第11話 古典コンピュータ 1973年7月20日 金曜
いよいよ明日から夏休みに入る。終業式のあとに学級活動があって、通知表が配られると1学期は終了になる。少年の父親は依然として家出をしたままで、僕は少年の母親に「もう二度としません、ごめんなさい」と、不本意ながら何度も謝り続けて3日が経つ。頑固な彼女は終始無言のままで、朝はせっせと白ご飯を弁当に詰めている。
でも今日は終業式だから、午後は友達の家に遊びに行くことにしている。土曜日や授業が午前中までのときは、委員に予約をしなくても購買部でパンを買うことができる。だから母親には弁当を断ってパンを買うことにした。母親は不機嫌な顔をして百円硬貨を2枚渡してくれた。
ホームルームが始まると、野々村先生が通知表を配り始めた。この時代の評価方式は、生徒の成績を比較ランク付けする相対評価だと少年の父親が言っていた。絶対評価にも欠点があると言われるけれど、機械的な相対評価も生徒の努力が報われない欠点がある。また多くの生徒を抱える先生にとって、採点・集計・判定作業は重荷だと思う。 何しろソロバンや初期の卓上計算機程度の、原始的な道具で集計するのだから。生徒が残した多くの成果を一覧にして判定するのは苦痛を伴う作業だと思える。
生徒は先生から通知表を順番に受け取っていく。かくいう僕の成績は総合ランク3だった。それはそうだろう、全教科平均点という結果を与えられたのだから・・・これを自宅に持ち帰って少年の母親に見せなければならないけれど、これが再び波乱を巻き起こすことになるだろうか?
期末テストが終わった先週の日曜日。梅野くん、早志くんの近所3人組で映画を見に行った。早めに映画館に到着すると入口の前には多くの人が並んでいた。元の世界では映画館は幾つかの理由で衰退していたから、僕にとってこれは初めての体験だった。
校区外に出かける時は制服を着用しなければならない。この校則には違和感を覚えるけれど、非行防止と言われると仕方ないことかも知れない・・・・・・列の前方に同じ中学の制服を着た見覚えのある生徒を見つけた。それは友人と2人で来ている愛原京子さんだった。彼女は僕たちに気が付くと一所懸命に手を振ってくれた。笑顔がとても似合うキュートな子で、学校では理知に富んでいる生徒だった。
リバイバル上映の『2001年宇宙の旅』 は1968年に公開されたSF映画だった。僕にとっては古典的な描写が多く、宇宙船やAIコンピュータなどが登場しても、元の世界では既に博物館行きのテクノロジーばかりになる。ストーリー自体は科学の発展を促進した可能性として、地球外生命体の存在が哲学的に描かれている。人類の未来を暗示する流れは素晴らしいの一言に尽きる。
映画の始まりは400万年前の猿人が主人公。彼らの前にある日、謎の物体 『モノリス』が現れる。猿人たちがこの 『黒い石板』 に手を触れると、1体の猿人の知能を刺激して教育をおこなう。こうして彼は動物の骨を道具・武器として使うことを学ぶ。これで獣を簡単に倒せるようになり、多くの肉を手に収めるようになる。
そのうち彼らは水場で対立する別の猿人達と戦う。そこで骨という武器を使って勝利した猿人は、雄叫びを上げながらその骨を空に放り投げる。次の瞬間、その骨が最新の宇宙船へと映像が切り替わる。 人類が成し遂げた進歩の歴史を、一言で表現した象徴的なシーンだった。
人類の歴史は道具の歴史でもある。人類は石器時代の昔から、生きるために必要な道具を発明してきた。茶碗や箸などの簡単な生活用品から、大工道具、ラジオやテレビ、そして自動車や列車、航空機などの複雑な道具まで、発明しては世界中で使われている。
やがて人間の頭脳労働を助けてくれるコンピュータという道具が出現する。それは真空管を使ったコンピュータが生まれた1946年の第一世代から始まった。その後、トランジスタから集積回路を経て、僕が今いる1973年は、インテルのマイクロプロセッサが主流の第四世代になる。1981年にはIBMがパソコンを世に出すと同時に、マイクロソフトがMS-DOSを出すことになる。
