第10話 家出人 1973年7月17日 火曜

 少年の母親が玄関の中で怒りに震えていた。僕が不正行為を疑われているからだった。午後遅くに学校から電話があって、母親は急いで野々村先生を訪ねたそうだ。そしてテストの顛末について説明を受けた。彼女は恥をかかされたという思いが先に立ち、証拠が出ていないという肝心な部分をどこかへ吹き飛ばした。罪を犯してしまった息子が許せない。その怒りは収まるはずもなく、僕を締め出そうと思わず玄関の扉を施錠した。 


「何という事をしてくれたの?よりによってカンニングなんて。悪い人間がすることじゃない?!近所に噂が広まったら此処にはもう住めなくなる。弟達が可哀そうだと思わなかったの?こんなことしていたら高校なんて進学できないわよ。一家離散だわ!」口を開くほどに興奮の度は高まり、このままだと最後には何を言い出すか分からない。


「カンニングをしていないから証拠が出なかったんだ。真面目に勉強をしてテストを受けたから点数が良かっただけなんだ」僕は何度も繰り返したけれど、母親はまったく聞く耳を持たなかった。


「今日の夕食は作らないから部屋で反省しなさい!それから1学期の成績が良ければギターを買ってあげるという話は無かったことにするわよ。よほど挽回しなければギターなんて無理ね!」そう言ってキッチンに向かって行ってしまった。居間でテレビを見ていた弟たち2人は、突然発生した嵐から避難するようにそれぞれ部屋に散って行った。


 僕は部屋に入るとラジオの電源を入れた。『まあ、ギターなんて欲しくもないけど、でもこんなことになるなんてまったく困ったもんだな・・・』―――ラジオはリラックスできる曲を流してくれている。この部屋だけが僕に安らぎを与えてくれる唯一の場所だとつくづく思う。


 暫くして、部屋のドアの向こうから怒鳴り合う男女の声が聞こえてきた。ラジオのボリュームを落として耳を澄ませると、少年の父親と母親が口論している。「あなたがそんなだから子供が不良になるのよ!」仕事を終えて帰って来た父親に母親が噛みつく「何だと?度が過ぎたことを言うな。もう少し冷静になったらどうだ!」普段はもの静かな父親もしっかり応戦しているようだった。


 夫婦喧嘩は子供といえども他人が干渉してはならないという。僕は子供ではなく他人だけれど・・・・・・事の発端がこの他人にあるのだから厄介な話ではある。


 翌朝、FENのウルフマン・ジャックショーを聴き終えると、部屋を出てキッチンテーブルに向かった。昨夜は夕食が無かったからお腹が空いている。弟達もそれぞれやってきて食べ始めた。ところが父親の姿が無く居間にも気配がない。少年の母親に父親はどうしたのか聞いてみた。「夜に出て行ったわ!いつ帰って来るのか分からないわね。そんなことあなたが気にしなくていい!」 


 母親の手慣れたとも思えるこの様子だと、どうも父親の家出は今回が初めてではないようだった。弟達はというと、素知らぬ表情をしている。『今日もいつもの日常が始まるなぁ』なんて態度だ。それにしても家出人の多くは子供で、親が出て行くとなれば深刻な事態ではないだろうか?なのに、この家族の反応といったらどうだろう?にわかには信じがたい光景だった。父親が家を出て行ってもこの家庭には困ることが無いのだろうか?


 同級生2人と一緒に通学する時は様々な会話をするから、楽しくてあっという間に学校に到着する。梅野くんは物知りで新しい情報を提供してくれる。今日は洋楽で人気の曲を話題にした。彼は「カーリー・サイモンもいいけど、やっぱりニール・ヤングの『ハート・オブ・ゴールド』は何度聴いてもいいよな」と言う。僕もFENで聴いたことがあるから共感できるし、そんな会話に心地よい気分になる。


 午前中の授業が終わって昼食の時間になった。いつものように机の上に置いた弁当箱を開く。弁当の中が見えたと同時にフタを閉じた。そこには白ご飯しか入っていなかった。何が起きたのかと面食らう。弁当箱をじっと見つめながら昨日の出来事を振り返った。これは母親の制裁に違いないと思った。


 母親は耐え難いほどの恥をかかされたと思っているから、僕に罰を与えなければ気持ちが収まらないのだろう。でもこの白ご飯弁当は今日だけの話なのか、それとも明日も続くのだろうか? 


 太平洋戦争中に日本の国旗を模した 『日の丸弁当』 が登場したと聞いたことがある。白ご飯の上に梅干しが1個乗っているだけの弁当。労働者に理想的だと言われる 『日の丸弁当』は、酸とアルカリが絶妙なバランスを保っていて、食べるとすぐにエネルギーに変わるという。


 でもこの弁当には梅干しが入っていない。国旗の種類を思い浮かべてみても、こんな真っ白な国旗など世界中どこを探してもないと思う。


 国旗ではなかった。白旗だ!これは白旗を上げろというメッセージなんだ!早く降伏しろと・・・そういえば僕は少年の母親に幾らでも弁解をしたけれど、一度も謝っていない。


 弁当のフタを半開きにして、隠れるようにしてご飯をつまみながら、元の世界の事を思い出していた―――


 僕は地方の中学・高校で学び、卒業までは両親と3歳下の弟と4人家族で暮らした。その後は東京の大学に進学する。卒業後は都内の企業に就職して長い独り暮らしが続いていた。それでも時々は実家に帰省して、家族に会うことが出来ていたからさほど寂しくはなかった。


 小さいころからよく悪戯もしたし、弟を泣かせては母親に叱られた。父親は面倒見のよい人で一緒に遊んでくれることが多かった。子供の気持ちを尊重して自由に学ばせてくれた。いつも笑顔が絶えない家庭だったから、辛かったという思い出はひとつも浮かんでこない。


 もちろん家庭はそれぞれだから、その良し悪しを軽はずみに論じるべきではないと思っている。でも家庭によってこんなに違いがあることを知ることができたのは、タイムリープのお陰だと言えなくもない。


 僕の母親が勉強や試験のことで説教をしたり、事細かに愚痴をこぼす姿を見たことが無い。それでも摩耶家にだって良いところが必ずあると思う。それをこの僕が引き出してあげることが出来れば良いのだけれど、残念ながら今は自ら足を引っ張っているんだ。


 3歳下の弟は京都の大学に在籍している。彼も物理学を専攻していて量子理論にはかなり詳しい。もし弟に連絡することが出来たなら・・・元の世界に帰還する扉を開けてくれるかも知れない・・・


『鹿間敢太くん、未来への扉をこじ開ける呪文を早く教えてくれよ~!!』―――


―――『かんちゃん・・・オープンセサミと何度も唱えるけど、扉は動かないよ』

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