第4話 彼は人間なので


 下らない策略に考えを巡らせています。と言っても僕に状況を動かす術や行動力などないのですから、ただ見守るのみです。君と同じときにベランダに立っても、あの男を見かけることはありませんでした。君が気が付いているのかさえ計れません。僕は黙っているだけです。壊れた口を守っているのみです。

 人を呪うと自らも堕ちてゆくのでしょうか。

 月々決められた日付で金銭を振り込んでいるというのに、またあの人が店に来ました。勤務終わりに待ち伏せて、今度は五万をむしりとって行きました。入ったばかりの給金は、僕の望まない形で出て行くばかりです。

 元々余裕などないのです。大学生活を始める前は、これは学費にするのだから手を付けまい、他で稼いだ分を生活費に充てようと考えていた奨学金すら、夏期休暇を過ぎたころから少しずつ崩さざるを得なくなりました。当初の計画では存在しなかった君の負担分を組み込んでなおこの有様です。

「顔色悪くない?」

 コンビニのアルバイトで彼と一緒になった日。引き継ぎを終えてすぐ、逸話を話し始める前に彼はそう言いました。僕はまさか自分に対しての言葉だとは思わず、彼の顔色を見て返しました。

「そうは見えませんけど」

「いや俺じゃなくてそっち。最近思ってたんだけど、顔色悪い。元から良いことはなかったけど。大丈夫? ちゃんと寝てる? 食べてる?」

「大丈夫ですよ」

 金策の一つとして、単発や短期のアルバイトをいくつか掛け持っています。休む時間は減る一方です。元々浅い眠り、それすら摂れなくなっていました。食事は以前より難しくなっています。彼はそういった生活の変化に気がつき、真っ先に言い当てたのでした。

「とは言っても体調悪そうなんだもんなあ。一人暮らしって偏りそうだし。友達は金がなくて肉が買えないからって、ほぼ水で溶いただけのカレー食ってるとか。廃棄ばっか食べてたりしない?」

「廃棄がメインにはなりますけど、他のも食べてますよ」

 嘘です。廃棄すら食べることはあまりありません。それでも万事上手く行っているように返すほうが波風が立たないでしょう。会話を早く終わらせたいのです。いつものように、ただ彼だけに話し続けて欲しいのです。口を開きたくないのです。言葉を発するのは怖いのです。

 彼は無邪気に、心配する言葉をかけてきます。薄氷の笑みで返しながら、僕は心を暗くしていきました。

 心配されるのは居心地が悪いのです。具合の悪そうな振る舞いをするな、と言われているように思えます。そうでなくとも、彼に心を配られるいわれはありません。たくさんの温かいものを、見せつけられているように思えてならないのです。普段は心の奥底に押し込んでいる怨嗟がコントロールを失って行くのを感じます。

 けれどそれを僕が言わないので、彼は事あるごとに体調を気遣いました。退勤の時間になってなお。

「なあ、これから飯とか行かない? そう言えば行ったことなかったなーって。奢るし」

 そう言って、隣について歩くのです。

「すみません、今から用事が」

「そっか残念。いつなら空いてる? 俺は結構ひまで――」

 疲労が理性の弁をおかしくしていました。コンビニのアルバイト以外にも仕事をして、浅い睡眠さえ摂れず、この後の用事というのも、短期のアルバイトに行くことでした。彼の言動がやたら鼻に付くのです。一言一句が耳に障ります。

 可哀想だなんて微塵も思えない、もし思えてしまっても自分の劣等感を増長させるだけの、君とは違う彼のことが泥を投げられた染みのように脳裏にこびりつきました。

 彼は微笑んでいます。

 綺麗に微笑んでいます。

 僕に、こんな表情はできません。

 健全な顔色、誰かに洗ってもらった清潔な服、高価そうなリュック、これから帰るのだろう明かりの点いた家、機嫌よく迎えるのだろう幾人かの家族、保証された生活、深く眠れる夜、顧みても刺されることのない思い出、潰されることなくまっすぐ育まれた精神。他人に心を配れる余裕。その、優しさ。

