『Niche』★★★
五月の青空に小さな白いボールが吸い込まれていく。
心の上澄みが抜き取られて、空っぽになった身体まで持っていかれそうになる。
これが俺のカタルシス。
今日は、知人に誘われて、とあるゴルフコースに来ていた。
ここは、伝説のアマチュアゴルファー赤星五郎氏設計の隠れた名コースでもある。
自然の地形を生かして作られた起伏に富んだコースは難関だが故に面白い。
また、溢れる自然と景観の良さも魅力の一つだ。
空は快晴、風も凪、まさに絶好のゴルフ日和である。
「ミスショット!」
……にも関わらず、さっきから俺は、ミスショットばかりを繰り返していた。
青い空から吐き出された白い球が丘の向こうに消えていく。
しまった、あの勢いだと林に突っ込んでしまう。
周囲の嘲笑と野次に作り笑いを返し、俺は慌ててボールを追った。
軌跡から予想した範囲を歩き回っていると、突然、俺の鼻を異臭が刺した。
思わず鼻を手で抑えて周囲を見渡すと、林の中で何かが動く気配を感じた。
何かの動物だろうか。
ゴルフ場には、しばしば野生の動物達が顔を出す。
以前、俺もシカの親子が木陰で寝そべっているのを見た事がある。
特に猟の解禁時期になると、狙われた動物達がゴルフ場へと逃げ込んでくる。
彼らは、人間(ゴルファー)が自分達に危害を加えない事を知っているのだ。
木を切り山を拓いて作るゴルフ場は自然破壊だと叫ぶ輩がいるが、俺は逆に人間と動物が共生できる未来ある場所だと主張したい。
しかし、俺が林の中に見つけたものは、シカでもタヌキでもない。
人間の姿をした生き物だった。
「あー……どうも」
それは日本語を話した。
ひょろりと伸びた背に鳥の巣頭。無精髭。
いつ洗濯されたのかを疑うほど捩れたジーパンとTシャツ。
片手にやけにでかい毛皮の帽子を持っている。
一見、浮浪者に見えなくもないが、どうやられっきとした人間のようだ。
「ど、どうも。失礼ですが、清掃員の方か何かですか?」
「あー、まぁそんなもんで」
「この辺りに、私の球が飛んできませんでしたか?
赤い富士のマークが……ついてて……」
最後まで言う前に、俺はその不審さに気付いた。
男が片手に持っている帽子から足が生えている。
「な、ななな、何ですか、それはっ」
男は、俺が指差したものを少し持ち上げて見せた。
「ノウサギですよ。正確には、トウホクノウサギというんですが」
ぎょっとした。
男が死体を持ち上げた時、裏返ったウサギと目が合ったような気がしたのだ。
飛び出した目。
それは、一瞬で顔を背けたたくなるような酷い惨状だった。
「ゴルフカートに轢かれたんでしょう。
こいつらは夜行性で昼間は大抵寝ているんですが、ゴルフ場のあった場所に、元々彼が気入ってた寝床でもあったんでしょうなぁ」
淡々と告げられる言葉に、私は後頭部をがつんと殴られたような気がした。
晴天の霹靂とはまさにこのことだ。
「まー私の専門ではないんですがねぇ……」
驚いて腰が引けている私を他所に、男は人に頼まれただの何だのと呟いている。
思わず俺の思考回路が飛んだ。
「た、食べるのかっ、それを!」
男が死体を持ち上げ匂いを嗅ぐ。
「……食えないでしょ、さすがに。
ウサギの肉は水水しくって私は案外好きですけどねぇ。
いくら身体の丈夫な人でも、腹ぁ壊しますよ」
それとも、あなた食べてみますか?と、本気なのか冗談なのか解らないことを言う。
それにしても動物に詳しいと思える発言の数々。
これではまるで……
「動物愛護団体か。……け、警備員を呼ぶぞっ」
セリフとは裏腹に、声が震えている。男が肩をすくめた。
「私は自分の好きなことをしている。あなたもそうでしょう」
男は、そこを動かない。
雑木林の中に立つ男と、グリーン芝の上に立つ私。
二メートルも離れていないというのに、まるで私と彼の間には、見えない壁があるようだ。
「あんたは一体、何者なんだ?」
「生物分類上は君と同じ種だが、Niche(ニッチ)が違う。
まぁ、アカネズミとヒメネズミの差くらいには、ね」
俺には全く解らない話題で、男はニヤリと笑った。
「おおーい。ボール、まだ見つからないのかぁ」
丘の向こう側から知人の声が俺を呼ぶ。
ああ今、と答えて再び林の方を向くと、そこに男の姿はなかった。
ただ、獣の臭さだけが僅かに漂っていた。
後日、知人からの電話で、あのゴルフ場が閉鎖されたことを知った。
動物愛護団体だか自然保護団体だかが訴え出たのだという。
どこかの有名な大学助教授が調査を依頼され、地理的隔離を証明したという話だったが、やはり俺には解らない。
会社を出ると、夕方まで降っていた雨は、すっかり止んでいた。
『それよりも、もっと良い場所を見つけたんだ。次の休みにでも、どうだ?』
一瞬、私の脳裏にウサギの死体が浮かんだ。
しかし、それだけだった。
「あぁ、行こう。楽しみだな」
私は携帯を切ってポケットに入れると、手にしていた傘を逆手に持ち、暗い宙に向かってショットを打った。
終
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