第3話 他人を演じる 1973年6月29日 早朝
僕の意識が他人の意識を押し出した。少年にすれば、誰かが体内に無断で入ってきて全ての知覚を奪い去ったようなものだろう。少年の意識体は今頃どこにあるのだろうか?
考えただけでも怖くなる。想像すらしなかった惨事が2人に起きている。出来るなら解決方法を直ぐにでも見つけて元に戻りたい。でも今は先決すべき課題に集中しなければいけない。それは他人をいかに演じ切るかということ。
人と会話を交わしても余計なことは言わない。会話は必要最小限にして出来るだけ相手から情報を得よう。間違いを起こすこともあるだろう。それでも失敗を表情に出さないこと。相手が違和感を覚えたとしも心配せずに。何とかなるから慌てることはない・・・・・・そう自分に言い聞かせた。
目の前にあるドアは未知の世界に繋がる 『過去への扉』 だった。時計は5時10分を指している。これを開ける時刻を7時にしようと決めた。季節は梅雨で相変わらず外の雨は降りやまない。『少し体を休めておこう』―――――流れる音楽をぼんやりと聴きながら、あれこれ考えた。
僕は2019年に生まれると、この4月22日で24歳になった。大学を1年前に卒業して就職したのは民間企業の研究所だった。大学では理学部物理学科に在籍して、量子力学を専攻した。今は学んだことを活かして研究助手をしている。そこには最新のコンピュータが置かれていて、次々に製品開発をする。それだけに忙しいけれども、とてもやりがいのある仕事だった。
そういえば、明日の出勤に備えて昨夜は研究レポートを整理していた。レポートは2043年6月29日の月曜日に提出しなければならない。でも眠っている間に70年前に移動したのだから叶う筈もない。それから意識だけが時空を跳躍したということは、元の世界の僕の体は一体今頃どうなっているのか心配でならない。
量子力学にも時空間についての概念がある。それは時間と空間は単一のものではなく、多元的に存在するという考え。つまり同一次元には分岐した世界が並行して数多く存在すると考えられている。学生時代は、そんな学びからタイムトラベルやマルチバース(多元宇宙論)に興味を惹かれた。そのころは時間旅行がこんなに早く身に降りかかるとは知りもせずに・・・・・・暇を見てはあれこれ調べては夢を膨らませていた僕だった。
時間の流れに逆らい、現在から過去へ意識だけが跳躍するのがタイムリープ。当然だけれどそれを他人が目撃するのは難しい。それでも多くの体験談があって人気を集めている。『もう一度人生をやり直すことが出来る』という点に人々は魅力を感じるのだろうか。跳躍の方法を誰もが知りたがり、真偽は別として多くの事例が紹介されている。
そのひとつに 『明晰夢を利用する』 というのがある。明晰夢とは自分が見る夢を、これは夢なのだと自覚して見る夢のこと。まず戻りたい過去のポイント(年月日)を決めて夢を見る。望んでいたポイントが夢の中に現れた時、夢の中の自分と入れ替われば過去に跳ぶことが出来るという。その為には明晰夢を見る訓練から始めなければならない・・・・・・でもこの僕はチャレンジ半ばで挫折してしまった。
タイムリープは気軽に楽しめる旅行とは違う。跳躍した先の過去から跳躍を開始した現在まで、時間が流れさえすれば元に戻るとは限らない。稀に 『タイムループ』が発生することもある。タイムループとは同じ時間を繰り返すこと。何らかの条件をクリアしない限り、始点から終点までを何度でも繰り返す。何千回でも何万回でも、あるいは永遠に繰り返すかもしれない。これではいつまで経っても元の時間の流れには戻ることができない。このようなリスクを冒してでも時間旅行がしたいと誰も思わないだろう。
星は1年かけて天を1周する。霜は毎年降りることから年月のことを星霜という。そこには悠久の時が静かに流れている。僕は振り出しに戻るかも知れないという不安を携えながら、星が天を一周するのを、霜が降りるのを見続ける。こうして幾たびも繰り返される自然の摂理に身を委ねるほかないのだろうか?
カーテン越しに見る空はいつの間にか明るくなり、雨は止んでいた。時計の針は6時42分を指している。再び列車の通過音と汽笛が遠くから聞こえてきた。こうして今宵のタイムリープは、他人を演じることになった僕の運命を大きく変えようとしていた。
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