第8話 君が必要
眠れない日々が続きました。
まだ高校にも通わなければならないし、何よりアルバイトをして金銭を稼がなければなりません。倒れることはできないのです。僕は食べ物の代わりに通販で睡眠薬を買いました。それでも意識を上手く扱えず、仄暗い早朝に目を覚ましました。カーテンのない窓に目を向けると雪が降っていました。そろそろ気温も上がる暦に、珍しいことです。
無性に嬉しくなって、布団代わりにしていた新聞紙の山から這い出て、学生服の黒いスラックスと長袖のワイシャツだけを着て、外に出ました。
気温は薄着を通過して肌に突き刺さり、不自然なほど道路に積もった雪は、長く履いている革靴の隙間から染みて足を凍らせました。それが、思った通り心地よかったのです。損なわれるべきが損なわれるのは、懲悪は、心地が良いものです。
感覚を拾い味わいながら、当てもなく、見慣れない道を歩きました。もし路上に人の目があったなら相当に奇異な視線を向けられたことでしょう。幸いこの明け方には、散歩に出る老人さえいませんでした。
見つけたのは、たった一人。
いえ、一匹でしょうか。
雪の降り積もる踏切の中。遮断機と遮断機の間に、君がいました。
遠目に認めたときは、凍結した道路に足を取られて、転倒して蹲っているのだと思いました。けれど近づくにつれても立ち上がる気配がなく、また視線すら動かないので、次には人形が投棄されているのだと考えました。面倒な悪戯を実行するものもいるものだ、と。そしてさらに近づき、上がっている遮断機のすぐ前まで来て、やっと動かないだけの人間だと分かりました。
セーラーの学生服を着て、持ち物もなく線路の上に座ったまま動きません。立ち止まって見てみると、深閑な冬の早朝には似つかわしくないほど、暴力的な外見をしていました。
ワイシャツのボタンは所々飛び、リボンは緩み、頭髪は乱れ、スカートや袖から垣間見える肌には、鬱血や紫の痣や締め上げられたような赤い跡がありました。下らない経験をすると、無駄な知見を得るものです。色や広がり具合から見て、傷は古いものから新しいものまで、様々な時系列で刻まれているようでした。
閑散とした道の上で、しばらく無言で見つめていました。君は僕の存在は認めていながら、無視しているように思えました。見ないように。見られてなどいないかのように。視線を上げることさえしないのです。空気や石になろうとしているのが分かりました。それが、常態なのだとも直感しました。
何かを掬い取った気がしました。
どちらも動かないまま、時間が止まったかのようにそこにいました。停止などしていないと知らせたのは警報器の絶叫でした。君はピクリとも動きません。僕は自分の直感の正当性を確信しました。
このまま通り過ぎても良かったでしょう。
看過したほうが、君にとってはしあわせだったかも知れません。けれど僕は感じたのでした。
――なんて、可哀想。
「どこへ、行くんですか」
同時に、許さない、とも思いました。
君は何も答えません。ただ、視線をやっと、ゆっくりと動かし、こちらを見つけました。
警報器は電車の往来を告げています。君の悲願が近づいています。
目の前の遮断機が、ゆっくりと、けれど着実に降りて来ます。通れなくなる前に、僕はそれを超えました。二人一緒に線路の中に踏み入って、しかし君はやはり、感情を出さないのです。
許さない、と思いました。
どこかへ行くなんて許さない。ここを離れるなんて許さない。
僕はここにしがみつくしかないというのに。
お前だけ逃れるなんて許さない。
君の、ぼろぼろになった制服の袖を掴みました。存外、本当に予想外に、抵抗なく立ち上がりました。剥き出しの膝には土の混じった灰色の雪がこびりついていました。けれど重力に落とされるのに任せて、君は叩きもしないのでした。
遮断機は既に降り切っていました。警報はまだけたたましく鳴っています。僅かな揺れと共に、確かな重量を持った塊が来ることを知らせていました。
君の袖を摘まんで、遮断機の外へ引き出します。直後電車が通り行き、暴風と共に去って行きました。それを君は頭だけで振り返り見送っていました。僕は構わず、手を離すことはせずに元来た道を辿りました。
