第11話 明日に
彼は、なにかを与えたなんて思わないでしょう。
けれど僕は確かに与えられたのだと思います。与えられたからこそ、受け取れなかったのです。
母親を殺そうと包丁を振り上げたとき僕の脳裏に浮かんだのは、この人とのなけなしの思い出でも、これまで舐めた辛苦でもなく、彼の清廉で優美な微笑みでした。差し出された、得体の知れない優しさでした。発せられた言葉と行為でした。生まれて初めて触れた、温かい他人の温度でした。
渾身の力で振り下ろした右手には、確かに手応えがありました。
刃は母親の左目の真横、その壁面に突き刺さりました。
それを認めたとき、僕の目から、ぽろりと落ちるものがありました。流れる涙を拭く気力も湧かず脱力し、包丁を取り落とします。
希求するものがありました。彼に気付かされた希求でした。
明日を生きるなら、僕は。
これしか道はないと思ったのに、僕はまた、彼に覆されるのです。
「金、どこに仕舞っていますか」
まともな答えが返るという期待は持たず、母親に尋ねました。
「結局脅し?」
嘲るようにそう返されました。結果的に包丁が刺さらなかったことに、この人はまた自信を得たらしいのです。無視をして、戸棚の引き出しを順に開けていきます。一番下から紙幣が何枚か出て行きました。それをポケットにねじ込んで、つぎはあの人の持ち歩いている鞄に手を掛けます。
視界の端で動くものがありました。それがあの人だと言うことは見ずとも分かりました。瞬きをするとまたぽたりと落ちて、滲む視界が晴れました。僕の取り落とした包丁を、今度は母親が握っていました。包丁を握るほうの脇を締めて、豚のように突進して来ます。脂肪の蓄積された体躯は遅く、少し身体をずらすだけで刃は僕の腕を掠めて通り過ぎます。その先の畳で無様に転びました。
うつ伏せに倒れた母親に跨ってこちらを向かせ、顔面を一発、渾身の力で殴りつけました。無様な表情がさらに無様に歪みました。十九年分の恨みがありました。まるで発散できる気がしませんでした。それでも一発一発、渾身の力を込めて丁寧に、殴りつけます。
心に大した感情は浮かばず。いつか零れた問が、また浮かびました。
ねえ君、まっとうに生きられますか。
母親を殴りつけながら、冷めた頭脳が答えを出します。
まっとうなんて無理なのです。まっとうに生まれなかったから、まっとうに育たなかったから、まっとうなんて無理なのです。僕は自分を生んだ人間に感情なく暴力を働きます。そんな精神で、まっとうになんて、生きられるわけがないのです。
けれど同時に、希求します。
明日を生きるなら僕は、人間でありたいのです。
人との間で生きたいのです。人間と同じ景色を見て、人間と自然に笑い合って、生きられる精神が欲しいのです。それがどれほど無理だと思えることでも、本当は、本当は化け物になんてなりたくはなかったのです。
僕は人間になりたい。
人間でありたいのです。
母親を殺してしまえばきっと楽にはなるのでしょう。けれどそれをしては、僕はまた化け物としての道を進む気がするのです。今だって戻れるはずがないと諦めながら、それでももっと戻れないところまで行ってしまいそうなのです。
彼のようにはなれなくとも。あの美しい金銭を渡せなくとも。
化け物ではなく人間でありたいのです。
せめて、そうあろうとしたいのです。
そんな決断をこの母親は笑っても、彼は決して笑わないでしょう。そう信じられるほど、僕は世界に優しさを見たのです。ほんの小さなものですけれど、それだけで生きていけるなんて到底言えないけれど。
君はどうでしょうか。
ねえ、君はどうしますか。もしもまだこの世界に生きているのなら、君に訊きたいことがあるのです。
息切れを自覚したのは、殴打をやめたときでした。足の間に倒れている母親は血を流しながら、こちらを見ています。初めて見る目でした。心の底から、僕に恐怖しているようでした。
自分で肥やした憎悪を目の前にして恐怖するなんて、滑稽ですね。
母親のカバンを開けて、財布に入っているだけの金銭を手中に収めます。もう抵抗はありませんでした。視線をやると、まるで幼い頃の僕のように、部屋の隅に逃げて身を縮めています。やっと僕に恐怖を覚えたようでした。ずっと従順だった犬の謀反は、それほど衝撃的だったのでしょうか。恐怖しそして、恨んでいるようでした。こちらを睨む目に覚えがありました。まるで鏡のようです。
家を出るとき、僕は振り返りませんでした。
愛されたかったですか、と自分の声が聞こえました。
愛したかったし愛されたかった、と君の声が聞こえました。
そう。本当は、愛したかったし愛されたかったのです。なにも失くさず笑い合えたら、削られることなく気遣い合えたら、どんなに良かったでしょう。そんな関係を結び合える僕とあの人だったら、どれほど救われたか。あの人を自分を、掛け値なく愛せて、なにも損なわずに近くにいられたら、どんなに幸せなことだったでしょう。
殺したいほど憎くて、けれど期待を込めて求めてしまう。望むものは与えられないことを繰り返し繰り返し思い知りながら、それでも、まだ諦められない。けれど。
導かれた結論はやはり、あの日と変わりません。
「無理でしたね」
親と子だから、ではなく。
僕とこの人だから、できないことだったのです。
