第12話 ピエリス文庫 1973年7月24日 火曜

 少年の父親が昨日の夜に戻って来た。昨日でちょうど1週間になる。11歳になる少年の弟は 「今回は早く帰って来たなぁ」とつぶやいていた。だからそういうことらしい。父親は普段と変わらない朝だと言わんばかりに、少年の母親が作る朝食を食べ終えて仕事に出かけてしまった。僕はお互いが何事もなかったように振る舞う姿を見て思った。夫婦とは不思議な縁で結ばれていて、他人が介在する余地は1ミリもないのだと。


 夏休みであっても部活は続く。でも午後から始まるので昼食の弁当はいらない。これでようやく白ご飯弁当は自然消滅すると思えた。少なくとも家では3食おかず付が毎日続いている。 


 ところで終業式の日に持ち帰った通知表を母親に見せても、彼女は総合ランク3に特に反応しなかった。「2学期は最低でもこれより1つ上げる努力をしなさい」と言っただけだった。カンニングを理由に減点された成績には興味を示していないようで、思ったほど不機嫌になっていない。


 彼女の表情を見ていた僕は少なからずミスを犯してしまった。桜坂家でのレコード鑑賞以来、夢に出るまでブライアン・メイの弾くギターの虜になっていたからだった。


 欲しくもないと思っていたギターが今では欲しくてたまらない。今朝は彼女の機嫌が良さそうだったので1つの提案をしてみた。でも言わなければよかったと後で後悔してしまった。


「二学期は必ずランク4にしてみせるから、ギターを買ってくれない?約束するから・・・」 


暫く考え込んでいた彼女は口を開いた。


「何を調子に乗ってるのよ!そのぐらいの事で挽回だとでも言うの?そう言うのなら二学期はランク5が絶対条件よ!そして、これから与える夏休みの課題を必ず達成させなさい!」


これではもう後の祭りだ・・・・・・


「それじゃ、こうしましょう。今日から夏休みが終わるまで本を毎日1冊読みなさい。そして1冊につき400字詰め原稿用紙で読書感想文を最低1枚は書きなさい。これが出来なければ、ランク5になったとしても買ってあげないからね」


『今日が7月24日で夏休みの終わりが9月2日だから41冊か・・・感想文は面倒だけど、薄っぺらい本を選んでおけば楽勝だな』すると彼女が付け加えた。「最低200頁以上の本が1冊の条件だからね!」 


『なんだって?彼女はどうしていつもこんな事ばかり言うんだろう。夏休みは好きなことをして羽を伸ばそうと思っていたのに、こんなノルマは想定外だよ』こうなるとため息しか出てこない。


 41冊の本を借りなければならないけれど、市立図書館は遠くて交通費もかかる。どうしたものだろう?―――もしかすると少年の父親に頼めば引き受けてくれるかもしれない。いや、彼はやさしく親切だからこの面倒な作業だって快く受けてれるはず。あとは以前聞いたことのある私設図書館もある。梅野くんにもう一度その詳しい場所を聞いて、今日の部活帰りに行ってみよう。


 行政書士の先生が自宅敷地内で無料開放しているという図書館は、海水浴場へ通じる道を駅から2分ほど歩いたところにあった。『ピエリス文庫』という可愛らしい名が入口に掲げられている。ピエリスとはギリシャ語で紋白蝶のことだとあとで知った。目の前の私設図書館は小さく可愛い名にぴったりの建物だった。ドアは鍵は掛かってなく、靴を脱ぐと無人の室内に入った。中は8畳ほどで四方の壁に据えられた棚には文庫本が隙間なく詰められていた。


 ここにあるのは、先生が購入して読み終えた本ばかりらしい。学生たちに無償貸出するという社会貢献活動は、なかなか真似のできることではないと思う。本を持ち帰るには、貸出ノートに日付、タイトル名と、借り手の氏名を記入するだけでよかった。貸出期間はおよそ2週間程度でよいとゆるいルールになっている。部屋の中が雑然としているところを見ると、棚から取り出した本をパラパラとめくったあと、元に戻さない生徒がいるのだろう。テーブルの上には、お菓子の食べカスが巻き散らかっている。管理者不在だと、どうしてもルール通りにはいかないようだった。このようなボランティアで行う運営は骨の折れる作業だと思う。


