本編

   

   

“本編”

   

「ここに来ると、来るだけで何だか清々しい気持ちになるなあ……」

 眼下に広がるのは、京都の街並み。人々で賑わう市内の様子を眺めながら、私は大自然の空気を味わうと同時に、用意してきたおにぎりを頬張っていた。


 ここは大文字山の山頂広場。

 毎年8月に行われる五山送り火の『大』の字で言えば、上の横棒に相当する部分だ。

 ただし、この山頂広場は、厳密には『山頂』ではなかった。地元の大学生などが大文字山で遊ぶ場合、ここを『山頂』として引き返してしまう場合も多いようだが……。

 実際には、そこからさらに奥。もう市内の様子など展望できず、右を見ても左を見ても緑の木々ばかり。そんな中を少し歩いて、ようやく辿り着くのが、大文字山の真の山頂だ。

 山頂を越えてさらに数時間も進めば、京都府から隣の滋賀県へ出ることも可能だ。そちらまで歩くのは大変だとしても、大文字山には登山道が色々あるから、例えば京都市をぐるりと取り囲むような、大規模なハイキングコースの一つにも繋がっている。伏見稲荷から比叡山まで続く、全長約25kmの東山トレイルだ。

 まあそちらに入ったら、もはや大文字山の登山とは別物だろうから、それは一例としても……。

 とにかく大文字山は、私にとって、様々な楽しみ方が出来る遊び場になっていた。


 今日の私は、朝から大文字山に入り、午前中のうちに、この山頂広場まで登ってきていた。

 ここで早めの昼食をとり、一休みの後、さらに上へ。ただし真の山頂へ向かうのではなく、今まで歩いたことのないルートを行く、というのを今日のテーマにしている。

 地図を見ながらでは面白くないし、地図アプリさえ目に入らないよう、わざとスマホも家に置いてきたのだが……。


――――――――――――


「すっかり暗くなってしまった……」

 あれから数時間、いやもっと長い時間が経過していた。

 どうやら道を間違えたらしい。私は遭難の真っ最中だった。


 昼間ならば心地よいハイキングコースも、黒い夜空の下では、心細さしか感じられない。

 とはいえ、真っ暗ではなかった。左右に立ち並ぶ木々の存在はわかるし、私の進む先に獣道けものみちのようなルートが続いているのも、かろうじて見えていた。

 暗闇に目が慣れてきたのもあるが、それだけではない。空は雲に覆われて月は完全に隠されているけれど、わずかな雲間に、ポツポツと星がまたたいているのだ。感じられない程度のかすかな星明かりは、山の中まで届いているのだろう。


「腹減った……」

 おなかが鳴る音より先に、そんな独り言が口から飛び出した。

 暗くなってから、かなりの時間が経っている。早めの昼食だったのが災いして、もはや十二時間以上、何も食べていない状態だった。

 空腹を紛らわす意味もあって、いったん私は立ち止まり、ペットボトルに口をつける。固形物でなくても構わないから、とりあえず何か胃の中に入れよう、ということだ。

「いや、よく考えてみたら……」

 ペットボトルに入れてきたお茶も、残り少なくなってきた。こうなると、無駄な飲み方は厳禁だ。

 人間というものは、少しくらい食べなくても餓死しないが、水分が欠乏すれば命にかかわるという。食べ物よりも飲み物の心配をするべきだった。

 ますます不安になりながら、私は再び歩き出す。ここが獣道けものみちだと悟った時点で「引き返そう」と判断してUターンしたのに、あれからいくら進んでも、元の場所には辿り着いていなかった。

 これが「山道で迷う」ということなのだろう。初めての経験であり、とにかく歩き続ける以外に、対策を思いつかないのだった。


――――――――――――


 ついにペットボトルの中身がからになった頃。

 前方がボーッと明るいような気がし始めた。

「おいおい。まだ幻覚が見えるほどじゃないだろ……」

 たった今、最後の水分補給をしたばかりであり、体は正常に機能しているはず。

 自嘲気味に呟きながら、明るい方へ足を進めると……。

 気のせいではなかった。

 暗い山道の中に、はっきりとした光が見えている。

「民家のあかりだ!」

 私は歓喜の叫びを上げていた。

 こんな山奥に家があるだけでも驚きだが、電気がいているということは、無人の廃屋ではなく、人が住んでいるということ!