コンピュータはその後も進化を続けていく。スーパーコンピュータの分野では、2000年代に入ると日本の理化学研究所の『京』や『富岳』が世界最高速の計算を行って世界から注目を集める。そしてこの時代は同時に『量子コンピュータ』(※注4)の研究開発が各国で進められ、ここで未来を切り開く大きな出来事が起きる。それは僕の生まれた2019年のことで、スーパーコンピュータでも1万年はかかるといわれる計算を、アメリカのグーグル社が量子コンピュータを使って3分20秒で解くことに成功する。
その後も開発は急速に進んで、2043年には量子コンピュータが世の中を支えるようになり、無くてはならない社会基盤になった。従来のコンピュータにも利点があるので消滅はしていない。これを『古典コンピュータ』(※注5)と呼んで使い分けられている。ここまでは高校2年の時に学んだコンピュータ概論でよく出題される開発史で、今でもはっきりと記憶している。
「摩耶!何を気の緩んだ顔をしている。私の話を聞いているのか?今は大切な夏休みの注意事項を話してるんだぞ!ボーっとしていないでしっかり聞くように・・・」
『あーっ!また考え事をして油断していた。野々村先生の時に限っていつもこうだ』 思わず隣の相川さんを見ると、彼女はなぜかニコッと笑った。
午後は近所3人組で桜坂香くんの家に向かった。桜坂くんはお兄さんの影響で梅野くんのように洋楽に詳しい。今日は彼のコレクションをみんなで鑑賞することになっている。少年の家にはない音響機器で聴けるから楽しみで仕方がない。LPレコードなら予め33回転を選択しておく。そしてレコード盤をプレーヤーにセットしたらスイッチをオンにする。するとターンテーブルが回転を始めて、トーンアームが1曲目手前の溝へ、自動的に降りる仕組みになっている。
桜坂くんはこう説明する。「バイヤーが新人のシングルをロンドンから東京に持ち込んでね、兄貴がそれを手に入れた。これがそうなんだけど、簡単には手に入らないアイテムだよ」 それはクイーンというバンドのレコードで、曲名は『Keep Yourself Alive』 ※6とある。曲が流れ出すと迫力ある音がスピーカーから飛び出した。イントロのギターがなんてカッコいいのだろう!ボーカルは個性的な発音で歌うけど都会的なセンスを感じる。バンドの迫力にガツンと頭を叩かれたような感じだった。臨場感に溢れた演奏はあっという間に終了したけれど、僕は彼らが成功を収める未来の姿を確信した。
聴き終えたときは多少興奮気味になっていた。「自分を生かし続けろっ!生き抜けってことなんだね。何百万回も人に言われた自身の問題を解決するには、少しずつ賢くなって良くなればそれでいいと言っている!」
早志くんが不思議そうに僕の顔をのぞき込んだ。「摩耶ぁ、おまえ輸入盤で歌詞カードもないのに訳せたのか?いつの間にそんなヒアリングの力を身につけた?その訳が正確だとしたら、2学期の英語テスト100点いけるぞ?!」
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※6 『Keep Yourself Alive』 邦題 『炎のロックンロール』 は、イギリスのロックバンド、クイーンの楽曲。作詞・作曲はブライアン・メイ。ファーストアルバム 『QUEEN』 邦題 『戦慄の王女』の1曲目に収録。シングルはアルバムに先行して1週間前の1973年7月6日にリリースされた。日本での発売は1974年3月。
(※注3) 『2001年宇宙の旅』 スタンリー・キューブリックが製作・監督した1968年のSF映画。脚本はスタンリー・キューブリックとアーサー・C・クラークの共同執筆。
(※注4) 『量子コンピュータ』 量子力学の原理を計算に応用したコンピュータ。古典的なコンピュータでは難解で複雑な問題を、素粒子レベルで見られる“重ね合わせ”や“量子もつれ”を利用して、量子力学の法則を使って解くコンピュータのこと。
(※注5) 『古典コンピュータ』 ガリレオやニュートンら偉大な物理学者達が16~18世紀に切り拓いた古典力学を基に設計された従来型のコンピュータのこと。
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