第5話 崩壊
目の前の光景を潰したいと思いました。そんな力、身体的にも社会的にもいまの僕にはありません。
だからここに縋るしかないのです。
「じゃあ、頑張ってね」
そう言ってあの人は、また醜い背を向けて夜の道に消えました。今月に入って二度目です。
生活はより苦しいものとなっていきます。致命的に金銭が足りないのです。バイトをずっと詰めています。これがあの人の計画だったのでしょうか。こうすることを予定しておいて、僕の進学を認めたのでしょうか。気力を絞り尽くされた僕は、なるほど御しやすいでしょう。
本当に、醜悪な化け物です。
アパートに戻ると君はいませんでした。昨夜出かける準備をしていたので仕事に行ったのでしょうが、僕より遅いことはそうありません。珍しいなと思いながら、一人の室内、布団の上に腰を下ろします。
カバンから通帳を出して、繰りながら金策について考えます。短期バイトの給料日、給与額、家賃の引かれる日付、最近は、奨学金の入る日付さえ勘定に入れるようになりました。このまま続けていれば、遠からず立ち行かなくなるでしょう。
目を眇めずとも終わりが見えていました。
せめて成人まで持ち堪えられたなら、と思います。
いまは未成年だから自分ひとりでは何もできません。契約を成すことも金を借りることも。けれど成人をすれば、法的に一人前にさえなれば、あの人のもとではなくても生きていけるのです。
二十歳になれば一人になれるはずなのです。
あと一年と半年です。
遂げられずに終わった先には、またあの日常が口を開けて待っているのでしょう。成人を前にして大学生の身分を剥奪されてあの家に戻されては、その後抜け出すのが困難を極めるだろうこと、容易に想像できました。
持ち堪えなければなりません。
通帳を握り締めます。そんなことをしても、残高が増えることはありません。
突如乱雑な足音がして、勢いよく部屋の玄関が開かれました。君です。
何かに追われているように、縋り付くように扉を締めて、鍵とチェーンロックまでかけて、いつかの僕のように土足で布団の上に上がりました。隅で身を縮めて、頭を抱えるように両手で耳を押さえます。
なんですか、と尋ねる前に、チャイムの音がしました。
君がより縮みます。
幾度かチャイムが鳴って、扉を叩く音がして。そして響いたのは、あの男性の声でした。
粘着質に呼びかけたのは、いつか聞いた名前。
「なあ、帰ってきてくれ。ずっと探してたんだ。どうして家出なんてした。帰ってこい」
高圧的というには、あまりに哀願じみた響きがありました。まるで被害者のごとき声音でした。君は耳を塞いで聴かないようにしています。
僕は通帳から、がたがたと揺すぶられる玄関扉へと視線を移して、ただ聞いていました。
扉の向こうにいるのが、最近周辺をうろついていたあの男だとするなら。恋人というには歳がいっているでしょう。兄妹としても同じことです。きっと、初めから予感した通りなのでしょう。
「帰ってこい。なんでこんなことをする? 帰ってこいよ、頼むから」
ねえ、あれが。君が早朝の線路で蹲っていた原因ですか。
男は縋るように言いました。それしかない、と言うような逼迫が感じられました。
「――愛しているから」
音を出さないように、笑ってしまいました。君を振り返るとさらに小さくなっていて、ああ可哀想にと思いました。
しばらく何やらを語っていましたが、応答しないでいると、「また来るから」と言い置いて、男は去ったようでした。室内には沈黙が広がります。嗚咽さえ聞こえません。思えば、ここに来てから一度も、君が泣いたところを見たことがないのでした。
僕は男の残した言葉に、先日の君のセリフを想起しました。
愛したかったし、愛されたかった。
「愛、ですって」
静かに言った、けれど沈黙のなかやけに響いた僕の言葉を、君が聞き逃すはずはありません。素早い動きでこちらを睨みつけました。その怒りは、君があの男に向けるものの百分の一にも満たないことは分かり切っていました。
けれども結構な剣幕です。
「愛なんかじゃない。あんなもの、違う。音だけ。それを言えば何でも綺麗になると思ってる。何でも許されると思ってる」
知りませんよ。
君の精神も記憶も、押し潰された苦しみも縛られた手足の痛みも、僕のものでなければ僕のせいでもない。全部、君のものです。
取り合わないでいると、君はまた隅で小さくなって、膝の向こうに頭を埋めました。それからまったく動きません。小さく固くなって、自分を守っているように見えました。
僕はまた、通帳に目を落とします。
足りない金銭と侵食する言い訳の愛。
可哀想に。
そう、思いました。
その夜。コツ、コツ、と何かを叩くような音で目を覚ましました。音の鳴る方を見てみると、普段ほぼ使われない台所に、君が立っていました。悟られないように薄目を開けて観察していると、どこにあったのやら、陶器の器に一心不乱に食いついていました。前傾姿勢で器のなかの何かをスプーンで砕いているのです。大方の予想は付きました。
視線を枕元に向けると、僕の睡眠薬の容器がほとんど空になっています。思った通りでした。高校生のときに経験があったのです。またしばらく見ていると、器に水を入れて、粉になった睡眠薬を溶かしています。
ねえそれ、死ねませんよ。
僕は起き上がりました。そこでようやく僕の存在を認識した君は、ゆっくりとこちらを向きました。歩み寄る僕を警戒しています。
「なに」
器に手を伸ばすと、君が素早く遠ざけました。僕はそれを無理にでも取り上げようと、君の顔面に手をかけて押し除けます。君は文字通り必死でした。
器を掠め取る拍子に君の胴体を蹴り倒し、顧みずに部屋を奥に進みます。立ち上がった君が縋り付くのを力で圧して歩みを進めます。軽い君の体を引き摺るのは、栄養の足りない僕でも難しくありません。窓を開けてベランダに出て、下も見ずに器のなかの液体を欄干の向こうに捨てました。睡眠薬の溶けた水は、コンクリートの上で染みになりました。器はベランダの隅に投げて割りました。
一つ屋根の下に住んではいますけれど、僕と君は友人でも恋人でもましてや家族でもありません。互いの領分には干渉しません。それが、僕たちの関係を成り立たせる距離感です。
それでも唯一。僕が君にできる唯一の指図が存在します。
君を拾った最大の理由です。
「許しませんよ」
大事に大事に作った液体の最期を見届けた君は、僕の脚に絡ませた腕から力を抜きました。窓を締めた僕は振り解いて、また布団に戻ります。
君はその場で力なく蹲っています。まるであの日見た人形のようでした。随分人間じみていた君の所作も表情も、時間が巻き戻ったかのように崩れてしまいました。
これほど簡単に、積み上げたものは無残にも崩壊します。
ねえまた、繰り返すのでしょうか。
繰り返し繰り返し殺害されているかのような日常に戻されるのでしょうか。
僅かながらの安寧が、それでもここにはあったはずなのに。
なけなしの心でそう信じたのに。
あの雪の早朝に染みたささやかな共鳴が、まるで悲劇の前触れだったかのように思えるのです。
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