第4話


 やってきたのは音楽室だった。

 4歳の頃からピアノを習っていた私は、いつも学校から家に帰ると真っ先にピアノの練習をしていた。でも、「夜行症」を発症してからというもの、夜にピアノを弾くのは近所迷惑だと思って、ずっと触れることさえできていなかった。

 本当はひっそりと、ピアニストになりたいと思っていたくらい、ピアノが好きだ。私の音楽で、誰かを感動させてみたいと思っていた。だけどその夢はもうきっと叶わない。それでも私の心が、自然とピアノを求めていた。

 立て付けの悪い音楽室の扉は、ギイと鈍い音を立てて開いた。校舎自体古いので、鍵をかけるには南京錠をつけるしかないのだが、特別教室で南京錠をつけてある教室はほとんどなかった。吹奏楽部が使う楽器が収納してある音楽準備室だけは、鍵がかけられていた。


 ピアノは音楽室の黒板の隣に鎮座していた。

 年季の入ったグランドピアノで、黒い布が被せられている。久しぶりに入った高校の音楽室で、薄闇の中目にしたピアノは、異世界に捨て置かれたかのような異質さを放っていた。


 布を捲り、鍵盤の蓋を開ける。椅子の高さを調整して座り、鍵盤に指で触れた。

 標準の高さのドの音を抑えると、耳に心地よい音が静寂の中響き渡った。古いピアノだが、きちんと調律がされていて、周波数に狂いはない。私はそのまま、両手をしかるべき鍵盤の位置に乗せ、ペダルを足にかけた。


 3ヶ月間、まったく弾いていなかったけれど、ブランクなどなかったかのように、自然とピアノの前で息を吸うことができた。

 両手で和音を響かせて、弾き始めたのはドビュッシーの『月の光』だ。

 囁くような高音のメロディーが、音楽室の空気を繊細に揺るがす。私は、『月の光』のこの最初のメロディーが大好きだ。「ねえ、聞いて」と大切な人が耳元で囁いているかのように聞こえる。


 元々、ドビュッシーはポール・ヴェルレーヌが編んだ詩集『艶なる宴(Fêtes Galantes)』にある一遍の詩を参考にこの曲をつくったらしい。そしてこの詩もまた、ジャン=アントワーヌ・ヴァトーの絵画に触発されたものであるという。

 『月の光』は、音楽と詩、絵画という芸術をすべて集めてつくられた、まさに芸術的な音楽だ。

 最初の美しいメロディーが終わると、波のような連符による演奏が始まる。

 私はこの部分も好きだ。流れるようにポロポロと鳴る音に、これから何かが起きるのだと予感させられる。身体をのせ、想いをのせ、曲の一番盛り上がるところまで進めていく。


 ふと、視線が窓の外へと向かった。

 綺麗な形の三日月が、私の演奏を聴いて微笑んでくれているみたいだった。

 だから私は、これまでにも増して、思い切り感情を込めて穏やかなクライマックスを迎えた。決して派手ではない、このクライマックスが、月の光の優しさを映し出しているようで、耳に心地よい。

 ピアノのメロディーを奏でている間、私は自分が奇怪な病気にかかってしまったことなど、すっかり忘れていた。自宅でピアノを弾いている感覚で、鍵盤の上で指を走らせた。いつもと違うのは、窓の外に月が見えることだけ。なんて美しく、儚いんだろう。月の光は、下を向いていた私をほんのりと明るく照らしてくれる。やがて曲が終わり、私はペダルから足を離した。息をすることも忘れて弾いていたから、最後の音の余韻が消えた音楽室で、私はどっと息を吸い込んだ。


「楽しかった」


 再び静寂に包まれた音楽室で、私はこれまでにない高揚感を覚えていた。

 夜にしか生きられない自分にとって、今日この場でピアノを弾いたことは、何にも代え難い喜びとなった。

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