「おーい! 助けてくれー!」

 恥も外聞もなく大声を出しながら、私にとっての救い主となった家へ駆け寄る。

 近づくにつれ理解できたのは、わらぶき屋根の一軒家だということ。鉄道模型のジオラマでは見たことあるが、実物を見るのは初めてだ。

 今の時代には似つかわしくない建築物だが、そもそもが山奥なのだから、どんなに古めかしい家だとしても不思議ではない、と納得できた。

「おーい! おーい!」

 私が何度も叫んだので、一軒家の住人の方でも気づいてくれたらしい。

 こちらが家まで辿り着く前に、玄関の戸をガラリと開けて、一人の住人が顔を出す。

 濃緑色の着物を着た、白髪頭の老婆だった。

「おや、こんな夜更けにお客様とは……」

 彼女の前まで駆け寄った私は、膝に手をついて肩で息をしながら、事情を説明する。

「すいません、道に迷って……。食べるものも飲むものもなく……」

「おやまあ、それはお困りでしょう。さあ、どうぞ中へお入りください」


 老婆に案内された先は、入ってすぐの広い部屋。

 いわゆる土間というやつだろうか。中央には、時代物のドラマでしか見たことないような囲炉裏が設置されていて、鍋が火にかけられていた。

 湯気と共に、美味しそうな匂いが漂ってくる。

「ちょうど小腹がいてきて、夜食の準備をしていたところでねえ」

 鍋を前にして座っているのは、茶色の半纏を着た老人だった。老婆の旦那なのだろう。つまり、この家の主人だ。

「お邪魔します。山道で迷ってしまって……」

「それは大変でしたなあ。さぞかし腹も減っていることでしょうし、こんなものでよろしければ、召し上がりください」

 老婆に対するのと同じ説明を繰り返すと、出来たばかりの鍋を勧めてくる。

「はい、お言葉に甘えて……。いただきます!」


――――――――――――


 肉も魚も入っておらず、きのこや野草が中心の山菜鍋だった。

 おかゆや漬物も出してくれたが、それも含めて、タンパク質は含まれていない。まるで精進料理だ。

 空腹が続いた胃にいきなり重いものを入れても受け付けないだろうから、むしろ私にはちょうど良かったのかもしれない。

「見ているだけで、こちらまで幸せになる食べっぷりですなあ」

「さあ、どんどん食べてくださいね。体力を回復させるためにも是非」

 老夫婦に言われるがまま、たっぷりとご馳走になり……。

 満腹になった私は、当然のように睡魔に襲われた。

 瞼が今にも閉じそう、というのは老夫婦にも伝わったらしい。

「ずっと山道を歩いていたのですからね。眠くなるのも当然でしょう」

「縁側の部屋が、一応の客間になっております。布団を敷いておきますから、ぐっすり眠って、体を休めてください」

 二人は、今晩の寝床を提供してくれた。


「では、お先に……」

「はい、おやすみなさい。良い夢を」

 鍋の後片付けをする老婆と、囲炉裏の前に座り込んだままの老人を残して、私は隣の部屋へ。

 老人が「縁側の部屋」と言ったように、障子戸一枚を隔てた向こう側は裏庭らしい。マンションやアパートのような密閉構造ではないので、夜風が入り込んでくる。

 先ほど山を歩きながら、さんざん浴びたはずの夜風だが、こうして部屋で横になってみると、かなり違ったものに思えてくる。風流だ、と感じる余裕も生まれていた。

「おやすみなさい」

 布団に入った私は、隣の部屋の二人には聞こえないのを承知の上で呟いてから、安らかに目を閉じた。

 すぐに、深い眠りに落ちると思ったのだが……。


 あれだけ眠かったはずなのに、不思議と眠れなかった。

 歩き疲れて、体は睡眠を要求しているはずなのに、なぜだろうか。

 満腹ゆえに生まれた睡魔も、横になっただけで満足して、消えてしまったのだろうか。

「この感覚は……」

 眠りたいのに眠れない。

 まるで睡眠薬が効かなくて焦る時みたいだ。

 私は日頃、市販の睡眠薬を頻繁に服用しているのだが、あまりに飲み過ぎて、少し耐性が出来てしまったらしい。翌日の仕事のことなどを考えて「今夜はきちんと寝ておかないといけないから」という場合にこそ睡眠薬を使っているはずなのに、ほとんど効き目がなくて困ってしまう。

