第9話 犬と猫の巣穴
君が煙草を吸っているのを見たのは、部屋に置いて数週間後のことでした。真似をするようにベランダで吸っていたので、何も言うことはありませんでした。
僕とは違う銘柄でした。自分で購入したようです。
仕事は、きちんと見つけて来たようでした。何をしているのか皆目見当もつきませんが、そして興味もありませんが、持ち物が増えているのです。勝手に窓にカーテンをつけて、台所にいくつかの道具を揃えたのは君でした。購入する物と頻度から鑑みて、かなり即効性の高い金銭のようでした。日払いの仕事だと伺えました。
君は煙草を吸う以外のこの部屋にいる時間を、ほとんど布団のうえで過ごしていました。黙り込んで部屋の隅に蹲り、ぴくりとも動かないのです。同じ部屋に住んでいながら会話もありません。君の名前すら知らないのです。十分です。生きることは成り立ちました。
奇妙な時間でした。
僕も君も、「人並みの生活」というものを今ひとつ理解できていないので、傍から見れば酷く不合理でいびつな生活でしょう。それでも、君はここに居着きました。他に行くところがないというのが理由でしょうが、家賃も光熱費も水道代もきちんと払って、僕の目の前で生きているので僕には不満がほとんどありません。
ベランダの欄干に凭れ喫煙する君の隣、二メートルほど離れたところに立ち、僕もキャスターに火を点けました。
君は僕を嫌っているようでした。というより、君も僕と同じ感情なのでしょう。
「高校行くの」
「ええ、午後からですけど」
「可哀想。学校なんて、好き好んで行くところじゃないでしょう」
「君は辞めたんですか」
「行ったら家に返されちゃうもの」
「可哀想なのは君の方でしょう、満足な学歴も取得できない」
「学歴がなくてもお金は稼げるから」
部屋に来てすぐ、君はぼろぼろになった制服を、溜飲を下げるようにさらにズタズタにして燃えるゴミに出しました。売りに出せは金になるのにと内心思いましたが、それは君の事情なので口には出しませんでした。
君は距離のとり方を弁えているように思えました。もちろん人間のそれではなく、化け物なりの不自然な距離感です。それも僕たちの共通言語の上の距離感でした。
君はあの夜以来、僕に触れません。相変わらず目の前で服を脱ぎはしますが、直接触ることはしないのです。近くに寄ることさえしません。それは僕にとって、適切な距離と言えました。
他人の体温で、溶けてしまう生き物なので。
近づけば、暴力で排斥してしまう化け物なので。
君はどうなのか知りませんが、僕は自分の暴力性を、自身への毒の摂取で押さえ込んでいるところがあります。煙草を吸っていなければ、自分を少しずつでも損なっていなければ、爆発してしまう気がするのです。その衝動は僕に向けられるのか、君に向けるのか、それともあの人に向くのか、自分でも分かりません。
君は僕にとって煙草と同じ効果をもたらしました。自分より惨めなものが目の前にいれば、溜飲の下がる思いがするのです。暴力性が発散されるのです。
僕が嫌いです。
君が嫌いです。
あの人のことが憎いです。
見えるものはすべて敵影に見えるのです。好きだと言えるものは何ひとつありません。
僕を好く人間などたった一人としてありません。
この暗い、漠然と世界全てに向けられた恨みは、きっと生涯なくなることはないでしょう。いつまでもこの精神を黒く重くし、視界を狭めていくのです。死んでしまったほうが楽で、早いのかもしれません。
それでも僕は君を拾いました。
大人しく、君は僕に拾われました。
救われたかった、わけではありません。そんなことは不可能だと、僕も君も分かっているでしょう。ただ、僕たちは。僕は。
平穏な時間を過ごしたかっただけなのでした。
最も欲していたあの頃に、叶うことはもうありませんけれど。
「海が見える」
「はい?」
「そこの山のあいだ。気がついてないの?」
友人でも恋人でもましてや家族でもない、化け物二匹のいびつな暮らしです。
打算と利害だけがあって、労わりなんてありません。人間の暮らしとは程遠いのです。
それでもひとつ屋根の下、猛毒と殺意を燻らせながら交わす言葉だけが。
まるで人間のようでした。
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