 そう生きられる環境さえ。

 とうに諦めた、初めから僕の人生にはありもしなかったそれらが、突如目に付きました。求めても仕方のないものたちです。諦める他ないのです。持っている人は大勢いれど、僕には配られなかったカードたちです。彼に当てても仕様がない感情がせり上げて来ました。

 僕は彼が嫌いです。出会った瞬間から、本当はずっとそうなのです。

 彼の余裕と清潔と優美が嫌いなのです。

 嫌悪感が、一気に爆発しました。

 それでも努めて、自分に水を浴びせました。プライドなどという高尚なものが、まだ自分にあるのだと知りました。違うのでしょうか。せめて馬鹿にされたくない、彼にまで睨まれたくない笑われたくないというこの意地は、プライドとは呼ばないのでしょうか。ともかくそれが、自分の行動を制限しました。

 相手を傷つけることではなく、自分を殴りつけることにしたのです。

「貴方は僕とは違います」

 微笑んでいた彼の表情が薄く曇りました。

「バイトを楽しくやりたいというなら店ではこれまで通り話しましょう、けど外で関わるのはやめてください。僕のことは貴方には関係ないはずです」

 彼は薄く曇った表情を、斜め上を見て思案する表情に変えました。うーんと唸ってまで見せて、言いました。

「俺うざかった?」

 意図するところが分からず、僕は停止してしまいました。言葉が足りないと思ったのか、彼は続けます。

「うざかったならごめん。俺ほんと相手のこと考えずに話すことが多くてさ。水カレー食ってる友達にも言われたんだよね、実家暮らしのお前に肉を買えない苦しさは分からん、って。一人暮らししてるやつの苦労が分からんのは本当なんだよ、俺これまで家出たことなくてずっと実家にいるし。だからその、配慮のない発言した。ごめん」

 手を合わせて、腰を折って、僕に謝りました。

 絶句しました。隔絶するつもりで言葉を投げつけたのに、殴り返されることはあってもまさか謝られることなど有り得ないと想定していました。

 まっとうに生きる人間が目の前にいました。羞恥心と劣等感に押しつぶされそうになって、その場に立っていられなくなった僕は駆け出しました。振り返ることさえできませんでした。彼が追いかけてくることもありませんでした。

 その足で短期のバイト先に向かい、ぐしゃぐしゃに乱れた内心でそれでもどうにか労働をして賃金にありついて、ようやく部屋に帰りついたのは昼頃でした。

 あの男はいませんでした。部屋に入ると、君がベランダで煙草を吸っていました。

 機敏に振り返った君の瞳を見て、僕は、心底安堵しました。

 その、感情の宿らない冷たい瞳、物音に過剰反応して怯える身体、人と抱き合えない形をした心、思い出せば血の噴き出す記憶、猛毒を摂取することでやっと許せる呼吸、帰るところがなく僕と同じこんな部屋にいるしかない、君。

 君は僕の内心に気が付いた風もなく、いつものように一瞥したあと、また外に視線を向けました。親しんだ無関心がここにはありました。

 この距離感でしか生きられないのです。

 人の体温は高すぎて、触れれば溶けてしまう。

 まるで君のように布団の上で縮こまった僕は、ぽつりと言葉を落としました。君は猫らしく聞き逃しませんでした。いつもそうやって緊張しているのです。余裕などとは縁遠いのです。

 再度振り返った君を、言葉を続けずに黙殺しました。君はそれ以上踏み込むことはなく、また、毒の煙を吸います。香りがここまでたどり着きました。

 彼にはまったく不釣り合いの、僕と君にはまったく似合いの、毒の煙です。

 僕たちと彼のあいだには隔絶があります。僕たちはどう願っても彼のようにはなれず、彼が万一望んでも僕たちのようにはなれない。

 それでも、どうしてでしょうか。

 記憶に精神を蝕まれ、自分の存在が自分にとっての毒である、彼とは違う僕は、それでも。

 希求するものがありました。雲を掴むような話ですけれど。

 ねえ君、まっとうに生きられますか。

 先ほど口から零れた言葉を、頭のなかで繰り返します。

 僕には無理です。

 無理なのに。

 彼の柔らかい眩しさが、目の裏から離れないのです。



 翌朝は早くからコンビニのシフトが入っていました。確認すると、彼の勤務日ではありません。一先ず息を付きました。次に会うとき、彼はどんな顔をしてどんな言葉を投げるのでしょう。彼の強い自我に当てられそうになるのです。強い光に、身を焦がれそうになるのです。