 最近では、説明書に書かれた量の二倍を飲むようにしているくらいだった。よく小説などでは「睡眠薬をたくさん飲んで自殺する」という話が出てくるが、あれは医師が処方する特別な睡眠薬に限った話であり、市販の睡眠薬には、そのような危険な成分は含まれていないそうだ。

 とりあえず、たとえ眠れなくても目を閉じているだけで、少しは疲労回復の効果があるという。だから私は横になったまま、黙っておとなしくしていたのだが……。

 静かになった部屋の中。

 襖越しに、隣の部屋から小声の会話が聞こえてきた。


――――――――――――


「ばあさんや、今夜の客は大丈夫じゃな?」

「やめてください、隊長。その呼び方も話し方も、もう必要ないでしょう?」

「うむ。では……」

 男の方の口調が変わる。

「……改めて確認するぞ。睡眠薬の用量、今回は失敗してないであろうな?」

「もちろんです。あんな失敗、一度で十分ですから」

「うむ。まさか大量に入れると毒になるとは……。これだから未開の惑星ほしの技術は信用できん」

「仕方ないでしょう。我々の薬を添加するわけにはいきませんからね。この惑星ほしの生き物を、この惑星ほしで暮らす状態で、生かしたまま連れ帰る……。それが我々の任務です」

「今さら言われんでも、わかっておる。我々の装置を使って構わないのは、空間をねじ曲げてこの一次基地ベースキャンプ人間サンプルを呼び寄せる段階まで。それ以上は規則違反になってしまう」

「知っていますか、隊長? この惑星ほしには『郷に入れば郷に従え』という言い回しがあるそうです。我々がこの惑星ほしの睡眠薬を使用するのも、その『郷に従え』の一種なのではないでしょうか」


 そこまで聞けば十分だった。

 ぱっちりと目を開けた私は、そーっと布団から抜け出すと、静かに障子戸を開けて、裏庭へ飛び出す。

 いつの間にか夜空の雲は薄くなり、月明かりも届くようになっていた。

 その光を頼りに、抜き足差し足で歩き始める。そして、わらぶき屋根の家から十分距離が離れたところで、脱兎の如く走り出すのだった。


 二人が私の逃走に気づくまで、結構な時間を費やしたらしい。

 時々後ろを振り返ったが、追跡者が視界に入ることはなかった。

 そして、空が白み始めた頃。

 私は、見覚えのある登山道に出くわしたのだった。

「よかった……。ここまで来れば、もう安心だ……」


――――――――――――


 あの二人は「空間をねじ曲げて」と言っていたから、あの家は大文字山にあったわけではなく、様々な場所に繋がっているのかもしれない。ただし二人は日本人に扮していたのだから、その「さまざまな場所」は日本限定だろうか。


 あとでインターネットで調べてみると、日本では毎日のように誰かしらが行方不明になっている。公式発表によれば、2002年の失踪届けは10万人を超えていたという。その後は減少傾向になりつつあるが、それでも毎年8万人から9万人の間を推移しているらしい。

 大雑把に言えば、依然として約10万人ということではないか。

 それだけ多くの人間が、この日本から消えているのだ。

 その中には外国へ拉致された者もいる、という噂だが……。


 大文字山での遭難以来、空を見上げて月や星を目にするたびに、私はふと考えてしまう。

「よその国どころか、よその星へ連れて行かれた人もいるんだろうなあ」

 と。




(「日本では毎年約10万人が行方不明になると言われている」完)

   

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日本では毎年約10万人が行方不明になると言われている 烏川 ハル @haru_karasugawa

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