第17話 SLの季節 1973年9月24日 月曜

 澄んだ空が広がると体育祭の季節になる。その体育祭は昨日行われて今日は振替休日になっている。僕はこの休みを使ってSLに乗るという日帰り旅に参加した。そのメンバーは、澤田くん、梅野くん、兼田くん、そして僕を加えて4人になる。彼ら3人はニコンやキャノンといったメーカーの一眼レフカメラを携えて、早朝の綾羅木駅にすでに集合していた。


 一学期の終わりに映画館に行った時は4両編成の電車だったから、僕にとっては今日が初めてのSL体験となる。彼らは小学校の時から鉄道写真家を標榜していて、撮影経験と鉄道の知識は大人顔負けだと学友たちは口を揃える。一方でカメラを持たず鉄道知識など素人同然の僕が、仲間に加わるのは奇異に映るかも知れない。でもやがて消えゆくSLを経験する誘いを、無下に振り払う理由など何処にあるだろう。


 2040年代になると、鉄道による大量輸送モデルは一部では残るけれど、通勤・通学で多くの人々を運ぶ光景は見られない。それは人口減少が関係していることも理由のひとつだけれど、むしろ生活スタイルの変化が、偏った交通システムを分散させたようだった。そこには自動車業界のパラダイムシフト ※(注8)が影響している。


 2020年以降は電気自動車のような次世代車の開発が急ピッチに進んだ。これに伴って内燃機関のエンジンは消滅してしまう。すると車に好みのデザインや性能を求めたり、所有したい欲求や喜びは失われてしまった。自動車を移動の道具だと考えるようになると、AIによる自動運転システムの開発が加速する。そしてコネクテッドカー ※(注9)の登場は車内を居住空間に変えて、移動時間そのものを仕事や生活の場に変えてしまう。


 国が交通システムを再構築すると、ドライバー自身が操作する車は減少して、無人走行車が主流になった。人々が必要な時に必要なだけAIタクシーを利用する時代がやってきた。2043年の世界では街や空中に無人タクシーが24時間溢れている。


 そんな未来の話は置いといて、今日は1970年代の鉄道を存分に楽しみたい。僕たちは駅のホームで6時52分発、上り益田行きを待った。空気は澄み、空は晴れ渡って気持ちのよい朝だった。僕は独り言のように 「長門市駅にはどのくらいで到着するんだろう」 とつぶやいた。即座に反応したのが梅野くんだった。「そうだね、ここから2時間10分だな」 兼田くんとカメラ操作について意見を交わしながら、梅野くんは顔を上げると教えてくれた。


 澤田くんは、ホームの端からゆっくりとこちらに近づいてくると、僕に語りかけてきた。


「摩耶、どうして蒸気機関車はSLって呼ばれるか知ってるか?」


「それは英語の Steam Locomotiveの頭文字だろ?」


「そうだよな、そしてディーゼル機関車はDLで、電気機関車はEL、でもこれはすべて国鉄の内部用語なんだよ」


「へぇ、そうなんだね。略語のひとつである頭字語(とうじご)を使っていて、これがスマートな印象を与えるね」


「ちなみに客車のことは、Passenger Carの頭文字を取ってPCなんだよな・・・」


 澤田くんの話に感心していると、カンカンと音を響かせて、ホームの先にある遮断機が降りた。後ろを振り返ると、SLが煙を吐きながらホームに進入してくる姿があった。そして音をきしませながらゆっくりと停車した。


 PCすなわち客車の、前後にある幅の狭いデッキから乗降する。でもそれは自動扉ではなく手動の扉だった。人々が乗降を終えるとSLはゆっくりと北の方角に向かって動き始める。僕たちは車内に入ると、向かい合わせに掛けるボックスシートに座った。上り列車だと海の眺めがよい左側を選ぶのが常らしい。彼らは進行方向が見える窓側の席を僕に譲ってくれた。


 暫く走ると、白い砂浜と波がおだやかな海辺の風景が開けてきた。両手で客車の窓を引っ張り上げると、青い海はより鮮明になり、ひんやりとした外気が入ってきて気持ちよい。3人といえばSL談義を止むことなく続ける。僕はさりげなく耳を傾けながら車窓に映る光景に見惚れていた。


 こうして列車は、9時2分に長門市駅に到着した。改札を出て歩き出すと、ほどなくして長門機関区が見えてきた。敷地内での立ち入り制限区域があるものの、それでもかなり自由に見学できる。そこにはSLが十数輌は入ると思われる堅牢な格納庫があった。


「これはね、扇形をしているから扇形庫(せんけいこ)と呼ぶんだよ。SLには前と後があるから、進行方向を変える時はSLの向きを変えないといけない。そうした時、扇形庫だと分岐器の数や設置面積が少なくて済む。方向転換させる転車台を中心にして設計されているんだ」このように兼田くんは素人の僕にも分かりやすく説明してくれた。


「おい摩耶。もうすぐ見られなくなるD51やC58が格納されているぞ!よく目に焼き付けておかなきゃ・・・」そう言いながら、澤田くんはファインダーを覗いては、シャッターを次々に切る。


 同じく梅野くんからもシャッター音が聞こえてきた。兼田くんといえば、じっくりと構図を定めているのだろうか、慎重にシャッターボタンを押している。


 国鉄職員の人たちは、数名の作業者でチームを組んで、念入りに車輛の点検をしている。また機関車後方に連結された炭水車に、SLの燃料となる炭をクレーンで補給する光景は圧巻だった。機関区は様々な作業があって見どころが多い。こうして気が付けば、いつの間にか正午を回っていた。僕たちは機関区を後にした。そして駅の立喰いうどん屋さんに立ち寄って燃料補給をした。


