第6話 犬について①
夜が苦手でした。全てを覆い隠す暗闇は優しいけれど、夜というその概念はただ暴力的で、容赦なく僕を殴りつけるのです。いつもそうでした。逃げる術なんてありません。行く宛てなどありません。逃げる気力も、とうに失われていました。
また、あの人が泣いています。
夜は彼女にも爪痕を残します。辛く強い酒を呑みながら泣いています。
父が出て行ったこと、もう帰ることも、会うこともないこと、それらは幼い僕にも理解できていましたが、そもそもほとんど家に戻らなかった人、まして帰ってはこの人に暴力を働いていた男でしたから、その事象の何が悲しいのか、つらいのか、その本質は僕には分かりませんでした。
けれど僕はいつも、重たくなった布団を這い出て、彼女の手を取りに向かいました。居間を兼ねた寝室から、台所を兼ねた食堂へと。
あの人の手はブニブニとしていて、触っていて気持ちの良いものではありません。繰り返された過食にしっかりと従って結果を残した、太った醜い身体でした。父を失ってから急激に成ったこの人の身体の変化は、僕にはまさしく化け物の形成のように見えていました。
恐ろしい手にそっと、自分の手を重ねます。テーブルに突っ伏していたあの人は弾かれたように僕を見て、目を見開いて、そして、
思い切り殴りつけました。
その頃の僕は身長百四十センチほどの小さな体です、標準的な成人の身長、より多い体重のあの人なら殴り飛ばすのも容易でした。壁に叩きつけられた僕は背中の痛みをないものとしながら、それでも喉の奥から競り上がる血の匂いに咽せます。ふと前を見ると、彼女の大きな体躯が目の前で仁王立ちをしていました。
傲慢な女王の醜い姿、寂しい人間の細った精神でした。
いつも泣きそうな顔をしていたのを、よく覚えています。
その顔を過剰にゆがめ、こぶしを振り上げます。降ろす時に躊躇は見られませんでした。繰り返される殴打は胴体と手足だけを標的にします。僕の顔をあの人は殴りません。理性は、奥底に残っていたのでしょう。
どれくらい経ったのか、意識を半ば放り出していた僕には感知できないことでした。ただ再度視線をあげると、そこには涙と汗と鼻水で顔面を濡らしたあの人がいました。赤く腫れ上がる手は、表皮の下に蓄えられた脂肪でむちむちとしている様をさらに強調していました。
とてもとても見られない姿です。あの人のその心のどす黒さと未熟さを、表しているようでもありました。
あの人は泣き崩れました。泣きたいのは僕の方でした。けれどそれも許されないことなので、その身体に抱き着きました。今度は飛ばされません。それどころか僕の腕を取ったのです。たった今まで殴られていた部位であるので酷く痛みましたが、振り解きませんでした。その体温が、与えられるのはまれであったので。
そのころはまだ、求めていたのです。
若くして僕を生んだそうです。随分年上の父親とは当時結婚していませんでしたが、子どもが出来たことを理由に、あの人が丸め込む形で婚姻をしたそうです。
あの人は父が、その男が欲しかったのだと言います。自分のものにしたかった、いつ、ふらふらと何処かへ行ってしまうとも分からないような人だったから、と。子どもを生んで、法の籠に入れて仕舞えば、自分のもとにずっといてくれると思ったようなのです。
浅薄でした。
父親が家にいたのは、結婚して二年ほど。金を入れていたのは、そこから三年ほど。僕が小学校に上がるころには、跡形もなく蒸発していました。
あの人の元に残ったのは、愛しくて愛しくて憎くなった男と自分の遺伝子を持った、これからずっと金のかかる子どもでした。邪魔だったのでしょう。父を留め置くために生んだのに、その役割を果たせなかった役立たずの存在など必要がなくなったのでしょう。あの人にとって僕は、失敗の象徴でした。
殴られる日々は、中学生に上がって少し経つまで続きました。そのころになると、父に捨てられた衝撃で流れていた涙もすっかり枯れて、愛しさは底をついて、憎しみだけが燻っているように見えました。父に対する不十分な嫌忌は、僕に向けることでやっと明確な形を持つようでした。
物理的に行われていた暴力は、僕の身体が頑丈になっていくにつれてあの人も多少の危機感を得たのでしょう、養育放棄と精神的なそれへと移行していきました。
何処かの男のところで夢を見て、たまにふらりと帰ってきて、機嫌の好悪で金を置いてまた出て行くか、金を巻き上げ僕を詰って、やはり出て行くかの対応がされました。
中学生の僕は自分で金銭を稼ぐということができないので、いつ戻るとも知れないあの人をただ切り詰めて待つしかなく、ときには一週間塩ばかりを舐めました。学校の給食があり平日はひとまず一食確保できるのが幽かな希望でした。義務教育の間の記憶は空腹と鈍痛ばかりで埋め尽くされ、そのくせ思い出そうとすると靄がかかったように具体的なものはいくつも出てこないのです。
学費を渋るあの人に土下座をして詰られながら高校生になって、給食を失った代わりに労働できる身分を手に入れた僕は、自発的にアルバイトを始めました。誰の為でもありません、ただ生きるために。空腹に耐えかね塩を舐め、喉の渇きを補うために数日前の風呂の残り湯を啜る生活から、少しでも脱するために。