最初のうちは感情を失くした人形のように力の働くままに付いて来ていた君も、アパートに着くころには自分を取り戻したようで、部屋の前で僕の手を振り払いました。ようやく生き返った君の表出は、けれどそれきりでした。衝撃に顧みて君の顔を窺っても、目を合わせず何も言わないのです。僕は逡巡して、一人で部屋に入りました。袖は引きませんでしたが、扉が閉まる前に君は入ってきました。
まるで野良猫のような巧妙さでした。
家の中を把握するように、匂いを嗅いで回るように、段ボールの一つもない、ゴミ捨て場から頂戴した新聞紙の山と睡眠薬の瓶くらいしかない、部屋を見回しました。もの珍しそうでした。床に座った僕を見て、随分と距離を開けて、縮こまって床に座りました。
僕に喋ることはなかったので沈黙していたのですが、君は状況が理解できないようでした。空気に馴染むには十分な時間が経って、今にも震えそうな声で君が言いました。声を聞いたのはこれが初めてでした。
「何もしないの」
「これからアルバイトに行きます」
「そうじゃなくて」
君の意図するところがまったく分からず、離れたところに腰を下ろす君を見ました。険しい表情でした。一瞬だけそれを確認して、すぐに目を逸らしました。
「君は学校に行かないんですか」
質問をすると、君は黙り込んでしまいました。ますます意味が分からず、もうどうでもいいかと諦めて、立ち上がりました。動きに驚いたのでしょうか、君がびくりと身じろぎました。怯えて飛び上がる猫のように思いました。その反応に、僕はまた、自分の無駄な知見の正当性を思い知ったのです。
盗られるような価値あるものはありませんが、とりあえず通帳と財布だけは鞄に入れて、アルバイトに向かいました。君に何も告げず、鍵も締めませんでした。持て成すつもりがない代わりに、監禁する意図もないのです。家に入れた野良猫がいつの間にか出て行ってしまっても、一向に構わないという考えでした。
アルバイトを終えて日の落ちたころにアパートに戻ると、出たときと同じ位置に君はいました。行くところがないのでしょう。電気もつけず暗い部屋に蹲っていました。線路の上から、この部屋の床へ場所を移動しただけに見えました。
帰りに押し付けられた廃棄の弁当を床に投げて、ベランダに出ました。人間の食事はやはり受け付けられないのです。食べられる気がしませんでした。代替として煙草を咥えました。毒の煙を吸うと、呼吸を許される気がしました。救われるような錯覚さえするのです。
そのまま、アパートの下にある道路を眺めていました。今朝の雪はとっくに溶けて乾いて、薄い色のアスファルトがじっと睨みをきかせていました。夜は、いつだって暴力的です。今も思い出されるのは、過ぎ去ったはずの痛みと寂しさでした。
背後で音がしました。ビニールを触る音でした。
刺激しないようゆっくりと部屋の中を振り返ったのですが、君の警戒心の方が上だったようです。手は先ほど放った弁当の袋に、けれど目線はしっかりこちらを捉えていた君は、僕の視線を受け取って動きを止めました。本当に、周囲を警戒する野良猫のようでした。全てが敵影に見えるようでした。
僕は視線を外さないままベランダの欄干に背をつけて、また煙草を吸いました。電灯のついていない室内は、低い月の明かりだけに照らされています。暗いところで食物を漁るのが無様なほど似合いでした。
五回ほど呼吸をしたあと、君はまた動き出しました。今度はゆっくり。僕の挙動に最上の注意を払いながら。部屋に入ったなら、君は手を引っ込めて隅に逃げ震えるのでしょう。別にそうだって良かったのですが、面白くて。僕が捨てたものを必死で拾おうとする君が、憐れで。
これは生きづらいだろうと思いました。
僕より可哀想な化け物が目の前にいました。それは初めての体験でした。
ねえ、こんなに、安心するものなのですね。
言葉をかけたのが、あの人へだったのか、それともこれまで僕を睨んだすべての人間へ向けてだったのか、自分でも分かりませんでした。
ゆっくりと挙動する手がビニール袋から弁当を取り出し、覚束ない動作で蓋を開けました。元より食べるつもりがなかったので、箸の類は入れていません。けれど不要なようでした。そんなものを使う文化が、君個人に根付いていないのでしょう。君の戒律ではむしろ、それは罪なのです。人間にのみ許された行為なのです。人間の食べ物は食べられても、人間の所作が難しいようでした。
