第3話 雪解け
最近、知らない男を見ます。
煙草を吸うとき、ベランダから見下ろす道路で。アルバイトから帰ったアパートのエントランスで。大学へ向かう道の上で。
視線が合うと決まって、男の方から逸らします。こちらを意識しているのは明らかなのですが、僕にはその男に見覚えがなく、誰だか分からないのです。あの人の歴代恋人の誰か、ということもないでしょう。わざわざ僕に執着する必要がありませんし、そもそもあの人は、顔の良い男にしか興味がないのです。きっと僕には関係のない男なのでしょう。僕は気にせずベランダに出て、眺めながら煙を吸います。
君にとってどうなのかは、知りませんが。
アルバイト先で会っても、彼の態度は変わりませんでした。それはこれまでの経験で言うと意外なことでした。
これまで出会った人間は、僕の事情や痣や、精神に染み付いてなお染み出す色を目にするとよそよそしくなったものです。遠巻きに、けれどこちらに視線は向け続けるのです。面倒なものには関わりたくない、という心理なのだと思います。
僕は人間でないので、この立ち位置しか知らないので、よく分かりません。
彼はいつものように挨拶をしました。いつもの口調、いつものように、僕の目を見て。いつものように僕はそのまっすぐな目を直視できませんでした。交わす会話も変わりません。ただ、カウンターに二人立って、家族や友人、恋人の話を聞いていると、ふと思い当たったように彼が黙り込みました。不自然な沈黙だったのでそちらを見遣ると、彼にしては珍しい、バツの悪そうな表情でこちらを向いていました。
図らずも直視してしまった彼の瞳は、困惑を宿していながらも透き通って綺麗でした。その水面に遠慮なく僕を映されて、咄嗟に目を逸らします。
「あのさ、嫌だったら言ってよ」
「……なにがですか?」
なにか、嫌がるような素振りを見せてしまったのでしょうか。あの人は僕によく言いました。なんて顔してるの、なんて厭らしい目。止めてよ、こっちを見ないで。
真白に凍り付く僕に気が付いた様子はなく、彼は続けます。
「家族の、話とかさ。今まで何も思わず言いたい放題だったけど、もし嫌なら止めるし」
そんなことか、と思いました。今更でした。気遣い屋なのでしょう。
「嫌ではないですよ」
珍しく、本当のことでした。
遠い国の逸話。その内容は相変わらずこちらに歩み寄ってはくれません。むしろ聞くたびに、遠ざかって行く気すらするのです。何度も何度も、彼と僕の間に歴然とある距離を測らされている気がするのです。それでも聞きたくないとは思わないのでした。
ああ、これは、自傷のひとつなのでしょうか。
僕と彼の距離は、遠くて、生まれた瞬間は同じだったかもしれない心の色が、不要な重みが、その育ちのなかで瞭然とした差異となって歴然とここにあることを、僕はあえて見たいのかもしれません。自分はもうどうしようもないのだと、諦めて諦めて、完膚なきまでに諦めて、納得したいのかもしれません。方向性は違えど、僕にとっての彼は、君と対称の位置にあると言えるのでしょう。
君のことを何も言えません。
自分を傷つけて憐憫に浸るのは、中毒性を持った快感なのですね。
「なら良いけどさ。ああでも、いつでも言えよ」
彼は僕を憐れんでいるでしょうか。変わらぬように見えて、その実は僕の事情に同情しているのでしょうか。その疑念は僕をいらつかせました。これまで僕を睨んできた人間たちの視線を思い出します。
彼に、可哀想と思われる筋合いはありません。君に思われるよりはずっと正当性があるはずですが、けれどどうしても、彼に思われることが許せませんでした。
言えませんけれど。
心にあるものを、すべて出せないのはいつものことでした。表出しても反抗しても、泡と消えることは経験から知っていました。この胸に収めたほうが、物事はうまく運ぶのです。
僕の口は壊れているので。
一生、彼に言えないのでしょう。
出席を取られる授業が、一限と三限にありました。空いた一コマ分の時間に課題をしようと、無人の教室を探して構内を歩き回っていました。そのとき視界の隅に、彼が映った気がしたのです。彼と僕は同じ大学生という身分ではありますが、彼はずっと偏差値の高い、ここから離れたところにある大学の学生のはずでした。ここにいるはずがありません。けれどどう見ても、彼なのです。
僕は外で知り合いを見かけると、瞬時に逃げる生態を持っています。できるだけ会いたくはないのです。向こうもそれは同じでしょう。見たものが偽物であればいいですが、本物だと困るので進路を変えました。けれどそれは無駄でした。彼は本物でしたし、そしてまっとうな、後ろ暗いところのない見事なまでの人間だったのです。
