第22話
それからの毎日、僕は昼間学校へ行き、夕方は彼女のピアノリサイタルの宣伝チラシを駅前で配った。演奏会の場所は市民ホールだ。貸切でホールを抑えるのには苦労したが、事情を話すと「そういうことなら」とスタッフが快く承諾してくれた。
当然ながら彼女の主治医にも演奏会のことを相談していた。彼女の体調の経過を見つつ、体調が悪ければ即取りやめにすると約束をした。主治医も、彼女に対して特別な思い入れがあるのか、無理のない範囲できるだけ彼女の願いを叶えてあげたいと思ってくれているようだった。
ピアノの練習は、正直あまりできなかった。病院から抜けるということが難しいからだ。その代わり、僕が毎晩光莉の病室へ行き、一緒に演奏する曲の動画を聞いた。彼女は普段から『月の光』以外にも、名曲をたくさん弾いていたから、動画を見ながら一緒に膝の上で指を動かしていた。
「楽しいね」
彼女が、音楽室で実際にピアノを弾いている時と同じ笑顔を浮かべる。ピアノが大好きで、好きなことをして幸せな気分に浸っている時の恍惚とした表情だ。僕はそんな彼女の笑った顔を見るのが好きで、彼女につられて笑みをこぼした。
「ああ。最高の夜だ」
夜は、毎日同じようにやってきて、彼女を眠りから覚ましてくれる。僕は彼女に出会うまで夜が嫌いだった。一人きりで家を出て、できるだけ母から遠くへと離れたいという気持ちにしかさせられない。そんな孤独な僕の夜を、照らしてくれたのは間違いなく光莉だ。
彼女のピアノコンサートの当日がやってきた。1月25日、午後9時スタートだった。金曜日の晩という日程だったので、ホールの裏からお客さんの様子をのぞいた時、その人の多さに僕は胸がいっぱいになっていた。彼女の元クラスメイト、担任、校長先生。街で声をかけた見知らぬカップル、子供連れ。彼女の勇姿を見守ろうという人たちの温かい心が、ホールいっぱいに満たされていた。
主治医に光莉の体調をチェックしてもらい、今日は問題ないとのこと。ただ、彼女の身体が日に日に弱っているのは僕の目から見ても明らかだった。今日が、舞台に立てるぎりぎりのタイミングかもしれない。僕の直感がそう告げていた。
彼女の両親が、ホールの一番前の席に座っているのが見える。二人はすでにハンカチを握りしめている。僕が挨拶しに行くと、
「あなたが、昴君ね。光莉のそばにいてくれて、ありがとう」
と涙ぐんでいた。
僕はてっきり、光莉の両親から恨まれているのかと思っていた。クリスマスの日に、僕が光莉を太陽の下に晒してしまったのだから。でも、ご両親はそんな僕に、「ありがとう」と頭を下げた。お礼を言うのは僕の方だ。僕が、彼女から希望をもらったんだ。
「こちらこそ、本当にありがとうございます。今日は、ぜひ最後まで彼女の立派な姿を見てあげてください」
深く深く、彼らに頭を下げる。光莉の父親が母親の肩を抱き、「ええ」と母親が頷いた。
その姿を見届けてから、僕は再び舞台裏へと向かう。そこには、大人らしい黒のドレスに身を包んだ彼女の姿があった。とても美しく、僕は思わず息をのんだ。夜を生きる彼女にぴったりの衣装だ。
「光莉、大丈夫?」
「うん。緊張はするけど、とっても楽しみ」
「そう。よかった。ここは夜の音楽室だと思って演奏して。きっとうまく行くから」
「ありがとう。昴、あのね」
演奏会開始のブザーが鳴り響く。裏方のスタッフが、「本番1分前」と声を上げる。僕は、咄嗟に彼女の目をじっと見つめた。
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