床にぺたりと座ったまま、両手でトレイを持ち上げて、口から迎えてかっ込みました。時折右手を使う程度で、やはりほとんど獣のようでした。
僕は毒の呼吸をしながらそれを鑑賞しました。
食べ終わると、注意深くこちらを観察しながら、カラになった容器をキッチンに持って行きました。洗っているようです。そういう躾をなされているらしいのです。戻ってくるとまた部屋の隅に蹲りました。どこにも視線を向けず、空気や石であることに徹しています。可能であるなら、心臓が鼓動する音さえ消すのでしょう。
僕はやっと部屋に戻りました。窓を閉めて鍵をかけると、君は不安そうに身じろぎをしました。カーテンのない窓から差し込む月光だけが頼りです。
拾ってきて積んでいた新聞紙の束を一つ持ち上げて、君に投げました。しまった、と思ったのは君が声も出さず、怯え切った表情で壁に縋ってからでした。新聞は受け取られず、乾いた音をやけに響かせて床に落ちました。
「布団です」
それだけを言うと、理解したようでした。文化の中にあったのかも知れません。いくつかの共通言語が存在しているようでした。
僕は睡眠薬を飲み込んで自分の新聞紙の中に身を入れました。沈まない意識の中で、君が動く気配がありました。トイレにでも行くのでしょうか。そう思った直後、気配は僕の上に乗りました。重みに驚いて目を開けると、君が最も近くにありました。腹の上に跨って前傾姿勢を取っています。スカートの向こうにあった肌が布越しに体温を伝えてきます。
「何ですか」
「これが望みなんじゃないの」
君は勝手に自分の役割を決めてしまっているようでした。いえ、僕の役割を犬とするのなら、それが深くまで染み付いているのでしょう。拭っても拭っても取れないのです。決められた役割から、降りられないのです。世界を支配する戒律に縛られているのです。
手を伸ばして肩を掴んで、君を横倒しにしました。抵抗なく転がって、僕の隣に横たわります。離れてください、と言ったら、怪訝そうに眉を顰めました。
「何なの」
「嫌いなんですよ、女性の身体。グロテスクで」
あの人のそれを思い出すので。
君はしばらく黙ったあとで小さく、私もそう思う、と言いました。起き上がって、渡した新聞紙を床に敷き始めます。その背中に告げました。
「僕の望みは、家賃です」
振り返る表情に訝しさは含まれていても、怯えはもうそれほどないようでした。
「君が何歳か知りませんし、これからどうするかを強制するつもりもありませんが。ここを使いたいなら家賃を払ってください。光熱費や水道代も折半です。食費は自分の分は自分で賄ってください。家に帰るというなら、もちろんどうぞ」
横目で観察していると、新聞紙を敷き終えた君は風呂場の扉を開けて中を確認しました。使えそうだと判断したのか、そのまま目の前で衣服を脱ぎ始めます。
「服を脱ぐなら、風呂場のなかでお願いできますか」
言うと、無言で従いました。やがて水音が聞こえ始めます。
やっと手に入れた家の中に、自分ではない生き物の気配があるのは、けして心地いいことではありません。それでも、生きていくには必要でした。より現実的な理由としては、金銭の負担を軽減するために。
感情的な理由としては。
自分より可哀想な化け物を目の前に置くために。
大した事情は知りません。詮索するつもりもありません。肝要なのは、僕より可哀想な君が目の前で生きているということ。
自分より不幸な人間がここにいる。それは僕に希望のように映りました。自分より惨めで可哀想な化け物を目の前にしていれば、勇気が出るような思いがしたのです。こいつよりはましだから、まだ頑張れる。そう思えるのです。
疲弊してしまって、終わらせてしまいたくなって、それでもまだ、僅かな意地が熱を持つのです。
死ぬべきは誰でしょうか。
今終わるなら、どうしてここまで来てしまったのでしょう。
ここでようやく終わらせるくらいなら、こんなところまで来ることはなかったのです。幼いころに消えていればこんな苦しみを味わうことはなかったのです。
散々走って、もう息もできないほど疲れたのです。
それでも君を目の前にしていれば、まだ、生きられる気がしました。
僕は自分が生きるために君を拾いました。
君がここにいる理由などには微塵も興味がないのです。
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