味わうような感情は湧き上がっていないのに、涙が止まらず仕方がありませんでした。
なにも持っていなかったはずなのに、僕とこの人の間にはなにもなかったはずなのに、なにかを失った気になるのはどうしてでしょうか。
同時に大きなものを得た気がしました。取り戻せないなにかがあって、取り返しのつかないことがたくさんあって。それでも、選んだのです。
僕はまた、この道で生きることを選んでしまったのです。
その足で、彼のいるコンビニに向かいました。
中の様子を伺ってから扉を開けると、事務所には誰もいません。音を立てないようにゆっくりと入ります。カウンターには、彼と店長がいるようでした。
「いつかやると思ったけどさあ」
店長の声が聞こえます。
「まさか倒れるなんてな。顔色はいっつも悪かったけど。面接の時から」
「高校生のときからいるんでしたっけ」
「そう。そのころからすごいシフト入ってくれてて、有難かったんだよな」
「店長、人間には限界ってありますからね」
「んー、分かってるけどさ。あいつ金が必要だって言うんだもん、なんでかは知らないけど。ここで働けないなら他所でやるって。それならここでゆるゆるやってもらったほうが良いんじゃないかと。最近は他所にも行ってたけどね。考えてはいたんだよ、どうすれば良いのかって」
「明日電話くれると思うんで話しますよ。なにができるか分からないけど」
「電話が来なきゃまた店で待ち伏せか? 世話好きだよな。気持ち悪いくらい」
「うわ店長ひでえ。友達にはできる限り協力したいってだけです」
カバンから、彼にもらった金銭を出します。ポケットに突っ込んでぐしゃぐしゃになった汚い金銭とは比べようもなく、美しく神々しい金銭です。得体の知れない優しさです。
彼のロッカーの隙間に差し込んで、中に落とします。
音を立てないように事務所を出ます。そして電話をかけました。以前教えてもらった、彼の携帯へ。コール音をやり過ごすと留守録に切り替わります。ゆっくりと、名前を名乗って。
「お金、ありがとうございました。親から返却されたのでお返しします。ご迷惑をおかけしました」
それだけ告げて切ろうと思っていました。要件だけを言って、お礼と謝罪をして、それで良いと。それ以上を言うのは僕には傲慢だと。
けれど、僕の口は壊れているので。言いたいことを言わず、言いたくないことを言うのです。
「本当に、ありがとうございました。貴方にはなんてことのない、誰にでも配る優しさだったかも知れませんが、僕には、なによりの優しさでした」
目をつむります。あまり長居をすれば見つかってしまうかも知れません。それはとても面倒なことです。そうでなくとも時間はないのです。焦りのなか僕の壊れた口が吐き出したのは、本当に気持ち悪い、ぬるい温度の、本音でした。
「貴方が好きでした」
彼のことが好きでした。
幸せそうに家族のことを話す横顔が好きでした。大事なものをたくさん抱えて、嬉しそうに笑う心根が好きでした。誰にも等しく優しい、その柔らかさが好きでした。誰にも恨みを向けない、その穏やかさが好きでした。憎しみの業火を知らない、その潔白が好きでした。
本当はずっと羨ましくて、だから怖くて、見たくなかったのです。彼の隣にいるには自分があまりに惨めだと分かりきっているから、関わりたくなかったのです。眩しくて妬ましくて、その身の美しさを作る彼の環境と心根を視界に入れたくなかったのです。
けれどずっと、彼のようになりたかったのです。
彼のような人間に、なりたいのです。
長すぎる沈黙の後、通話を切りました。悪戯電話のようなこの留守録を、彼は気持ち悪いと消してしまうでしょうか。そんなことはないと思います。同時に、消されてしまっても良いと思いました。
裏口から離れてアパートに向かいます。店の前に来て、僕は遠目に彼を見ました。
もう二度と、会うことはないでしょう。
誰の記憶にも残りたくはありません。
それでも彼にだけは、僕がいたことを覚えていて欲しいと願うのです。
君はまだ死に損なっていました。しぶといものです。
部屋にあるなかで一番大きな紙袋を出して、そこに必要なものを入れていきます。もともと大したものはありません。購入した教科書も置いて行かねばなりません。多くを持っては行けないのです。
ここから、逃げるのですから。
二十歳までの辛抱も、大卒の資格を得ることも、できません。けれど不思議と悲しくはないのです。悔しいとも思わないのです。たくさんのものを失ったようでした。これ以上ないものを手に入れたようでした。どちらが重いのか、僕にもまだ分からないのです。
ただ涙が出ました。訳も分からず泣きました。ずっと止まらないのです。
君の壊れた警戒心も、その涙には反応したようです。布団の中からか細い声が届きます。
「どうして泣いてるの」
「僕はここを出て行きますが」
無視をして伺いを立てました。君に応える義務はありません。どちらでもいいのです。死ぬことは許さないなどど、もう言いません。
袖を引くことは、もうしません。
「ねえ、君はどうしますか」
「……どこにいくの」
「さあ、知りませんよ。ただ」
生まれも親も環境も。
すべての言い訳を武器にして。
「ここから逃げ出します」
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