第19話 バベルの図書館 1973年11月3日 土曜

 僕の持つデータ基盤は相変わらず停止したままピクリとも動かない。原因は分からないけれど、どうも単なる故障ではないようだった。翻訳機が正常に機能しているのだから、通信障害は発生していないはず。しかもデバイス自体は不具合が発生しても99.99%の自己回復率で復旧される。すっかり忘れていたけれど、操作マニュアルにはそのように説明があった。


 機器の故障でなければ、誰かによって通信遮断されたのかもしれない。でもそんなことを誰が何のために遮断するのだろうか?


 恨みを持つ者の怨恨犯罪?恨みを持たれるなんて身に覚えがないから、それはないだろう。 


 組織犯罪に巻き込まれてしまったのか?そんな危ない組織には縁はないはずだけど。 


 国家機密を知った為に命を狙われている?僕が機密に触れる機会などひとつもない。 


 知らないうちに組織に利用されて用済みになった男なのだろうか?


「考えればきりがない。でも小説にするなら 『用済みの男』が一番面白いかも知れない。抹殺されそうになった主人公が、組織の闇にメスを入れようと次々に謎を解き明かす。こんな逆転劇はとても爽快な気分にしてくれる ―」


「― 妄想的に思い描く。つまり根拠のない想像をするようになったのは、夏休みに読んだ推理・SF小説に影響されたからだろうか。でも現実味のない事を思い描くことも想像のひとつには違いない。妄想は病的な思考と言われるけれど、妄想とは想像と表裏一体ではないだろうか ―」


「― たしかに 『用済みの男』・・・見方によってはそれもありなのかな?そもそも僕は 『意識スライド』を伴ってこの世界に突然跳ばされた。誰かが放り出したことも十分に考えられる」


「会話は控えてください。正確に言うと独り言ですが・・・」頭を上げるとテーブル席の前に男性が立っていた。


 何の授業を受けていたのかと頭が一瞬混乱する。でもよく考えてみれば此処は図書館だった。


「すみません、つい悪い癖が出ました。気を付けます」顔が紅潮しているのが自分でも分かった。司書の男性は更に続ける。


「静かに行動してもらえれば図書館を自由に使ってもらって構いませんから」そう言うと彼は貸出カウンターの奥にある事務所のドアまで戻って行った。


 今は市立図書館の3階。一般図書コーナーのテーブル席に僕は掛けている。今日は文化の日で休日なんだ。祝日でも開館しているのを知った僕は、独り書籍に囲まれた休日を朝から楽しんでいた。この世界にやって来た日から今日までを振り返るのもいい。この静かな環境で一日を過ごすのは悪くない。


 僕の目の前のテーブルには図書館の歴史を綴った1冊の厚い本が置いてある。棚に並んでいるのを見つけたのでなんとなく手に取ってみた。


 この本にはこう書かれている。図書館とは蓄積型文化施設の一種。図書の収集・保管・利用者への提供をおこなう建物を言う。アッシリアで紀元前7世紀に建設されたものが最も古く、紀元前3世紀にはエジプトのアレクサンドリア図書館が、40万巻に及ぶパピルス紙文書を収蔵したと言われている。そしてそこは最大かつ最も重要な学術の殿堂だった。20世紀に入ると図書館は国民の情報や知識の共有施設になった。無料で本を貸出しするという公共サービスが発展していった。


 僕が住んでいた2043年ではこのような施設は存在しない。あるのは珍しい出版物を展示するような本の博物館だけになる。21世紀になると、わざわざ本を借りようと考える人はほとんどいなくなった。更に2030年代になると例のデータ基盤が流行して、様相は一変してしまう。図書館は事実上絶滅してしまう。


 図書データベースをサブスク契約すれば、僅かな月額料金で世界中の書物を手に収めることができる。では世界の書籍総数はいったい何冊だろうか?僕が高校の授業で教わったその数は“1億3千万冊”になる。 これはアメリカのグーグル社が2010年にISBN(国際標準図書番号)を基にして解析した数で、その後は年に7万2千冊の本が発売されているらしい。


