『鏡台』★★

 人というものは、一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのでしょうか。

 自ら意志を持って動く事の出来ない私には、それが不思議でなりませんでした。

 何故なら、私の見える景色と言えば、真っ暗闇か、代わり映えのない和室の一角でしかなかったのですから、私を覆う扉を開き光を与えてくれる彼女が現れるのを私がどれだけ心待ちにしていたことか。

 あなたには想像も付かないでしょう。


 私にとって彼女は、まるで千や万もの景色を見るようなもの。

 見る度にくるくると変わる彼女の表情や姿見は、一生変わる事のない三面鏡の私には、たいそう興味深く、そして何より愛おしい存在でした。


 初めて私の前に姿を映した彼女は、まだ幼く、あどけない表情で私を見つめ、笑い、変化自在なポーズを取ってみせては、きゃらきゃらとはしゃぐ子供らしい様をしている。

 かと思えば、ある日突然、それまで見たことのない“着物”というものを着て現れ、慣れない手つきで化粧を施していき、それが終わるとすっかり大人びて見えたのには驚いたものです。


 その時の彼女の様子は今でもはっきりと覚えております。

 緊張した表情で堅く口を結び、ぎこちない動きで手足を右へ左へと動かす姿は、まるで木で出来た人形のようで、あまりに滑稽でした。

 それから幾度も同じ動きを繰り返す内に、少しずつ彼女の表情も和らいでいき、私は、それが“舞”と呼ばれるものである事を知りました。


 上手く踊れた時に見せる彼女の嬉しそうな顔、なかなか思うように踊れず、悔し涙をぐっと我慢して私をじっと睨み付ける顔。

 それでも尚、涙で濡れた跡を化粧で覆い隠して再び稽古を続ける彼女の必死な姿を見る内に、彼女の舞を想う気持ちが私にも伝わってきたのでした。


 彼女はこれまで実に様々な舞を時には唄も交えて私に見せてくれました。

 いつしか彼女の踊る姿は、まるで蝶が舞うように軽やかで、舞う、と言う表現が何より合うようになっておりました。

 彼女は、きらきらと輝いていて眩しかった。

 思えば、あの時の彼女が最も輝いていたように思えます。


  人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

  一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

  これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ



 それが一変してしまったのは、彼女が真っ白な打ち掛けを着て現れた日からでしょうか。

 それは、これまで見た中で一等美しく、傍にいた人達は皆、嬉しそうに祝いの言葉を口にします。

 しかし、ふと一人にされた彼女の青白い頬の上をつつつと透明な液体が流れていくのを見て、まるで彼女の中にある大切な魂の欠片が共に流れ出でていくように私には見えたのです。


 その後、私は彼女と共に新しい住居へと移されました。

 時折、彼女の傍に現れる見慣れぬ男性が、私に写る彼女に向かって優しく微笑むと、彼女もまた穏やかに微笑み返します。

 その様子を見て、私は大変安堵致しましたが、それ以来、彼女の舞いは見られなくなりました。


 歳月が経つにつれて、彼女が私の前に現れる頻度は減っていきました。

 それでも時折見る彼女は、幸せそうな顔をしていたのに、ある日を境に、彼女の顔がどんどんやつれていきます。

 私を見つめて必死で笑顔を作ろうとして失敗する彼女を見て私は、ここ最近あの優しく微笑んでいた男性の姿を見かけない事に気が付きました。

 この時ほど、私にも瞳があればと悔しく思った事はありません。


 その後、彼女が何十年かぶりに見覚えのある舞衣装姿で現れました。


「これが私の最後の舞。あなたにだけは見届けて欲しい」


 それは、昔よく彼女が踊っていた『敦盛』という舞でした。

 彼女が見せてくれた数多くの舞の中でも私は一等それが好きで、何かにつけてそれを舞っていたところを見ると、彼女にも何か強い思い入れのある舞だったのでしょう。

 他の舞も素晴らしいものではありましたが、彼女の舞う『敦盛』の美しさといったら他に例えようもないのでした。


  思へばこの世は常の住み家にあらず

  草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

  金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる

  南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり


  人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり

  一度生を享け、滅せぬもののあるべきか

  これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ



 彼女は、これを男物の衣装を着て舞っており、凜とした表情と手先まで伝わる緊張感が私にまで伝わってきます。

 「人間五十年」それが彼女の口癖で、深い意味は解りませんが、思えば、私と彼女の年月も早五十年は経っているでしょうか。

 改めて見ると、あの頃とは随分変わってしまったのだなと実感致します。

 彼女は、それだけ老い弱って見えたのです。

 それでもやはり、彼女の舞が素晴らしい事には変わりなく、むしろ今までで最も自然な姿に見えました。

 そして、それが私の記憶する彼女の最後の姿となったのです。


 人というものは本当に、一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのでしょうか。

 私は閉ざされた真っ暗闇の中、その事を幾度も考えておりましたが一向に解りません。

 そこへ今度は、あなたが現れた。

 そのお顔は、彼女の若い頃のものに似ているように思えます。


 どうぞ、今度は、あなたの「五十年」を私に映してくださいませね。



 終

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