縛りを振りほどいて②


 ベルリンに着いて、僕は真っ先にエデルの住む石造りの家屋のベルを鳴らした。すぐに中から、トタトタと軽快な靴音が聞こえてきた。


「こんばんは、エデル。祥三郎だよ──うべっ」


 エデルは瞬く間に扉を開けて僕に飛びついてきた。


「よくぞ無事に帰ってきてくれた!」

 エデルは周囲を憚ることなく叫んで、僕を力一杯抱きしめた。

「えと、それは、エデルのお陰、だし……」

 恥ずかしさと嬉しさと戸惑いが一気に押し寄せてきて、僕はおたおたしてしまった。

「それに、僕のせいでエデルが神性を捨てることになっちゃったことが、今でも気がかりで。本当にごめんね……」

「そんなものはどうだっていい。前にもそう伝えただろう」

「いや、よくはないでしょ。普通の人間になってしまうのが、怖くはなかった? 元から持っていた寿命とか力とか、色々なものをなくしてしまって……」

 いや、とエデルはあっさりと否定する。

「繰り返すが、そんなものはどうだっていいんだ。祥三郎がどこにもいなくなった世界で何千年と生きる未来より、祥三郎と共に過ごせる短くとも幸福な一生を、私は選んだ。その選択について、私は何一つ後悔はしていない。今はただ、こうしてまた会えたことが、とても嬉しいよ」


 エデルは一際強く僕を抱きしめてから、真正面から僕を見つめた。

「約束通りここに戻ってきてくれてありがとう、祥三郎」

 僕もその灰色の目を真っ直ぐ見返した。

「こちらこそ、身を挺して僕を助けてくれて本当にありがとう、エデルトラウデ」

「ふふん」

 エデルは笑みを浮かべた。

「礼には及ばんぞ。さあ、荷物を下ろして部屋へ入るが良い」

「うわあ!?」


 僕はたちまち荷物を取り上げられて、首根っこを掴まれて部屋に放り入れられた。半神ではなくなって力を失ったとはいえ、怪力は健在らしい。


 これから僕は、この地でエデルにフルートを教えつつ、イルゼのサロンを盛り上げる仕事をしていくこととなる。

 ようやく新生活が始まるのだ。並々ならぬ苦労を乗り越え、命懸けで叶えた夢を、存分に味わう時が来た。


 荷物の片付けや役所への届け出などが落ち着いた翌々日から、僕はエデルとフルートのレッスンを行うことにした。エデルのための楽器を買いに行くのはまた後日とし、僕は自分のフルートの予備をエデルに渡した。


「フルートは、最初に音が出せるようになるまでがちょっぴり大変な楽器なんだよね」

 椅子に座ってニコニコしながら、説明を始める。

「まずは頭部管だけ持ってくれるかな。ここだけでも音は出るから」

「これか?」

「そうそう。じゃあまずは吹いてみて」

「分かった」


 エデルは吹き口を唇で覆って、全ての呼気を思い切り吹き込んだ。

 ふうーっ、と息が抜けていく音だけが発された。


「ああ……そっか。ごめん、そうじゃないんだ。フルートの口への当て方は、こう。吹き口に当てなくていい。ここから、吹き口のへりに向かって、息を細く当てて、息を二手に分散させる。そのことで振動が生まれるんだ」

「ん……? 息が分かれると、音が出るのか」

「うん。まあ、理屈はさておき、感覚を身につけなくちゃね。フルートの演奏においては、アンブシュアをしっかり作っておくことがとても重要なんだ。ピンケル教授も、よくそう言っていた」

「アンブシュア。確か楽典には、管楽器を演奏する際の口の状態のことだと書いてあった」

「うん、そんな感じ。よく覚えていたね。アンブシュアは、大抵は口の形のことだと思ってもらって構わない。適切な形で息を出せるように、口の筋肉を鍛えるんだ」

「ふむ。意外と困難なのだな」

「そうかも。僕の真似をしてもう一度やってみて。いくよ」


 エデルはまた、ふうーっと大量の息を吹きかけた。


「……鳴らないぞ」

「んー、ちょっと息が太すぎるかもなあ。細い息を使って、音がうまく鳴る点を狙い打ちしないと鳴らないんだ。息の勢いはそのままで良いから、もっと唇の隙間を狭くして……そうだな、一本の藁を咥えているみたいな細さにしてみて」

