第23話

「私ね」


 彼女が僕の頬に顔を寄せ、とっておきの言葉を囁いた。

 僕は彼女の言葉を聞いて、目の淵に涙が溜まっていた。だめだ。まだ始まる前なのに——。咄嗟に袖で涙を拭う。それから彼女の背中を押して、彼女を舞台へと見送った。

 スポットライトが光る、あの舞台へと。

 僕は観客席へと戻り、光莉の両親の隣の席に座る。

 舞台でスポットライトを使って欲しいと言ったのは、彼女だった。

 強い光を浴びることになるので、本来なら全力で反対しなければならなかった。けれど、自分の命が残り少ないことを知っている彼女の願いを、僕はどうして止めることができるだろうか。気がつけば僕も、舞台でスポットライトを当ててやって欲しいと、主治医に頼み込んでいた。主治医は散々迷ったあと、光莉の両親に相談をしたようだ。ご両親は光莉の願いを叶えるため、スポットライトを当てることを承諾してくれた。

 こうして今、彼女はたくさんの光に包まれて、ピアノの前に座っている。

 拍手が鳴り止んで、彼女が肩で息を吸ったのが分かった。両手を鍵盤に置く。夜の音楽室で見慣れた光景なのに、スポットライトの下でピアノと対峙している彼女を見るのは初めてだった。


 両手で単音のメロディーを弾き始めた彼女。最初の曲はモーツアルトの『きらきら星変奏曲』。

 軽快な音が右手と左手で混ざり合い、耳に馴染みのあるメロディーが響く。子供たちも知っている曲で、聖なる夜の一曲目としてふさわしい音楽だ。途中で旋律がさまざまに形を変え、音を変え、調べを変えて、ポロポロと馬が駆けるように続いていく。あの「きらきら星」が変奏曲になるとこんなふうに顔を変えていくのか、と考えるととても楽しかった。まるで、気分屋の子供みたいだと思った。

 その後、彼女はショパンの『子犬のワルツ』、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』、ベートーヴェンの『悲愴』など、名曲中の名曲をアレンジしながら弾いていた。

 観客の心が、彼女に釘付けになっているのがわかる。客席の意識は、痺れるほど舞台上の一人の少女に対して向かっていた。漆黒のドレスに身を包んだ彼女が、スポットライトを全身に浴びて輝いている。僕は、彼女の額が汗でぐっしょりと濡れていることに気づいた。

 闘っている。

 彼女は今、強い光の下で、死にゆく細胞と狂っていく身体の機能に、気を失いそうになりながら鍵盤を叩いていた。けれど、音にはその苦しみはまったく反映されていない。彼女の長年の夢なんだ。自分のピアノで、お客さんを感動させたい。前向きな気持ちになれるように、背中を押してあげられる音楽を。希望を。彼女は伝えたいのだ。

 やがてもう何度聞いたか分からない、ドビュッシー『月の光』が始まった。

 星が降るみたいなメロディーだ、と僕がかつて言ったのは、彼女が弾く『月の光』があまりにも繊細で、綺麗で、心が泣いて、喜びで溢れているのを感じたからだ。弾いているのが彼女だったから、そういう表現がぱっと降りてきたのだ。

 『月の光』は大切な人に優しく語りかけるような高音のメロディーから始まった。観客たちが、はっと息を呑む気配がする。他の曲とは明らかに違う、その音の繊細さに心震わされているのだ。何度だって弾いた。何度も何度も、薄闇の中、月明かりだけがほのかに照らす音楽室で、彼女は『月の光』を弾いて、孤独を慰めてきた。僕が彼女の観客になってからも、彼女は愛を持ってこの曲を奏で続けた。

 愛しい日々を思い出して、僕はつーっと自分の頬に涙が伝うのを感じた。


 どうか彼女が最後まで、この光の下で大切な音を奏でられますように。

 きみという月の光が、僕の歩く道を照らしてくれたように。

 まっすぐに、きみを夢の彼方まで連れて行ってくれますように——……。

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