 いつも以上に鬱々としながら出勤しました。一緒に勤務をしたよく知らない学生は、必要最低限の会話以外の発語をしませんでした。まだ落ち着けました。

 その日は比較的平穏だったのです。

 心が波打ったのは勤務が終わり店を出た瞬間のことでした。帰宅しようと裏口を開いたら、脇に設置されているベンチに彼が座っていたのです。一瞬は仰天して思考が停止しましたが、すぐに復帰して、努めて冷静に「お疲れ様です」と声をかけました。そのまま立ち去ろうとしましたが、彼に呼び止められました。

「昨日はごめん」

 また、彼は僕なんかに簡単に謝ります。どうしてそうなのでしょうか。こんな丁寧な対応なんて要らないのに。もっと乱雑に扱ってくれたほうが楽なのに。嫌って距離を置いて欲しいと、こんなに願っているのに。

「謝らないでください。悪いのは僕ですから」

 壊れた口から離れるのは、そんな音ばかりです。

「勝手なことを言ったと思います。すみませんでした。不快でしょうから、もう」

「ごめん、店長に聞いた」

「はい?」

「バイトいくつも掛け持ちしてるって。うちのシフトもずっと入ってるのに、他でもずっと働いてるみたいだって」

 ええ。

 そうです。けれど貴方に、何の関係があるんですか。人の表情を臆すことなく直視できる貴方ですから、あの場面を見てしまった貴方ですから、僕がそれほど馬鹿みたいに労働をする理由も大方見当が付いているのでしょう。それもまた、関係のないことです。

「それで、俺に何ができるかとか考えたんだけど、よく分かんなくてさ。とりあえず、これ」

 彼が差し出したのは、布に包まれた直方体の何かでした。意味が分からず受け取れずにいました。中身がなにであるのかも、どうして僕にこんな行動を取るのかも、一切分からないのです。僕には理解ができないのです。

「親に……いやここで親を出すのすっごい恥ずかしいんだけど、親に、相談したらさ。お前のこと心配して、持たせてやれって。俺の母親の料理。筑前煮なんだけど。あ、迷惑だったら捨てても良いし」

 正体が分かってもなお、受け取れませんでした。

 僕は、せめて彼にだけは憐れまれたくないのです。可哀想だと思われたくないのです。馬鹿にされたくも睨まれたくもないのです。おかしな意地だとは思います。君に憐れまれるのは構わなくとも、彼だけはどうしても嫌なのです。どれほどの正当性があろうと耐えられる気がしないのです。

「あと、これ」

 挙動しない僕を意に介さないまま、彼が直方体に重ねて差し出したのは紙きれでした。

「俺の携帯番号。嫌だったらそっちのは教えてくれなくていいから。一人暮らしで、きつい生活してさ、心配じゃん。何かあったらかけてよ」

 僕はただその紙切れを見つめました。これを受け取ったらどうなるのでしょう。僕は彼の奴隷となるのでしょうか。僕の壊れた口は、それでもやっと、言葉を吐きました。

「どうして、こんなことをするんですか」

「あーごめん、やっぱ気持ち悪いよな、うざいよな……」

「そうではなくて。意味が、分からなくて」

「意味? 意味。ないけど。や、普通に心配じゃん? 友達がきつそうにしてるの」

 友達?

