『赤の儀式』※フィクションです。鬱注意!!
眩しいほど明るい空間の中。私は何かに怯え、震えていた。
光が私の皮膚を刺すように熱く、全身の神経が逆立つ。
(どこか……どこか隠れる場所は…………?)
懸命に首を巡らせるが、隠れる場所どころか、影一つない。
早く隠れないと……“あいつ”に見つかってしまう―――。
視界の端に黒い影を見た気がした。そこでふと、息苦しさで目を覚ます。
突然、視界に広がった光の刺すような痛みに、今まで見ていたモノが夢である事を知った。
どうやら電気を点けたまま眠っていたらしい。
しかし、その明るさに慣れるのに、さほど時間は掛からなかった。
左手首に付けられた腕時計を見ると、2時を過ぎている。
カーテンの隙間から覗く真っ暗な窓が夜半であることを告げていた。
仕事から帰って来たのが8時を過ぎていたのは覚えているが、どんな夢を見ていたのかは、忘れてしまった。ただ、まるで収まりそうもない動悸と、肌に張り付いたシャツの不快感が私の思考を狂わせる。
とうとう耐えきれなくなり、おもむろに、机の上に置いてあった爪切りを掴むと、それを自らの指に当てた。ぐっと力を入れると、刃を当てた部分から赤い鮮血が溢れ、遅れて痛みが神経を伝わる。
それで、いくらか落ち着きを取り戻す事が出来た。
私は、これを『赤の儀式』と呼んでいる。
もう何年も続けている所為で、体中に消えない傷跡が残っていた。
指先を彩る、赤。私の脳裏に“あいつ”の赤い顔が浮かぶ。
“あいつ”は、私を見付けると大声で何かを怒鳴りながら、私の身体を容赦なく痛めつけた。
私が逃れようとすると、髪の毛を捕まれ、机の角に頭をぶつけられた。
気が遠くなるのを、 “あいつ”が私の頬を叩いて引き戻す。
抗う事が無益だと気付いてからは、されるがままになっていった。
私は、いつも赤いフィルター越しに世界を眺めていた。
痣や傷だらけの私の身体を見ても、同級生たちは何も言わなかった。
関わらない方が身の為だと、賢い頭で理解していたのだろう。
そして、自然と一人で過ごす時間が多くなっていった私にとって、読書だけが唯一の楽しみになっていった。
その頃に読んでいた本の内容は忘れてしまったが、印象に残っている言葉ならある。それは、何かの伝奇だったか。
『何を生命と呼ぶか。
あらゆる意味から君を激動させるもの、君を突き貫くもののことです』
しかし、私には、激動させるものも、突き貫くものもない。
ならば、私は死んでいるのだろうか。
そんな事を考えながら私は、無意識に、出血の少ない傷口を更にえぐり、傷つけていった。そこから溢れ出す赤、赤、赤。
徐々に、ある筈もない酒の臭いまでもが濃さを増していく。
私は、酒が嫌いだ。
肉を引きちぎるかのように、爪切りを持つ手に力を入れると、正常な認識が出来なくなっている脳に電気が走る。
痛みだけが、私を現実世界に繋ぎ止めてくれるのだ。
指先は、まるでそこに心臓があるかのように脈打っていた。
……ああ、生きている。私は、生きているんだ―――。
胸に詰まった異物感が薄れ、呼吸が楽になった。
すると、血まみれになった指先に透明な液体が零れ、赤く染まる。
それが自分の涙腺から漏れた液体だという事を脳が理解するには、しばらく時間がかかった。
今日、仕事先から帰った私に、父が肝臓癌で死んだ、との連絡が入った。
病院に運ばれた時には、もう手遅れの状態だったらしい。
母は、私が高1くらいの時に亡くなったので、私が高校を卒業して家を出てから、父は一人きりで暴飲暴落の日々を送っていたのだろう。
酒癖の悪い人だったが、それ以外では真面目な父だった。
休みの日を除いて、毎日欠かさず仕事へ行き、家族の為に働いてくれていた。
ただ、人付き合いが苦手だったのか、同僚の人の話を聞く事さえなかった。
寡黙な父だった。
しかし、母が亡くなってからは、 “あいつ”の出現頻度が大幅に増えた。
私は、明かりの下に居ると、 “あいつ”に見つかってしまうのではないかと、いつもビクビクするようになった。
ただ、押入の中に身を潜めている間だけは安心出来た。
今でも明るい所に居ると、動悸とめまいがして息が苦しくなる。
暗い所に居ると安心出来たので、必要最低限の時以外は、電気を消す癖が付いた。
“あいつ”から受けていた数々の暴行が過去の事だとしても、それは確かにあった真実。
死んだと聞かされても、私の中で“あいつ”は確かに生きているのだ。
私は、何とも言えないもどかしさに、声を上げて泣きたくなった。
代わりに、血にまみれた指を口に含む。少しだけ、塩の味がした。
どうせ死んでしまうのに、何故人は生きるのだろうか。
学生だった頃、なぜ勉強をしなくてはいけないのか、解らなかったように。
生きることに何か意味があるのだろうか。
「可哀相な子……」
母は私を見る度に、よくそう言った。
そして、 “あいつ”の見ていない所で、私の怪我の手当をしてくれた。
涙声で何度も何度も「ごめんね」と謝りながら。
そんな母の姿を見ては、私は、母を悲しませる自分など生まれてきてはいけなかったのだ、と思った。
だから、何度も母の悲しみを排除しようと試みた。
左手首に巻かれた腕時計の下には、その証拠(あと)が幾筋も残っている。
しかし、そのどれもが失敗に終わった。
腕に沿って縦に切りつけなくては死ねないのだ、と知ったのは、ずっと後になってからだった。
そこに新しい証拠(あと)が付かなくなったのは、中学2年生の秋。
母が倒れた。
私は、母の看病やら家事などで忙しく、自分の本来の役目を忘れていた。
1年半ほど入院していただろうか。
ある日、死臭の漂う病室のベッドの上で、母は、私に言った。
もう疲れた、と。
そして、次のように続けた。
「一緒にいこうか……」
そう言った母の痩せ細った白い手を私は掴む事が出来なかった。
目の前にある、本当の意味での“死”を感じ取り、本能がそれに逆らったのか。
とにかく、そこの空気の不快さに耐えきれず、病室を飛び出した。
嫌な臭いが鼻に付いて、しばらく離れなかった。
それからだろうか。
私は、息苦しくなる度に『赤の儀式』を行った。
それは、一時の安心感を私に与えてくれたが、更なる乾きを呼んだ。
次第に、その回数が増え、痛みにも鈍くなっていった。
最近、同僚の人に、その傷跡を指摘されてから、なるべく行わないようにしていたのに、またやってしまった。
麻薬をやった事はないが、きっと、これとさほど変わらないに違いない。
私は、指を伝う血の軌跡を、ただ見つめた。
私の父も、母も、一人きりで死んでいった。
私も、彼らと同じように死んでいくのだろうか……。
翌日、私は、何食わぬ顔で職場へと向かった。
もちろん、私の左手人差し指に貼られたバンソウコウに気付く人はいない。
傷だらけになっていく私の姿を、ただ遠目に見て見ぬ振りをしていた母親。
まるで私など見えないかのように、無視をする同級生たち。
救いや希望などという言葉を私は知らない。
また息苦しくなって、私は、右手の人差し指の付け根を咬んだ。
今度は、苦い鉄の味がした。
こうして、今日も私は、『赤の儀式』を執り行う。
自分が生きている、という現実を確かめる為に……。
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