第8話 クリティカルエラー 1973年7月11日 水曜

 今日も朝から雲ひとつない青空が広がる。「7月4日には梅雨明けしていました」と居間のテレビから聞こえてきた。これは例年に比べるとかなり早いらしい。


 教室は小高い丘の上に建つ校舎の3階にあるから見晴らしが良い。教室を出た廊下の窓からは眼下にパノラマが広がる。先週の期末テストは問題なく終わって、来週21日からは夏休みに入る。窓の外から聞こえてくる蝉の声も、いつの間にか賑やかになってきた。


 少年の父親が夕食の時に話していた。1965年頃になると中学校周辺の宅地開発が急速に進んだから、児童数は増加の一途をたどったらしい。小学校の校庭には、急増する児童を受け入れる為にプレハブ教室が次々と建ち並んだ。当然、教職員は不足するから補充が必要だった。人事異動や通学区域の見直しなどに父親は日夜奔走したという。なるほど、これは市の教育委員会に勤務する彼の苦労話だった。


 学年あたり6クラスまで増加した小学校は、1970年には2校に分かれたから学年3クラスになった。中学に上がれば再び統合されるから、1学年6クラスに戻ることになる。その中学校ではいまだに新校舎を増築中で、完成するまで2年生の一部がプレハブ教室で授業を受けている。


 元の世界では出生率は下がり続けていて、少子化が止まらない。15年前、政府は局面打開の為に移民政策に本腰を入れた。これは2043年において総人口1億人を維持するという効果をもたらした。それでも1970年が1億人だから、73年経過しても増加数はゼロだった。ピークは2008年の時で1億2800万人だから、むしろ2800万人減少したといえる。


 窓から前方北3kmあたりに少年の家が見えた。そこは手前の住宅密集地の先に広がる田園地帯より更に向こうになる。遠く正面には600mくらいの山があって、北西の方角は海水浴場のような砂浜が広がっている。海岸線を沿うように南北方向に線路のレールが伸びていて、そこに蒸気機関車が走っているのが見えた。北東には新たな高速鉄道と思われる高架が建設中で・・・・・・


「おい、授業が始まるぞ!いつまで外を眺めているんだ?!早く教室に入れ!!」野々村先生が大きな手で僕の右肩を後ろから強く掴んだ。景色に夢中になってしまい、始業時刻のチャイムが鳴っていたことに気が付かなかった。


 6時間目は音楽室での授業だった。『主人は冷たい土の中に』が課題曲で、七島先生が合唱の指導をする。作曲者であるフォスターや近代アメリカ音楽についても学習した。その後は 『帰りの会』 があって、部活動の時間になる。


 帰りの会が終わるころ、野々村先生は 「摩耶は後で職員室に来るように」と言い残して教室を出ていった。 ざわつく生徒達をかき分けて、澤田京一くんが僕の机までやってきた。


「おまえ、何をしでかしたんだよ?職員室なんて余程のことだな」


・・・「そう言われても身に覚えがないけど」


「部活に遅れるとまた監督に怒られるぞ?!」


・・・「仕方ないよ。とにかく行ってみる」


 別棟の一階に向かいながら、『そういえば先生は朝から機嫌悪そうだったな』と、朝の出来事を思い返していた。


「失礼します」 声をだして職員室に入ると、「来たか、まあそこに座れ!」野々村先生は応接テーブルを指さした。他にも豊橋先生と山上先生がやってきた。3人に囲まれるとまるで取り調べのようだった。


「なぜ呼ばれたのか分かるな?」野々村先生が口火を切った。僕は首を横に振ると、黙ったまま先生の持つ用紙の束をじっと見つめた。


「期末テストの答案用紙だが、これは君のものじゃないのか?」先生は答案用紙の束から一枚を抜いてテーブルの上に置いた。「氏名欄には『鹿間陵汰』、『しかまりょうた』と読むのかな?どの教科の答案用紙にもそう書いてあるが、摩耶浩之と書かれたものはひとつもないぞ!」 


 僕は絶句すると同時に心の中で叫んだ 『なんという失態!うっかりして本名を書いてしまった』・・・・・・


「これは誰のことだ?鹿間という名の生徒はこの学校にはいないけどな!さあ説明してみろ!!」 


――――「なぜこのような名前を書いたのかどうしても思い出せません」


「なんだと?君は教師をからかっているのか!そうか、しらを切るつもりだな?だがな、職員室に君を呼んだのは名前のことだけじゃない。もっと大事な疑惑があるからだ!」


・・・・・・『疑惑?何のことだろう?』


「5教科に副教科の4教科、9教科全ての採点は終わった。その結果、この鹿間陵汰の答案用紙には間違いがひとつもなかったんだ。こんなことが現実にあると思うか?これはカンニングをした証拠じゃないか!」


・・・・・・『なんでそうなるんだ?』


「君は不正をする自分に良心の呵責を感じた。耐えきれなかった君は、あえて架空の名前を記入したということだ。きっとそうに違いない。ところでカンニングはどんな方法でやったんだ?早く言ってみろ!」


「カンニングなどしていません。英語のテスト中は翻訳機のスイッチを切っていました。それにデータベースも今は作動停止しているから使えません」これを聞いた野々村先生は激高した。「何を訳の分からんことを言って胡麻化そうとする!!」振り上げたこぶしをテーブルに叩きつけると、その音は職員室中の視線を集めた。そして「俺は嘘をつく人間が一番嫌いなんだ!」と怒鳴った。


・・・・・・『そうだろうとも。まっすぐな性格で熱い想いが信条の先生なのだから』このような状況なのに、開き直りとも取れる冷静なコメントが頭に浮かんだ。もちろんこれを口に出すことはなかった。そうすれば、ここが修羅場と化すのは間違いない―――


 山上先生は時々メガネを一本指で上げる以外、うつむき加減に黙って腕を組んだままだった。豊橋先生は静かに口を開いた。「摩耶くん、はっきりとした証拠は出てないのよ。でも疑いが残れば見過ごせないわよ。職員会議にはかって、どのような採点結果にするか決めることになると思う。摩耶くん、それで了承してくれる?それから、ご両親には決定後に連絡することになると思います」


――――――「分かりました」僕は渋々だったけれど深く頭を下げた。


 職員室を出て渡り廊下まで歩いたところで足が止まった―――『まったく!僕が何をしたって言うんだ。名前を書き間違えただけじゃないか!しかも全問正解して怒られるなんて、こんなことがあっていいのか?』・・・・・・なぜだか相川さんの顔が突然浮かんできた。『疑いをかけられたら居場所が無くなると言ったでしょ?でもこれはまだ致命的なダメージじゃないから安心して。大丈夫だよ、あきらめずに頑張れ!』彼女はそう言ってくれているように思えた。


 思わず3階まで階段を駆け上って教室に戻った。でもそこには相川さんの姿はない。多くの生徒達は帰宅していて、部活中の生徒もまだ教室に戻ってきていない。室内は薄暗くて誰もいなかった。暫く教室にひとりたたずんでいた僕は、我に返ると通学カバンを手に取って学校を後にした。


 帰り道ではさまざまなことが頭に浮かんできた。


『野々村先生が怒るのも無理はなかった。いくら生徒思いの先生でも、今日の僕の態度じゃ許せないよな・・・・・・』


『他人を装うというのは想像を超えて神経を使う・・・いや使わなければならないんだ』 


 夕暮れ迫る空の下を独り歩きながら何度もため息をついた。元の世界が恋しいと想うと、あふれ落ちる涙が頬を伝った。

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