『さとり』★★

 書く事も辛い程の出来事があった。

 生きていく事がただ辛い。


 そこで私は……


 ………………解脱げだつしようと思った。


 その為に、子供の頃に読んだ『ブッダ』という漫画を思い出しながら、それに習おうと思う。


 まず、彼は始めに髪を剃った。

 しかし、元々私の髪は薄い。それはもうシベリアのツンドラ地帯、はたまた中国のゴビ砂漠さながらの寂しさである。

 僅かに生える神髪を私は毎朝早起きして、念入りにブローする。

 それを剃るというのは耐え難い苦痛。

 だが、私の解脱への意志は固い。私は涙を堪えながら髪を剃った。


 全てを終えると、見事に丸く美しい月が鏡の中で輝いていた。

 案外私の頭は綺麗な形をしている。

 それに、これからは髪の薄さを気にする必要がないと思えば、むしろ気分がすっきりした。


 次は苦行だ。

 ブッダは、辛い苦行を続ける内に、その無意味さを知る。

 それは、実際に苦行した者にしか解らない。

 しかし、苦行とは一体何をすれば良いだろう。


 とりあえず、食事を抜いて、身体を酷使する事にした。

 真夏の炎天下の中、水分も取らず運動をすれば、まさに現代の苦行だ。

 そこで運動し易い格好に着替えて玄関に立つと、妻からついでにと犬の散歩を頼まれた。


 犬と一緒に近所を走るが、普段からの運動不足ですぐに息が上がった。

 会社の健康診断でメタボと診断された太鼓腹を揺らしながら走る、というよりは歩いているように周りからは見えただろう。

 それでも何とか近所をぐるりと一周し終えて家へ戻ると、むしろ身体の調子がよくなったように感じた。


 いかん、これでは苦行の無意味さを知ることは出来ない。

 もっと意味のない苦行らしい苦行が必要だ。


 ふと、TVで見た、山奥の滝に打たれている修行僧の姿を思い出した。


 しかし、近所に滝はない。

 そこで私は、物置から流しそうめんに使う竹を持ち出し、二階のベランダから吊るした。そして、台所の水道からホースを引き、竹に縛り付ける。

 蛇口を捻ると、一階にある庭に向けて注ぎ落ちる滝……のようなものが完成した。

 私は、海パン一丁の姿になって、に打たれた。

 真夏の炎天下の中を走って火照った身体に冷たい水が心地よい。


 いかんいかん、これは苦行なのだ。

 と自分に言い聞かせ、両手を合わせて目を瞑った。

 映像が途絶え、滝の音だけが聞こえる。


 じょぼじょぼじょぼ。


 ……トイレに行きたくなった。

 しかし、これも苦行と思い我慢する。

 まぁ、海パン姿だし庭だし水が流れているし、ここで用を足してしまっても問題ないのではないか、という悪魔の囁きが聞こえる。

 そんな葛藤の最中、庭に面した通りを行く外人が「お~ジャパニーズ〝しゅぎょう〟!」と言いながら写真を撮る音が聞こえた。

 私は、一体何をしているのだろう。

 すると突然、水が止まった。怪訝に思って上を向くと、ベランダから妻の顔が覗いた。


「水を無駄にしないでください! 水道代がもったいないでしょう!」


 なるほど。やはり苦行というのは無意味なものなのだ。

 それを悟った私は、次の段階へ進む事にした。

 苦行をやめたブッダは、一人の女性から乳粥をもらう。

 私は、妻を呼んで、それを作ってくれるよう頼んだ。


「……なんだ、これは」


 私の目の前には、食卓の上で皿に盛られた白いものが暖かそうな湯気を立てている。


「何って、あなたが食べたいと仰ったんでしょう。

 シチューですよ、


 そうだった、妻は最近、耳が悪い。

 乳粥とシチューでは、全く違う食べ物である。

 洋食のシチューで仏陀となれるかどうか大変不安は残るが、この際、致し方ない。

 乳が入っているところは同じである。

 私は、シチューにご飯を入れると、じっくり味わってそれを平らげた。

 美味い。時間をかけて食べた所為か、一杯だけで腹が一杯になってしまった。


 最後にブッダは、菩提樹の根元に座って瞑目し、真理を得る。

 しかし、この辺りに菩提樹などという立派な木は生えていない。

 代わりに、私が趣味で育てている盆栽を抱え、地面に座った。

 これで無我の境地を得れば、私は解脱することが出来るだろう。


 私は、目を瞑った。

 まぶたの裏に、これまで行った数々の苦行が浮かんでは消えていく。

 それらは、平凡な日常において見慣れた筈の景色なのに、新鮮な色をしていた。


 ぷ~ん、ぷ~んと蚊の鳴く音が私の思考を邪魔する。

 反射的に頭を振ったが、すぐに思い直し、身を正した。しばらく耐えていると、音が止まった。身体がぞわぞわとするが、気にしてはいけない。

 すると不思議なことに、すーっと気持ちが落ち着いていった。


 私は、目を開けて空を見上げた。

 夜空の中で小さく輝く星を見ている内に、私は、自分が世界と一体化したような気持ちになった。

 その瞬間、私は解脱した。


「私は悟りをひらいた。これで解脱への道がひらかれたのだ」


 これからは私の事を〝仏陀〟と呼ぶように、と妻に伝えると、

 妻は躊躇なく素手で私の顔を思いっきり



 終

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