第13話 遊泳禁止 1973年8月9日 木曜

 朝から蝉が大合唱している。先月エントリーしたクマゼミに加えて、8月からはアブラゼミが土の中から大量に這い出して木にしがみつく。こうして夏の暑苦しさは頂点に達しようとしている。これだけ暑いと海に入りたくもなる。ましてや徒歩で行ける海水浴場が近くにあるのだから尚更だった。


 昨日は部活が終わってから、バレー部の友人2人と海水浴場に行った。砂浜に到着したのは午後4時30分。まだ日差しは強く海に入っている人の姿が数多くあった。元の世界では海洋汚染が人体に及ぼす影響が問題になっていたから、簡単には海に入ることが出来ない。だからプールで泳いだことはあっても海は経験がない。


 眼の前に広がるすばらしい海原。それは視覚を刺激する 向かってくる波しぶきは聴覚を刺激した。ほのかな磯の香りは嗅覚を刺激する。口に含んだわずかばかりの海水で、味覚が十分に刺激された。砂に埋もれた手に波が寄せるたびに、触覚を刺激してくれた。こうして五感すべてに海は働きかけてくる。


 はしゃぎ過ぎたのだろうか、家路に就く頃には足が鉛のように重くなった。家に着くなりシャワーを浴びて、夕食を終える頃には早くも睡魔に襲われていた。これでは読書どころではない。1日さぼるとそれだけ積み残しが増すのは分かっている。


『まあいいや、明日は2冊読めばいい訳だし、ここは居直りの精神でいこう』こう都合よく考えると、ベッドに入って即座に寝落ちした。


 翌朝は十分に睡眠が足りているから元気に起き出すことができた。キッチンテーブルに座って朝食を食べ始めると、「なんでそんなに真っ黒な顔してるの?」と少年の母親が不思議そうに聞いてきた。「きのう部活の帰りに少し泳いできたからね」ご飯を口に掻き込みながらそっけなく返事をした。


 朝食を終えると夏休みの宿題と読書感想文の作成に取り掛かる。一昨日の火曜日はアメリカの作家フィリップ・K・ディックの小説を読んでいた。1956年にアメリカで出版された英文短編集を、ピエリス文庫の棚で見つけたからだった。洋書を入手してまで読む行政書士の先生は、よほどSF小説が好きなのだろう。僕にしてみれば、英文であっても翻訳機が日本語訳を目の網膜ディスプレイに表示してくれる。だから日本語版となんら変わりない。その短編集の中には『少数報告』 (※注6) という、興味深い犯罪予知システムの話があった。


 未来社会では、3人の予知能力者によって犯罪予防局が設立されていた。彼ら3人の予知によって、犯罪者が犯行を実行する前に逮捕されるようになっていた。犯罪行為を未然に防ぐことが可能になったワシントンD.C.では、殺人事件が過去5年間一度も発生していない。


 ある日、犯罪予防局の長官が予知結果に目を通していると、そこに長官自身が一週間後に殺人を犯すというレポートを見つける。慌てた彼は『これは陰謀に違いない』と考える。レポートを細工したのは一体誰なのか?警察に追われる身となりながら真相に迫るという筋書きだった。


 この話もまた『1984』と同様に僕の不安を呼び覚ました。僕の脳に埋め込まれたチップが、行動を監視するツールだと仮定すると、国民全員にチップを埋め込めば、作者が描く社会が実現しないだろうか?事前に犯罪を防げないにしても、抑止効果は絶大なものになる。そうなれば殺人のような重大犯罪を起こす者は誰もいなくなるだろう。


 一見すると犯罪の無い平和な世の中が訪れると思われる。しかしディックの『少数報告』に出てくるように、何らかの不正や細工が行われるとしたらどうだろう?誰かが悪意を持ってすれば、視覚映像のフェイクや、感覚器官のデータ改ざんなど簡単なはず。そしてまだ発生していない犯罪を頭の中で想起するだけで逮捕されるのであれば、世の中は冤罪だらけになってしまう。