背後から名前を呼ばれました。聞こえない振りをして歩みを進めましたが、今度は肩を叩かれました。ここまでされて、この上で無視をしてしまったら、あまりに不躾でしょう。アルバイト先の居心地が悪くなるのは避けたいのです。
振り向くと、彼が笑っていました。これまでの人生で見慣れた醜悪な笑みではなく、好意の塊のような、僕の嫌いな笑いかたをしていました。僕は嫌悪感でいっぱいになって、薄氷の笑みさえ返せません。彼は嬉しそうに言いました。
「すごい偶然!」
「どうしたんですか、大学、ここじゃないですよね」
「友達に呼ばれてさ。きょうの授業終わったから遊びに来た」
そうですか、としか言えませんでした。友人もおらず「人と遊ぶ」ということがよく分かっていない僕には、それがどういう状況が上手く掴めないのでした。呼び付けられたことが、嬉しいのか、憤慨するべきことなのかどうかさえ。
「そっちは?」
「これから授業です」
嘘を吐きました。人間との会話は、まさに綱渡りです。踏み外さないよう、相手の怒りや不満の地点を踏んでしまわないよう、細心の注意を払わなければなりません。一秒でもはやく、この恐怖を伴う状況から脱したいのです。
思惑通り、彼は「そっか、お疲れ。また店で」と言って笑顔で去って行きました。丈夫そうなリュックを背負った背中を見ながら、人間の体温は高すぎると、僕は再度認識しました。
触れれば火傷を負うのです。
だから触れられない。例えば君との距離感でしか、関われないのです。それをどれほど冷淡だと言われても、こちらにしてみれば精一杯の近さなのです。
彼の行った方向を見ました。出来るだけ離れた教室を探そうと思いました。
三限を終えてアパートに戻ると、階段の前に男がいました。最近よく見るあの男です。この近距離で見ても、その顔面自体にはやはり見覚えがありません。けれど、ああ、人間の顔を今ひとつ認識できない僕だけれど。
毎日顔を合わせている生き物の面影は、分かるものらしいのです。
男は僕の顔を見ると何か言いたげに表情を動かしました。近くで見ても印象の変わらぬ、気の弱そうな中年でした。何なのでしょう。僕には心当たりがありません。だから僕が関知することではないのです。通り過ぎようとすると、意を決したように男が口を開きました。
尋ねられる形で耳に届いたのは知らない名前でした。
素直に知らないと言いました。
男はすぐに引き下がり、去っていきます。僕は拘泥なく階段を上がりました。
部屋に入ると、君が布団にくるまっていました。眠っていたのでしょうか。僕の帰宅で簡単に意識を取り戻したようで、重たい視線をこちらに向け、一瞥してまた布団の中に戻りました。
僕はただ、君に思います。
可哀想に、と。
そんな視線は感知していないかのように、君は眠ります。僕はベランダに向かいました。足音ひとつひとつに、君は薄目を開けます。壊れた警戒心は未だ直っていないようです。僕の開かない口と同じで、きっと一生涯、正常に戻ることなどないのでしょう。
君の存在を感じながら、欄干に前かがみに凭れて煙草を吸います。下を見ると、またあの男を見つけました。
知らない名前を口にした男。それが誰のものか、僕には予想はできても確信などは持てません。
どうでもいいことですから、そのまま吸い終わり部屋に戻ります。君はまだ、布団のなかで僕を睨みつけていました。
ねえ君、男の知り合いはいますか。
聞こうかとも思いました。最近見かけるあれに気が付いていますか、君の既知ですかと。けれど僕は黙りました。
壊れた口を直す意思もないのです。
僕があの人に反抗してまで手に入れようとした大卒の資格は、高卒のあの人との違いを得るためでもありました。あの人と同じになりたくない。あんな醜悪な生き物になりたくない。半分の遺伝子を投げつけられて、精神に同じ色を塗りつけられてなお、それでも、違うと思いたいのです。目に見える形で違いを得たかったのです。
それなのに。
僕より可哀想な化け物を、今以上に可哀想にしたいと望みます。そうなればいいのにと画策します。
自分より酷い状況の奴がいると安心したいのです。溜飲を下げたいのです。
これはまるで、あの人の如き醜悪さでした。
後天的に汚された遺伝子や精神性を差し引いてなお、僕は醜い化け物のようです。
開かない口をそのままに、僕は君の横を通り過ぎました。
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