【KAC2024】
『証拠』★★
ベッドの上に投げ出されたスマホの液晶には、由紀子からの『早く仕事が終わったから、もうすぐ家に着くよ。いつものシュークリームを買ってから帰るね』というメッセージが表示されている。
いつものシュークリームと言えば、由紀子がいつも正人のために買ってきてくれるお店のものだろう。
由紀子は、正人が好きだから、という理由でよくその店のシュークリームを買ってくる。だが、本当は、正人よりも由紀子が好きで買っているということを正人は知っていて黙っている。
あそこから家までは、約三分足らずで着いてしまう。
(今日は、仕事で遅くなるって言ってたのに……)
正人は、急いで彼女を窓から逃がすと、部屋の中を見回した。
間に合うだろうか、と一瞬、青い顔で諦めかけたが、すぐに頭を振って気持ちを切り替える。
もし、このことが由紀子にバレれば、もう彼女と会えなくなってしまう。
彼女の愛らしい姿が正人の頭に浮かぶ。彼女は、正人にとっての癒しであり、大事な存在なのだ。彼女に会えなくなることは、絶対に避けなければならない。
まずは、脱ぎ散らかした服を拾い、洗濯機に突っ込む。
洗面台の鏡に、黒い髪をした自分の顔が映り、はっとする。
由紀子は、勘が鋭い。
些細なことにもよく気が付き、正人をどきりとさせることがしばしばある。
彼女の匂いを落とさなくては、と思い、シャワーを浴びた。
新しい服に着替えて、洗濯機を回したところで時間が確認すると、2分を過ぎていた。由紀子が帰ってくるまで、あと1分もない。
正人は、出しっぱなしになっていた皿を流し台へ運ぶと、大急ぎで洗い、手巾で拭いた。これで完璧……と思ったところへ、ちょうど由紀子が玄関先の鍵を開ける音が聞こえて来た。
「ただいま、正人。変わったことは、なかった?」
「お、おかえり。早かったね。
うん、何も変わったことはなかったよ」
由紀子が正人の頬に口づける。同時に、くんくん、と匂いをかがれて、正人は、どきっとした。
「お風呂に入ったの? 石鹸の匂いがするけど」
「えっ、うん。汗をかいて気持ちが悪かったから……」
由紀子は、ふーん、と言って身体を正人から離した。
ばれなかっただろうか、と正人の心臓は、ばくばくだ。だが、それを表に出すことなく、訝しむ由紀子に笑顔を返した。
「はい、これ。正人の好きなシュークリーム。
冷蔵庫に入れておくから、あとで一緒に食べよう」
由紀子が笑顔で、持っていたシュークリームの入った袋を掲げて見せた。そのまま台所へ向かおうとするのを正人が遮る。
「ありがとう。冷蔵庫には、俺が入れるから。先に着替えてきたら?」
正人は、由紀子からシュークリームを受け取ると、台所へ向かった。何か見落としがないかどうか、不安になったのだ。
ざっと部屋を眺めた正人の目がある物に留まる。
(しまった! 牛乳を出したままだ)
正人は、慌てて冷蔵庫に牛乳を仕舞うと、シュークリームを袋から出して、一緒に冷蔵庫へ入れた。ほっとしたのも束の間、洗面所から由紀子の意外そうな声が聞こえた。
「あれ、洗濯機、回してくれたんだ」
「ま、まぁね。たまには俺も、家事を手伝わないとなって思ってさ」
「ふ~ん……珍しいこともあるものね。ありがとう」
今日は、雪でも降るのかしら、と言って由紀子がからかうように笑う。
正人は、素知らぬ顔でやり過ごした。
(大丈夫、大丈夫……何もバレてない)
服を着替えてきた由紀子は、リビングのソファに座ろうとして、やめた。
「……ちょっと待って。正人、これ、何?」
それまで明るかった、由紀子の声のトーンが一段下がる。
「えっ、それは……」
由紀子の指先には、茶色の長い毛が摘ままれていた。
正人の表情がさっと青くなる。
由紀子の髪の毛は、黒色だ。
「……あなた。また、あの子をここへ連れ込んだでしょう」
優しかった由紀子の顔が鬼のような形相に変わる。
(しまった! 掃除機とコロコロをかけておけば良かったっ!!)
そんなことを思っても、もう遅い。
証拠を掴まれてしまっては、もう正人には何も言い逃れができない。
「野良猫を家に入れちゃダメだって、何度も言ってるでしょう!
可哀想だとは思うけど、餌付けなんてしたら、ご近所さんにも迷惑がかかるんだから!
こんなことをするんだったら、もうお留守番は、任せられませんからねっ!」
「う……ご、ごめんなさい……お母さん」
こうして、正人と彼女の密会は、終わりを告げた。
その後、正人は、時々、由紀子の目を盗んでは、外で彼女と逢引をするようになったという。
終
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