 ようやく感想文を書き終えてラジオのスイッチを入れてみた。近頃は読書の為にFENから随分遠ざかっている。NHK-FMに合わせると11:00から『軽音楽アルバム』という番組をやっていた。今日は“最新の海外音楽事情”というテーマで新曲を流しているようだった。


 中でもアメリカのミュージシャン、スティーヴィー・ワンダーの 『サンシャイン』 が耳に残った。フェンダー・ローズと呼ばれるエレクトリック・ピアノの音色が、何とも心地良い。


 午後は部活があるから学校に向かう。今日もグラウンドの片隅にある、バレーボールコートでの練習だった。梅野くんが所属する野球部が校庭の大半を占めているから、時々ホームラン級の球がここまで飛んできて怖い。また何よりも夏の日差しを何とかしてほしい。中学校では多くの部活動がひしめきあっていて、体育館での練習は週に1度か2度しか回ってこないから室内練習が待ち遠しい。


 部活は3年生と2年生が主役だから、僕たち1年生が試合に出ることは稀なことだった。それでも澤田くんや早志くん達は、1年後の秋に決まるレギュラーを目指して厳しいトレーニングを積んでいる。傍から見ても彼らが日々向上しているのが分かる。タイムリープでこの時代にやって来た僕は、これまでバレーボールという競技の経験はなく、活発に動き回るみんなを羨ましく眺める存在だった。


 13時30分になると、監督がコートにやってきた。監督は部員に目をやると、僕たちを指さした。「おい!そこの真っ黒に日焼けした3人は前に出ろ!」澤田くんや早志くんが僕たちを心配そうに見ている。「お前たち!海で泳いだな? 日焼けの具合で直ぐに分かるんだ。水泳は筋肉にダメージを与えるから禁止だとあれほど言っただろうが!」 監督の主張が正しいのかどうか疑問は残る―――「聞く耳を持たんな・・・よしわかった!連帯責任だ。全員うさぎ跳びでコートを2周しろ!」 


 未来では 『うさぎ跳び』は禁止されたトレーニングだった。だからやり方は分かってもやったことは無い。コートは18m×9mの長方形だから2周だと108mになる。単に膝を曲げて飛び跳ねればよいだけだからどうってことはないだろう。


 ところがこれが想像以上にきつい。2週目に入ると大腿筋がいうことをきかない。それでもなんとかゴールまでたどり着くと、暫く立ち上がれなかった。


「よし全員終わったな、では練習開始だ!お前たち3人はコートの脇に15分正座して反省していろ!」


 ほんとうの地獄はここからだった。うさぎ跳びで既に大腿筋は自由が利かない。正座をするとふくらはぎが圧迫されるから、痛さを通り越して痺れた。


 これではまるで中世の拷問のようだ。苦痛に耐えると同時に、みんなへの申し訳なさで罪悪感が膨らんでいった。僕たちが悪いだけなのに、うさぎ跳びを全員が受け入れてくれる。悪くもない人たちに迷惑をかけてしまう連帯責任って一体何だろう?


★――――――――――――――――★


※7『You Are the Sunshine of My Life』邦題 『サンシャイン』は、スティーヴィー・ワンダーの楽曲。1972年のアルバム『トーキング・ブック』 の1曲目に収録。翌年1973年2月にシングル・カットされた。


(※注6) フィリップ・K・ディックの短編小説 『マイノリティ・リポート』(旧題:少数報告)は、スティーヴン・スピルバーグ監督が原作を元に2002年に映画化した。予知能力者達が行う予知は必ずしも一致するとは限らない。少数派の意見を「マイノリティ・リポート」と呼ぶが、一致しなければシステムの信頼性が損なわれる為、犯罪予防局はこれを隠蔽している。殺人を予知された主演のトム・クルーズは、システムの不正を暴くため「マイノリティ・リポート」を手に入れようと奮闘する。

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