第16話 一次方程式 1973年9月7日 金曜

「津々木くん、2060年の世界ではどこに住んでいるの?」


「私は警察庁の部局である“時間犯罪警察局”に所属しているんだ。だから都内の文京区に住まいを構えている」


「えっ!偶然だな、僕が2043年に住んでいたマンションも文京区なんだよ。住所はどこ?」


「それはどうでもいいことじゃないかな。そんなことよりも君が過去へ跳躍して意識スライドした経緯を詳しく聞かせて欲しいね」


 僕の網膜ディスプレイにメッセージが入ってきた。そこには 『ただいま無変換でお送りしています』と表示されている。


「なんだ、津々木くんは標準語で話せるんだ」・・・僕は翻訳機の電源を切った。


「あたりまえだろう!あれは捜査対象者をかく乱させる為の、いわばツールなのだから・・・大切な会話を聞かれたとしても、分かり難いだろう?良し悪しは別として、犯罪者の心理にも少なからず影響を与えることが出来る。まあ何かと役に立つということだよ」


『そうだとしても、転入早々、自己紹介であそこまで攻めることもなかっただろうに。 生徒達に与えたインパクトを考えると、逆に目立ち過ぎるような気もするけど』


「それはそうと、津々木くんの出身は秋田県なんでしょ?」


「そうだ、秋田は良い処だぞ。言葉に温かみと親しみがあって大好きだ。かつては田舎を象徴する言葉として蔑視の対象にされたこともあったがね。此処のような過去の世界では特にだ。しかし今では評価は逆転した。言葉を含めて未来に残すべき価値ある大切な風土とされている。君は言霊(ことだま)というのを知っているか? 言葉には霊力が宿るんだよ。不吉な言葉を使えば凶事が起こるが、良い言葉を発すれば良いことばかりが起きる。秋田の言葉には、呪力が備わっているとも言われている」


「そうなんだね。でも標準語で話すことができるんだから、君と2人で話すのにラーニングモードは必要ないよね」


「何を言っているんだ! 小津のような者が近くにいる時などは、必ずスイッチを入れておいてくれたまえ」


 昼休み時間の廊下は彼との情報交換場所となるかも知れない。その昼休みもそろそろ終わりが近づいてきた。津々木くんは、ふと腕時計を見ると動揺し始めた。


「さい!5時間目体育でねが。ちゃっちゃど体操服さ着替えねばまにあわねぁ。なんじょすっべ?先生さごしゃがれるは」 彼は3組の教室に慌ただしく駆け込んで行った。 


『いい大人なのに「どうしよう?先生に怒られるよ」って言ってたな・・・・・・あれっ?なぜ分かったんだろう。僕もそのうちにこの言葉が会得できるかも知れないな。でも当面はラーニングモードにしておくのが良さそうだ・・・』


 5時間目の数学が始まった。女性教師である安河先生は語尾がはっきりした言葉遣いで、手際よく授業を進めていくベテラン教師だった。


 先生は一次方程式について説明を続けている。方程式はこれから高校まで続く重要な単元だけど、初めて文字式を使う生徒にとっては難しく感じる。それを克服するには、つまずかないようにとにかく授業について行くことが肝心になる。


 先生はオーバー気味に右腕を振って大胆にチョークを走らせる。僕は板書されていく数字や文字を漠然と眺めながら、あの不思議な香りに思いを馳せていた。それは時空を超えた夜にほのかに漂っていた匂いのこと。以前どこかで嗅いだことがあったと、はっきり記憶している。それから技術教室で僕に詰め寄る小津真琴。彼からも同様の香りがした。そして先ほどの昼休みもそうだった。津々木捜査官からもかすかに香っていた。


 そういえば『時をかける少女』(※注7)では、ラベンダーの香りが時間移動の重要なアイテムになっている。このSF小説は、少年の母親から与えられた41冊のノルマに含めた本だったので記憶に新しい。


 ある日、中学3年生の主人公は、理科室の掃除をしている時にラベンダーの香りを嗅いで意識を失う。数日後、彼女は交通事故に遭いそうになった瞬間に、前日の朝にタイムリープする。やがて自分の意思でタイムリープが行えるようになった主人公は、4日前の理科室へ跳躍した。そこで2660年の未来人に出会うことになる。彼は未来では入手困難になったラベンダーを採取する為に過去にやって来たことを告白する。そしてタイムリープに必要な薬品を理科室で調合すると、未来へ帰ってしまうという話だ。


『小津が接近してきたときに香水のような匂いがしたでしょ?それも跳躍に関する重要な鍵なのよ』相川さんは市立図書館でそう言っていた・・・・・・やはり匂いが鍵となるこの仕組みを何とか解明しなければ――――さて、でもどうすればよいのだろう? いずれにしてもあの香りを利用しなければ、いつまで経っても2043年に戻ることは叶わない』


 隣の席にいる相川さんをそっと見ると、一瞬だけ目が合った。いつもは目が合うと目線をそらすことが多いのに、今日はそうしなかった。彼女は小津から情報を引き出せないまま、もどかしい思いをしているのだろうか。それから捜査官がこの学校に来たことで、苛立ちを隠せない小津のことだ。彼が相川さんに辛く当たっていることも十分考えられる。


 小津が相川さんに香りの秘密を安易に話すとは思えない。だとすると、捜査官から情報を引き出すという方法はどうだろうか?捜査官が協力してくれるとありがたいけれど・・・・・・


「そこの君!あなた違うこと考えてるでしょう?」安河先生は右手に真っ直ぐチョークを握って僕を指さした。そして机の前までやってくると僕を見下ろした。


「あっ、はい」


「なに開き直ってるの?」


「いや、そういうことじゃなくて・・・・・・」


「前を向いたまま目線が動かないと思えば横を向いたり、心ここにあらずじゃない? いったい何を考えてるの!」


「すみません」


「一次方程式はしっかり理解しておかなければ、あなたが困ることになるのよ! ではこの問題を解いてみなさい。私の説明を聞いていれば分かるはずよ」そう言って先生は教壇まで戻ると黒板に例題を書いた。


“4x+1=x−2”


僕は先生が書き終えるタイミングに合わせて 「x=−1です」と答えた。


「・・・・・・正解ね。まあ、今日のところは許してあげるわよ。塾で予習していたようだね。だからといって授業をないがしろにするんじゃないよ。しっかり反省しなさい!!」


 僕としては2回目の人生を送っているんだから、繰り返し説明を受けなくても、この程度のものは直ぐに解ける。おそらく大学レベルの数学でも大丈夫だろう。でもそれが災いしているというか、真剣に授業を受けようとする姿勢をどうしても妨げてしまう。相川さんを見ると、彼女は共感してくれているかのようにゆっくりと深くうなずいてみせた。


★――――――――――――――――★


※(注7)筒井康隆のSF小説 『時をかける少女』は、鶴書房盛光社より1967年3月に刊行された。その後、テレビドラマ、実写映画、アニメ映画化されている。繰り返し映像化されるので、作品は若手女優の登竜門と言われた。筒井康隆は『金を稼いでくれる孝行娘』『銭をかせぐ少女』などと表現していたと言われる。

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