第21話

***


 彼女の姿をもう一度目にしたのは、あの逃走の日から5日が経った後だった。

 病院から連絡を受けた僕は、学校からの帰り、夜10時に病院を訪れた。普通なら面会時間をとっくに過ぎている時間だが、光莉は夜にしか起きていられないので、特例が施されていた。

 母はあの日、鉄格子をはめる音を不審に思った近所の人に通報をされ、児童相談所から対応を受けた。今はその調査を受けている最中で、母は僕に暴力を振るってこなくなった。


「光莉……」


 彼女が入院している個室へと足を踏み入れると、全身をぴたりとベッドにつけて、光莉は天井を見ていた。目を覚ましたのはつい2時間前だというけれど、ぼうっとした様子の彼女の姿に、心臓がざらりとした手で撫でられるような心地がした。病室はもちろん電気をつけず、薄暗くしてある。窓から外を見ると、右側が欠けたような月が顔を覗かせていた。彼女のベッドの角度からして、彼女からは月は見えないのだと分かった。


「昴、来てくれたんだ」


 力のない声で僕の名前を呼んだ彼女。僕は「ああ」と吐息を漏らした。彼女に会って、最初に何を言えばいいか分からなかった。ありがとう。ごめん。僕のせいでこんなことになって、ごめん。何度も口から漏れそうになったけれど、彼女がそんな言葉を望んでいないのだということは明らかだった。


「体調は、どう?」


 当たり障りのない言葉しか出てこない自分自身に、吐き気すら覚える。でも光莉は、そんな僕の問いにも気を悪くすることなく淡々と答えた。


「大丈夫って言いたいんだけどね。あんまり良くはないみたい。私、あと1ヶ月ぐらいで死んじゃうんだって。細胞が、一気にたくさん死んじゃって、身体の中でうまく処理ができなくなってるって……。それで、いろんな身体の機能が壊れて、よく分からないんだけど、もう長くないみたい」


「え?」


 どういうことなのか、僕にはさっぱり分からなかった。

 死ぬ? 彼女が?

 確かに先日彼女が全身に浴びた太陽の光は、『夜行症』の彼女からしてみれば多量だったのかもしれない。でも、そうだ。時間にしたら1時間くらいだ。彼女が日の光の下にいたのは、たった1時間。その時間が、彼女の残りの命をすべてかっさらっていくほど長い時間だったのだと知って、僕は目の前が真っ暗になった。


「ごめんね、昴」


 気がつけば彼女の声が震えていた。なんでもないふうに話していた彼女だったけれど、本当はいっぱいいっぱいだったのだ。


「さっき、お母さんとお父さんが来たの。二人ともいっぱい泣いてた。私は二人に、

絶望しかあげられない。昴にも、きっと……」


 一番苦しいはずの彼女自身が、両親の気持ちを慮り、自分は泣けないでいる。

 僕は彼女のそばに歩み寄り、身体をかがめてゆっくりとその背中から抱きすくめた。


「僕の、せいだね。僕が母親とあんなことになっているのを光莉に知られたから、光莉は、こんなことに」


 溜まっている涙を、必死にこぼさないように目に力を込めながら言った。


「……ううん、違う。全部私が望んでしたことなの。私が昴を助けたかった。だから後悔はしてない。ただちょっと、悲しいだけ。私はもう、昴と一緒にいることも、ピアノを弾くことも、できなくなっちゃったぁ」


 彼女が初めて、声を上げてわんわん泣いた。僕はそんな彼女をしっかりと抱きしめながら背中をさする。


「大丈夫、大丈夫だよ。僕は今日からずっと、きみのそばにいるから。ピアノだっ

て、弾かせてあげるよ。また夜の学校に行こうよ。それで……」


 きみの『月の光』をもう一度聞かせて。

 気がつけばそんな願いが口から漏れ出ていた。

 光莉ははっとした様子で目を丸くしている。


「私……本当はずっと、ピアニストになりたかったの。ふふ、馬鹿でしょう? そんなの、ほんの一握りの人間しかなれっこないのに。馬鹿みたいに夢見てた。スポットライトをたくさん浴びて、できるだけ多くのお客さんの心に届く音楽を奏でたい。私がピアノに救われたように、私のピアノを聴く人の心に、ずっと残るピアノを弾きたい。音楽室で昴に『月の光』を聞いてもらっていた時、私、自分が舞台に上がっているみたいな心地がしてた。だからね、嬉しかったんだ。昴に会えて、本当に」


 嬉しかった。

 彼女の胸の中に広がっていたのは、絶望だけじゃなかった。その事実が、僕をもう一度奮い立たせる。ダメだ。彼女をこのまま逝かせては。何もせずにただ時が経つのを待つだけなんて、そんなの——。


「やろう、演奏。僕がお客さんを集めるから。きみは舞台に上がる。スポットライトは——浴びられないかもしれないけれど、きみのピアノを、お客さんの心に響かせてみせる。夜の演奏会だ」


 彼女の瞳に、星が瞬いているかのようにきらきらと涙が溜まっていく。僕はその瞳の名前を知っていた。希望だ。彼女は今、自分の未来に希望を見出した。


「それ、本当に……? ほんとにできる?」


「ああ。できるよ。僕たち二人なら、やれないことはない」


 きみの未来は、決して閉ざされてなんかない。

 僕がそれを、証明してみせるよ。

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