 意外な言葉を、すんでのところで口にはしませんでした。友達。それもまたよく分かりません。僕の人生にはなかったものです。

 逡巡して、昨日君に零してしまった言葉を思い出しました。

 ねえ君、まっとうに生きられますか。

 僕には無理です。この精神では無理なのです。痛いほど分かっているのに。

 それでも僕は、未練がましく縋るのです。

「……ありがとうございます」

 ゆっくり、彼の手から直方体と紙切れを取ります。直視できない僕でもわかるほど、破顔する気配がしました。受け取ったことに満足したのか、彼は「じゃあ、お疲れ」と言って去ってしまいました。

 僕は素直に、受け取ったものをアパートに持ち帰りました。包みの中は大きなタッパーで、煮物のようなものが入っています。売っている弁当以外で、初めて僕の目の前に置かれた、まともな食物でした。食べ物のにおいが上がります。柔らかいにおいです。腐ってもいない、悪意のある味付けもされていない、慈悲の塊のように思えました。

 僕は台所に立ち尽くしたまま、入っている大根らしきものをひとつ、摘みました。

 口に入れると、柔らかくて、甘くて、醤油の味がして、噛むと同じ味の液体が溢れました。思わず口に手をやりました。なんとか飲み込みます。残る余韻さえ、後を引くものでした。これは。

 人間の食べ物です。

 耐え切れない僕はタッパーを持って、布団の上で空を眺めている君に渡しました。

「なにこれ」

「食べますか」

 訝しげな表情をしながら、君は僕と同じようにひとかけらを口に運びます。驚いたような顔をして、食べ物を見つめました。

「なにこれ、美味しい。初めて食べた。すごい、美味しい……」

「捨てられないので、食べてください」

 言って自分の布団に戻った僕に、君はいつもの猫のような視線を向けました。

「どうしたのこれ」

「バイト先の人のおすそ分けです」

「食べないの」

「食べましたよ、美味しかったです」

 君と僕には、独特の共通言語があります。他者には拾えないニュアンスさえ、君は勝手に拾ってしまうのです。そしてそれが鬱陶しいほど正しいのです。君は次々と、指でつまんでは口に放って行きます。以前よりは幾ばくか、人間らしい所作に見えました。

 そんなところにも、違いを見出してしまうのです。

 見つめる僕を哂って、君は言いました。

「可哀想」

 返すことをせずに、僕はベランダに立ちました。煙草に火をつけて、いつもより強く吸います。煮物の味が苦味に変わります。深く、痛みました。感覚で溜飲を下げて感情を消しました。眼下には相変わらず、あの男が見えます。可哀想なのはどちらでしょうか。君も、同じ穴の狢でしょう。

 ここ最近特に機能しない僕の壊れた口は、必要なことを話さないのでした。

 代わりに、どうでも良いことが溢れます。

「ねえ君、愛されたかったですか」

「誰に?」

 嘲笑うように君が言いました。分かっている癖に。本当のところは知りませんけれど。

「誰でも良いですよ。例えば、君の憎い人とか」

「さあ。今更そんなこと言われても。でもそうね、愛したかったし、愛されたかった」

「過去形ですか」

「だって、もう無理だもの。それはあんたも同じでしょう」

「そうですね」

 あの人のことを思い浮かべます。丁寧な味付けの料理など食べたことがないのです。出されるものといえば、焼け焦げて炭になったもの、大量の油に溺れているもの、時には洗剤がけられたものもありました。得がたい食料でした。風呂の残り湯や塩を舐めるよりはまだ、マシに思えたのです。それがあの人の優しさなのだと、錯覚した日もありました。

 こんな、人間の食べ物を与えてくれる人はいませんでした。

 愛されることも、愛することも。

「無理でしたね」

 今になって、他人の、顔も知らない「母親」に与えられるとは思いませんでした。大変そうだからとそれだけで、見知らぬ他人のために、こんなものが作れるなど信じ難いことです。そうして際立つのです。自らの親に向けられている感情が。幼い頃に、求めていたものが。

 ねえ君。

 あのとき欲しかったものを、まだ、覚えていますか。

 恨みがましく。

 温かい食事だとか、優しい手つきだとか、安心できる声音で紡がれる言葉だとか。

 ずっと欲しくて、求めて、貰えなくて、ファンタジーだと片付けて、それでもずっと、胸の内に残っているもの。

 ねえ、覚えていますか。

 幼いころ、欲しかったもの。

 まだ、未練がましく諦め切れていないものを。

 いつしか受け取れなくなって、あげる術すら知らない感情を。

 今更もらっても、扱い方が分からずに、叩きつけることしかできない。

 やはり君も僕も、取り返しの付かない化け物です。

 まっとうに生きたいだなんて、夢のまた夢なのです。

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