 棚に並ぶ本のタイトルを一通り眺めてみる。先生の好みなのだろうか、ミステリー小説、SF小説などのジャンルが目につく。ミステリーなら『創元推理文庫』か『ハヤカワ・ミステリ』だった。海外小説だと『ハヤカワ文庫』、SFならば『ハヤカワSF文庫』など早川書房のレーベルが並ぶ。


 数は多くないけれど洋書も置かれていた。SF物は僕の好みでもあるし、母親からはジャンルの指定がなかったから、どうせ読むなら自分が面白いと思うものが一番良い。今日のところは早川書房の本を3冊借りて帰ることにした。貸出ノートの頁をめくると僕の知っている生徒達が名を連ねている。


 それにしても断熱性の低い簡易的な建物だからだろう、この部屋は暑い。今は夕方5時半なのに、エアコンが無くて温度が高いから、むしろ熱いと言ったほうが正しい。こんなに熱いとビールでも飲みたい気分になってくる。この世界に来てもう1ヵ月近く、アルコールを口にしていない。しかし飲んだことが分かれば補導されることになりかねない。 


「違うんです。僕は24歳なんです。未成年じゃない!」中学生の顔をしてそう言ったところで誰が真に受けてくれるだろう?そうなれば少年の母親が言うように、家庭は崩壊して多くを失ってしまう・・・・・・でもこれから20歳になるまで7年近くも禁酒だなんて、果たして僕は耐えることができるのだろうか?


 家に帰って夕食と入浴を終えると部屋にこもった。さっそく借りてきたうちの1冊を開く。それは『1984年』というタイトルで、1949年刊行のイギリスの作家ジョージ・オーウェルの作品だった。早く読み進めようと意識したけれど、500頁もある本を選んで馬鹿な事をしてしまった。


 睡眠時間を切り詰めて読み終えるのに3日近くを要した。もう朝から眠くて仕方ないし、こんなことでは達成は早くも危うい。こうなれば、ページの総数をクリアすれば合格とするルールに変更してもらうしかない。つまり41冊×200頁の8,200頁で勘弁して欲しいと願う僕だった。


 朝食の時に少年の母親にお願いしてみたところ、以外にもすんなり 「わかったわよ」 と言ってくれた。おそらく睡眠不足のせいで、目が血走った顔色の悪い僕を見たからだと思う。彼女の表情は気持ち悪いものを見た時によく目にする、あの顔をしていた。


 朝食を終えて僕は感想文を書き始めた。『1984年』は、全体主義国家が統治する近未来の世界を描いていた。市民のあらゆる生活が政府によって統制されている。とりわけ、政府が市民を徹底して監視する恐怖感は読者の心に暗い影を落とす。『テレスクリーン』と呼ばれる監視カメラのようなもので、寝室に至るまでチェックを欠かさない。こうして思想警察の昼夜問わずの監視が続くと個の自覚が欠如し始める。やがて人々は熱狂的な政府の崇拝者になってしまうのだった。


 どこか似ていないだろうか?僕の脳にあるチップは外部サーバーに繋がっているから、脳とコンピュータとで双方向通信ができる。もちろん今はタイムリープによって通信は遮断されているけれど。チップ(デバイス)はどの商品を選んでも、感覚器官の五感情報を政府のサーバーに24時間送信され続ける。商品説明書には、使用する前提条件として、日本政府は国民の健康管理を目的としてデータ収集を行う。また政府がそれを保管することを使用者は承諾しなければならないとある。


 確かに便利な機能だった。チップ(デバイス)を使いはじめると、何を見たのか、何を感じたのか、必要ならばいつでも過去にさかのぼって確認できる。でもこれは健康管理の為だけなのか?むしろ国民の行動を監視するのが目的ではないだろうか?1億人の国民全員がチップを埋め込んでも、量子コンピュータを使えば必要とする日時のデータを瞬時に検索する。漏洩防止などのセキュリティと運用目的が厳格でなければ、小説のような恐ろしい世の中になるだろう。僕は2043年の世界が急に心配になってきた。

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