僕が稼いでいることを知ったあの人は、月に二万、家に入れるように言いました。理不尽だと高校生にも分かりました。
その頃には僕の家庭が、その構成以外の要素について他と違うらしいということを薄々感じていました。同じ高校に通う人たちは、家には大体毎日大人がいて、日常的に電気や水道が止まることもないらしいのです。殴られることも、食事を与えられないこともなく、そして毎日言葉を交わして、ときに笑い、ときに「喧嘩」というものをして、「暮らして」いるらしいのです。
言葉だけではよく分かりませんでした。冗談のようにも思いました。遠い国の逸話だとしか、思えなかったのです。
それ以上に僕と周囲の違いについて強く感じたのは、彼らは自分を周囲の人間と対等だと思っているようだ、ということです。まして、親とさえ対等だと思っている人もいました。彼らは一様に「人間」だったのです。疑いなく、そう思えました。僕とは異なる、一段も二段も上位の生命に思えました。
学校に行ってアルバイトをしてそこしかない汚れた家に戻って、寂しさと恐怖を腹に押し込みながら沈まない意識を弄び、現実味のない風景を見て、地面から浮いた感覚を味わいながら、他者とは違うらしい自分の正体について考えました。答えは明確でした。本当は、考えるまでもなかったのです。
幼いころから刷り込まれたあの人の言葉が、もう耳に張り付いて繰り返し繰り返し脳に囁きます。あの人を返してよ。あの人を手に入れるためにあんたを生んだのに、何の意味もない。返せないなら償ってよ、一生かけて償って。それから、あんたみたいなクズの欠陥品をここまで育ててやった恩を返して。あんたみたいなクズ、要らなかった。捨ててやればよかった。
僕は。
人間未満の、ただの醜い不完全な化け物なのです。
父親と母親という本物の化け物から生まれ、育てられた存在なのだから。
それでも、それでもほんの少し、僕には意地がありました。あの人と同じにはなりたくないという、憎悪から来る願いがありました。大卒という資格を得たいと思ったのは、高卒のあの人との違いを、一つでも多く身につけたかったからです。
遺伝子は汚れて、精神は崩れて、世界は色もなく、宵越しの未来さえ来ることが信じられない、そんな僕でも。あの人とは違うと思いたいのでした。
意地でした。殺される予想もしました。あの人が家にいないのをいいことに、なにも言わず受験をしました。偏差値を見て合格できるだろう大学を一つだけ。これに落ちたらあとはないという状況でした。金銭的にも時間を鑑みても、やっと掴んだチャンスがそれだったのです。
充分だと思いました。世間一般ではよほど頭の足りない人間が行くのだろうと思われるような大学でも、それは「大学」であり、卒業さえしてしまえば「大卒」になります。あの人と違うものになれるなら中身はどうだって良かったのです。
高校三年の冬に露呈しました。
それまで頭から僕は就職するものだと考えていたあの人は、ひどく激昂しました。長時間の、殴られ蹴られの暴力を受けたのは実に五年ぶりでした。身体が頑丈になったのか、あるいはただ麻痺しているのか、痛みはそれほどありませんでした。
理性がぶち切れた拳は、かつては避けた顔面さえ標的にしました。父への愛情はとうとう本当に尽きたようでした。口の中がぬるくぬめった感触と生臭い味でいっぱいになっても、それを床へと吐き出すことも許されません。ただ耐えました。それしかないのです。力では勝てるでしょう。けれど心では勝てないのです。躾けられた犬である僕は、教えられた通りの振る舞い以外を知らないのです。この痛みより損壊よりずっと、抵抗を決行するほうが怖いのです。
刷り込まれた恐怖がずっと、脳裏で悲鳴を上げています。
疲弊すると暴力が止んで、互いに体力の回復を待ちます。僕のほうからまた話題を切り出して、また殴られ詰られ、生まなければよかったと、誰より僕が望んでいることを耳に聞いて、そんな日々が二週間ほど続いたでしょうか。とうとう折れて自棄のようになったあの人は、条件つきの許可を下しました。
学費は払わない。家を出て行くこと。その費用も負担しない。これまで以上に金銭を渡すこと。どんなことでも迷惑をかけないこと。
到底、無理だと思える条件でした。おそらく僕が折れると考えての提案だったのでしょう。それでも僕は了承しました。それしか道はないと考えました。それしか道はない。この人との違いを得て生きる道は、これしかないのです。
あの人は泣きながら、世界中の不幸がその身に降りかかったかのように嘆きました。
「死んでくれたら良かったのに」
それなら。
貴女が殺してくださいよ。
貴女がその身体から出した命です、貴女が絶やしてくださいよ。
僕がこの人の腹に萌した当時、掻把する選択も考えたと、そうしておけば良かったと、幼いころから聞かされて育ちました。
そうしてくれていたなら、今の僕はどれほど救われたでしょう。
人を恨む重い感情も、自分を憎む暗い想いも、胸の深いところを灼かれる鈍痛も、知らずに済んだはずだったのに。
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