 新刊の7万2千冊を1年で全て読もうとするなら翻訳機を契約しておくと便利だと思う。その中に新語が含まれていたとしても、翻訳機が学習して日本語に変換してくれる。ただし1年で読破するには、1日に198冊読まなければとても追いつかない。どんなに速読したとしても人間には不可能というものだ。


 話は変わるけれど、僕がこれまでに読んだ本の中に生涯忘れることのない1冊がある。それはホルヘ・ルイス・ボルヘスという作家が著した 『伝奇集』 ※注10という短編集。その中に 『バベルの図書館』という話がある。


 死期が迫った老司書の主人公が 『宇宙』と名付ける巨大な図書館があった。人々はそれを『バベルの図書館』と呼んでいる。その建物は中央に巨大な換気孔がある六角形の閲覧室が天にとどくほど積み重なっている。閲覧室は上空に際限なく続き、その壁に据えられた本棚にはびっしりと本が収納されている。六角形のうち一面はホールに続いていて、そのホールを抜けると別の閲覧室に繋がっている。


 ホールの扉付近にある螺旋階段を使えば、上下の閲覧室に行くことができた。司書や図書館の職員たちはそこに住み、そこで生涯を終えると換気孔に投げ捨てられる。 


 司書たちは一生を懸けてどこかに存在する重要な本を求めて、絶望的な館内旅行を繰り返す。その道半ばで命を落とす者は多い。神秘主義者は無我の境地に達すると円形の部屋があらわれて、この世界の真理を知ることができると言う。またある司書たちは、書物は何事も意味していないのだと言う。図書館のどこかに他のすべての本の鍵になる本が存在していて、それを読んだある司書が神に似た存在になったという迷信まである。


 物語の結びはこうだった。『図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数百年後に、おなじ書物がおなじ無秩序さでくり返し現れることを確認するだろう』


 有限であるはずの図書館をひとつの宇宙に見立てている。閉じられた世界であっても水平線のかなたまで拡がる姿を目にすることは出来ない。読む者をこのような無限性に気づかせてくれる。


 哲学的であり、宗教的でもあるこの話は19944年に刊行された。ある意味コンピューターの設計概念に通じるものがあると思う。1944年と言えばIBMがアメリカ初の電気機械式計算機を世に出した年になる。


 あれこれ思いを巡らすと時間の経過を早く感じる。壁に掛かる時計は午後2時15分を指していた。なんとなく、そろそろかな? と思うころに彼女はやってきた。


 彼女は、ブルーシャツにカーディガンを羽織り、チェックスカートという装いだった。今日も堂々の校則違反で僕の向かい側の席に座った。


「相川さんは、僕の行動を何らかの方法で知ることが出来るんだよね。そうだとすると、休日は僕が一人で校区外に出掛けるといいんじゃないかな?」


「そうね。そうすれば今よりも会える機会が多くなるわね。ただし、小津も同様にあなたの行動を監視しているから、十分に気を付けないといけないわよ」


「やっぱりそうか。だからこの前も突然襲われたんだ」


「会話は控えてくださいと言ったでしょう」司書の男性が慌てて貸出カウンターからやってきた。これは今日2度目の警告になる。僕は本を棚に戻しながら彼女に聞いた。


「この前行った店にこれからコーヒーを飲みに行かない?」彼女はにっこりと嬉しそうにうなずいた。


 階段を降りて出口に向かいながら、僕は知らぬ間に鼻歌を歌っていた。


「それ何の曲?」


「あぁ、昨日ラジオで流れてた『名前のない馬』※11 って曲だよ。“ラーラー”ってフレーズがやけに癖になるんだよ」


★――――――――――――――――★


※11『名前の無い馬』 原題 『A Horse with No Name』 は、『アメリカ』が1972年4月にリリースした曲。ビルボードチャートで1位を獲得した。


※(注10)伝奇集とはアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899-1986)の19編からなる代表的な作品。夢や迷宮、無限と循環、架空の書物や作家、宗教・神などをモチーフとする幻想的な短編作品によって知られる。彼の評価は1960年代の世界的なラテンアメリカ文学ブームによって確立され、その作品は20世紀後半のポストモダン文学に大きな影響を与えた。

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