「そんなに小さくするのか。難しいな」

「そうなんだ。そのせいで最初の内は、口周りの筋肉が筋肉痛になるんだよね。でも鍛えれば筋力がついてくるから大丈夫。隙間を狭くすればするほど圧力がかかって、息がより鋭くなるはず」

「ふむ」

「ああ、それから、酸欠には気をつけて。ただでさえフルートは息の消費量が激しいし、吹き慣れないうちは特に息を無駄にしやすいから。気分が悪くなりそうだったら、遠慮なく休んでね」

「あい分かった」


 そんな会話をしながら音楽にとことん向き合う。幸せな時間だ。しみじみと僕はそれを噛み締めた。


 他にも西洋音楽の勉強やら、音感を鍛えるソルフェージュやらをやっていくうちに、あっという間に一ヶ月ほどが経過した。

 エデルのフルートの腕は徐々に上がっていた。音が出せるようになり、基本的な音階を網羅し、簡単なエチュードを吹きこなせるようにまでなった。

 もう少し上達したら、エデル専用の新しいフルートを買いに行こうと、僕たちは話し合っている。

 それから、結婚式の準備も進めていた。焦ることはないが、僕がこの地に留まるには必要な段取りだ。近々、僕たちは正式に婚姻するだろう。


 そんな折、僕は久々にイルゼのサロンに顔を出すことになった。僕たちは、イルゼやヴァシクや他の参加者、それにピンケル教授からも歓待を受けた。みんな、日露戦争のニュースを聞いて、僕が本当に生きて帰ってくることを知ってから、会って話を聞きたくてうずうずしていたのだという。誠にありがたいことである。


 みんなから、戦争はどうだったのか、どうやって勝ったのか、三笠の事故はどんなものだったのか、などと矢継ぎ早に質問を受けた僕だが、それに答えるのは、最初に僕が伝えたいことを伝えた後だ。


「みなさま、まずは、ショウの演奏を聞かせていただきましょう」

 イルゼが、僕に押しかける人々をなだめた。

「ショウ、舞台にお上がりになって。久しぶりのサロン参加ですけれども、今日は一体どんな曲を聞かせてくださるのかしら!」


 馴染みの顔ぶれに囲まれていた僕は、フルートを持って前に出て、ゆっくりとお辞儀をした。


「みなさんと再会する今日の日を祝って、新しい曲を書き下ろしてきました。題は『希望』です。どうぞ、お聞きください」


 拍手の後、すっと場が静かになった。

 みんなが僕に注目している。

 心地良い緊迫感が全身を駆け巡る。

 ああ、そうだ、自分の音楽を聞いてもらうというのは、こういう感覚だった。戦争に明け暮れていて、僕はこの感覚をすっかり忘れ去っていた。

 今、やっと取り戻せた。懐かしい。それに、しっくり来る。


 さあ、奏でよう。僕の音楽を。生きる歓びに満ちた音楽を。


 存分に吸い込んだ僕の息が、楽器に触れて、玲瓏な響きの音楽となる。


 僕は全身全霊をもって歌い上げた。


 並み居る音楽愛好家たちに向けて、敬意を。

 僕を助けてくれた仲間たちに向けて、深謝を。

 願いのために奔走した二人の乙女に向けて、祝福を。


 どうか彼らの行く道の先に幸多からんことを願って。


 そして、いつの日かこの舞台に、エデルと一緒に立てるようになる日を思い描いて。


 聞く者すべてを震わせるような情感たっぷりの旋律が、僕の希望を目一杯に託した音楽が、僕の呼吸に寄り添って紡がれていく。


 軽やかに、高らかに、華やかに。




 おわり

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海征く楽師と願いの乙女 白里りこ @Tomaten

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