だった。だが私の記憶に残ったのは南極に取り残されたかわいそうな犬たちばかりで、ペンギンの姿は少しも覚えていない。途中で寝落ちしてしまったから、最後どうなったのかもよくわからない。


 ペンギンについてはそれからしばらく忘れていた。高校生になると夜は工事現場のアルバイトに明け暮れるようになって、ますます同級生たちと共に過ごす暇もなくなった。幸い職場ではがさつではあるものの面倒見の良い人たちに恵まれて、卒業後はそのまま建設会社に就職するよう誘われていた。

 その頃は母は今までの無理がたたって以前ほど働きづめではいられなくなり、私の稼ぎが家計を支えていた。家事は中学生になった妹が引き受けてくれていた。

 私が深夜遅くに帰っても、妹はひとりで勉強していた。妹は私よりも数段頭が良い。私はなんとか妹を大学に行かせてやりたいと考えていた。

 そんな妹が、ある日珍しく物をねだった。友人たちとお揃いの文房具を買いたいのだという。普段あまりそういうことを言い出さない妹だから、よほど欲しいのだろう。値段を聞けばその程度ならなんとかなるだろうと思って小遣いを渡すと、妹は心底嬉しそうだった。いったいなんのグッズなんだと尋ねれば、猫とペンギンのキャラクターグッズらしい。久しぶりにペンギンという言葉を聞いた。

 私はへえ、とあまり関心なさそうな反応をしてみたものの、実は少しだけ期待していた。未だに私はペンギンを見たことがなかった。家の中にもペンギンと名のつくものは見当たらない。それがたとえキャラクターグッズだとしても、ようやくペンギンの姿形を確かめることができるのだ。いったいどんなものかと思って、妹がグッズを買いに出掛けるという日には、仕事が明けるまでついそわそわしていた。

 そしてついに帰宅すると、妹は待ってましたとばかりに戦利品を見せびらかしてくれた。ボールペン、シャープペン、消しゴム、ノート、シールと、明るい色彩に彩られた文房具類がテーブルの上に広げられる。

 そこに描き出されているのは、どれも可愛らしい猫のキャラクターばかりだった。

 ペンギンはと尋ねると、妹はこの猫のキャラクターがとにかくお気に入りで、ペンギンのグッズを買い忘れてしまったのだと答えた。彼女があんまりに嬉しそうなので、私はがっかりした内心をおくびにも出さず、良い買い物ができたなと笑いかけた。


 その後私は高校を卒業してそのままバイト先に就職した。妹もなんとか大学に進学させることができた。奨学金の払いはそれなりにキツかったが、妹は在学中に成績優秀者に認められる学費免除の資格を取って、これ以上ない兄孝行を果たしてくれた。妹が大学卒業して間もなく母が亡くなると、離婚してなかった父が現れて色々と面倒もあったりしたが、そこら辺は割愛しておく。今は父とはすっかり縁も切れて、大手企業に就職した妹は東京で働いている。 

 そんなこんながあった間も多分、街中やテレビや、いつの間にか普及していたインターネット上などで、きっと私はペンギンを見かけてはいたのだと思う。ただいつまで経っても「これがペンギンだ」として見ることはなかったから、視界に入ってもペンギンと認識できなかったのだ。だから私の世界にはペンギンはいないも同然だった。

 いや、いないというのはまた違うかもしれない。ペンギンという存在は私にとってお伽噺の空想上の生き物と同じで、見たことのない、だけどとても可愛らしい何物かだった。それでもいいかと思っていたし、実際のところペンギンに執着していたわけでもなかった。たまにペンギンという言葉に触れると、そういえばこの年になってもまだペンギンって見たことないなあという事実を思い出す。その程度のことだった。


 そこまでペンギンと縁がないまま生きてきたのに、どうしてペンギンの存在を信じられるのかだって?


 言われてみればその通りだ。ペンギンなんて本当はいないんだろうと、そう考えてもおかしくない。だけどどうしてか私はペンギンの存在自体は信じて疑うことはなかった。だってそんなこと言い出したら切りがないじゃないか。目に見えないから存在を否定するなんて思いもよらないことだ。私の知る世界は狭い。きっとこれから先もそんなに広がることはないだろう。だからって私に見えないところには世界がないとか、そんな考えは寂しいというより、恐ろしい。

 だっていつも疲れてはいたけど優しかった母は、亡くなったらもうその存在を否定されるのか。頼りにならないどころか厄介者でしかなかった父も、縁が切れればこの世界の住人ではないのか。頑張り屋で私を慕ってくれた妹も、私の視界の及ばない東京に行ってしまったら、私にとっては無も同然だというのか。

 そんなことはないということを、ペンギンは気づかせてくれるのだ。たまに私の耳に届くペンギンという単語が、私の世界を広げてくれる足掛かりのような気がするのだ。ペンギンという名を耳にする度に、そろそろペンギンが顔を見せてくれても良いのではないかというような、いつまでも会わないままでもいいのではないかというような、ふわりとした心地でいられることを存外気に入っているのだ。

(了)

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