第7話 犬について②

 あの人から条件付きの許可を得た翌日、僕の荷物は捨てられていました。学校にいる間の出来事だったので、制服と少しの教科書、財布などが無事だったのは幸いでした。

「引っ越しの手間が省けたでしょう」

 醜悪に笑う顔を、今でも容易に思い出せます。あの人はそれだけを言って、留飲を下げるために僕を殴りつけて、また夢を見るために家を出て行きました。

 あの人は悲しいのでしょうか。こんな僕でもいなくなるのが嫌なのでしょうか。だから駄々をこねる子どものように、どうにもならないことをどうにかしたくて、こんな無体をするのでしょうか。一瞬だけそう考えて、僕は笑いました。醜悪な表情だったかも知れません。

 そんなはずがありません。

 ただの僕の願望でした。あの人に必要とされたい、好かれたい。そんな妄執が、まだ僕の中にあったことに驚きました。こんなに殺したいのに。こんなに殺されたいのに。こんなにもまだ、思うことがあったのです。

 高校卒業を待たずに家を出ました。学校帰りにそのまま住み替えられるほど、確かに引っ越しの手間はありませんでした。

 崩れそうな古いアパートでした。今時木造で隙間風が吹き込み、扉の立て付けはどこも悪く、地震でも来ようものなら真っ先に崩壊すると容易に想像できる建物でした。その分、事前に必要になる費用がなく、賃料が安いのです。自分にはこれが精いっぱいでした。いえ、高校に通い大学の学費を貯めながらあの人に金銭を渡していくには、許容を超えていることは自覚していました。

 それでも出て行くしかなかったのです。同じ化け物でも、せめて少しでも違うように。

 化け物は化け物でしかないけれど。

 卒業に必要な最低限だけ高校に行き、他の時間をアルバイトに当てて金銭を稼ぎ出すことを優先する日々でした。はたから見れば不遇な状況でしょう。けれど一人でいることはこれまでと変わらないし、むしろあの人の気まぐれで殴られない分だけ、安穏なように思われました。

 安穏はときに毒のようでした。

 一人になって、自由になり、自分で決められることが格段に増えたはずなのに、僕の取る選択はそれまでとほとんど変わらないのでした。

 食事を食べたら殴られることも、腐った残飯を食事だと出されることもないのに、僕はおおよそ人間の食べるものを受け付けられないのでした。まともな「食事」は人間にこそ捧げられるものであって、僕のような化け物が手出ししてはならない神聖なもののような刷り込みが消えないのです。

 僕は結局、一人になって家から抜け出してあの人から逃れても、これまで共に生きた自分からは離れられないのでした。躾けられた戒律が拭えないのでした。

 それでも日々を生きました。生活というより、暮らしというより、ただやり過ごすだけの時間が連綿と続いているように思いました。後にも先にも、あるのは時間だけ。この苦しい時間が続くだけ。あの家を離れても、あの人を遠ざけても、楽にはならなかったのです。

 煙草を吸い始めたのは、その頃だったかも知れません。

 毒の筒は、あの人が時折吸っていました。金がないので思うように購入できなかったようですが、僕の食費よりは優先していたようです。子どもではなく家に配慮して、ベランダで吸う背中を見ました。煙の苦い味が嫌いでした。それに毒があると知ったとき、少しだけ好ましく思えました。家でなければ僕の隣で構わず吸うあの人が、僕を殺そうとしていると思えたからです。

 初めて吸ったとき、独特の、喉に来る刺激を痛みだと感知しました。心地よかったのです。痛みを生み毒を孕む煙を吸っていると、自分が損なわれていくような気がしました。それが少なくとも一時の救いになったのです。これを摂取していれば、自分がここに生存していることさえ、一部、許される思いがしました。

 生まれた時から張り詰めていた糸が緩んで、僅かな余裕を持って自分と取り囲む状況を見てみると、ろくなものを持っていませんでした。逼迫した精神、健康とは言い難い身体、怯えてばかりの心。債務ばかりがここにありました。これから稼がねばならない金額、生きていかなければならない日数、気の遠くなる道のりに思えました。万一うまくいって大卒の資格を得て就職が叶っても、ずっとあの人の犬としての時間があるのでしょう。

 思うと、僕は疲れていたのです。

 生まれてからずっと、気を張りすぎて、疲れ切っていたのです。

 マラソンを走り切った直後に、まだまだ走れと背中を鞭打たれているようなものでした。もう走れないのです。歩くことすらできない。ここで終わったほうが、今後のことを鑑みても得策でしょう。

 終わらせてしまいたい。

 憎い人と同じに、ベランダで煙草を吸って、揺れる感情を抑え込みました。

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