 お腹が満たされると、下り列車下関駅行き13時25分に乗車することにした。滝部駅まで1時間足らずで到着する。そこからは徒歩で次の駅まで歩いた。山あいに県道と線路が沿うように走っているので、ここは撮影スポットに事欠かないらしい。次の駅までは距離にして5キロあって、彼らは時刻表を確認しながら既に2カ所で撮影を終えていた。


 歩き進むと、谷間が深くなっている場所に差し掛かった。僕は少し疲れてきたので彼ら3人の背中を見ながら歩いていた。でも次第に彼らとの距離が空いていった。


 突然だった。誰かに背後から羽交い絞めにされて身動きが取れなくなった。その誰かは僕の首筋あたりから 「俺の仲間になれと言っただろうが!断ればどうなるか思い知らせてやる!」驚いたことにそれは間違いなく小津真琴の声だった。


 僕は首元を強く締め付けられて息もできないほどだった。それでも力を振り絞って声を上げた。「助けてくれ!!」これが精一杯だった。前を歩いていた3人は一斉に後ろを振り返った。途端に彼らは驚きと恐怖で顔を強張らせた。梅野くんは素早く反応して僕のところまで駆け寄ると、羽交い絞めをする小津の背中に回り込んで跳び蹴りをした。続いてあとの2人がやってくると、兼田くんは梅野くんのストラップを掴んで彼のカメラを引き寄せた。


 小津は僕を羽交い絞めしていた手を緩めると、梅野くんに襲い掛かった。取っ組み合いになると梅野くんは何度も顔を殴られたが、僕はこの時に初めて気がついた。そいつは僕の知っている小津ではなく別人の顔をしていた。地面に横たわった梅野くんに、尚も小津が馬乗りになって拳を振り下ろそうとしたその時だった。澤田くんはそいつの背後から体当たりをした。小津は澤田くんの攻撃に勝ち目が無いと感じたのか、立ち上がるや否や驚く速さで森の茂みへと消えて行った。


 ようやく立ち上がることのできた梅野くんの額からは一筋の血が流れていた。彼は皆の心配をよそに「大丈夫だったか?」と僕を気にかけてくれた。「摩耶、もう少し強くなれよー。おまえはあの暴漢に何も反撃できなかったな」 澤田くんはそう言って笑った。彼ら3人は暴漢の正体が小津真琴だったとは夢にも思っていない。


 深い谷間を通り過ぎると、夕暮れの日本海が少しずつ現れてきた。次の駅は長門二見駅という。ここは小さな漁村に住む人々の足となる駅のようだった。夕日が海へと沈む光景はとても美しいけれど、時間はそれだけ経過していることを意味している。この分だと家に帰るのは19時も遅くになるだろう。ふと、あの母親が 『いい加減にしなさい!』と怒る姿が目に浮かんだ。


 長門二見駅で列車に乗車して帰路につくと長かった一日を振り返った。消えゆくSLに触れるすばらしい体験と、突如登場した変装した小津の姿。チームワークを発揮して暴漢を退治した友人たち。僕にとっては長く記憶に残る貴重な一日だった。


 列車に揺られながら、先日のウルフマン・ジャックショーで『僕のコダクローム』 ※10という曲を聴いたことを思い出した。それは、『コダック社のカメラ用フィルムの発色が素晴らしく、ニコンのカメラで写真を撮るのが好きだから、ママは僕のコダクロームを奪わないで』という歌だった。僕は車内で3人にコダックのことを尋ねてみた。


「コダックのフィルムを使うことはないの? 色が綺麗だって聞いたけど・・・」


 澤田くんが直ぐに反応した。


「摩耶、それってコダクロームのことだろ?リバーサルフィルムすなわちポジフィルムのことだな。ポジは現像費用が高いんだ。しかもアメリカのフィルムは黄色味が強くてコントラストが低い。その点富士フィルムは日本人向けでコントラストや彩度が高い。それにSL撮影は何といっても白黒フィルム(モノクロームフィルム)がベストなんだよ。これが迫力ある写真を生むんだ。色が付けば良いってもんじゃないんだぞ」


「なるほど、そうなんだね。今日はほんとうに勉強になったよ」・・・・・・『それにしても、中学生だというのに何でこんなに詳しいのだろう?』


★――――――――――――――――★


※10 『僕のコダクローム』 原題 『Kodachrome』 は、ポールサイモンが1973年5月に発表した曲。アメリカビルボードチャートでは2位を獲得した。BBC放送は商標を嫌って放送しないだろうという噂が広まり、イギリスではシングルが発売されなかった。題名はコダックのカラーリバーサルフィルム「コダクローム」のこと。ネガフィルムとは異なり、見たままの画でスライドとしてスクリーンに投影することができる。ポール・サイモンは発音を間違えてニコンをナイコンカメラと歌っている。


※(注8)パラダイムシフトとは、その時代や分野でこれまで当然だと考えられていた認識や思想など、価値観が劇的に変化することをいう。


※(注9) コネクテッドカーとは、インターネットへの常時接続機能を有する自動車で、IT化により快適性や安全性の向上、クラウドとの接続で様々な情報サービスを受ける事が出来る。

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