第2話 幸福


 大学は休みでした。朝から夜までアルバイトを入れています。本当は深夜帯まで働きたかったのですが、あまりに長すぎると、店長に拒否されました。

 昼からは彼と、一緒のシフトでした。

 彼はいつ見ても健康そうで、顔色のよい、綺麗に育まれた表情をしています。過去に裏打ちされた美しい人だと思います。

 その健全で優美な強いプラスの雰囲気が、僕は苦手でした。恐怖を覚えます。僕の温度と彼の温度の差異を思い知るたび、君との矮小な差異を味わうときとはまた異なる惨めさを突きつけられるのです。

「そういえば、先週おれの誕生日だったんだけどさ」

「おめでとうございます」

 彼はいつも、なんでもない話を僕に向けます。なんでもない話、というのが僕には難しいのですが、だから人と話すことがあまりできないのですが、彼は人間なので、そういったこともしっかり可能のようでした。拙い僕の相槌を綺麗に拾って、彼はずっと話しています。大学の教授の話、講義の話、友人の話、それから家族の話。どの話も、僕にはできないものです。

 語るほどの思い出を持たないのです。そして彼のように美しく、つらつらと言葉を流すこともできません。

 彼の話すことは、遠い国の逸話のようでした。

「ありがとう。一足先に十九になった。そっちは誕生日いつだっけ?」

「……いつでしたっけ。十月だと思います」

「いや自分の誕生日は覚えとこうよ」

「なにもしませんから。誕生日、どうだったんですか?」

 ホットスナックを揚げながら、彼は嬉しそうに話します。自分の誕生日のことを笑顔で話せるのは、いいことだと思います。

「当日は彼女と過ごしたから、昨日家族に祝ってもらったんだ。母さんがケーキを用意してたんだけど、何故か兄貴も買って来ちゃって。俺んち父さん母さん婆ちゃん兄貴姉さんの六人家族なんだけど、五人分のホールケーキが二個。他の料理もあるだろ、もう大変でさ。きょうは朝も昼もご飯がケーキだった。腹が気持ち悪い」

「大変ですね」

「まあ嬉しいんだけどさ」

 遠い国の逸話が、一ミリも寄り添わずそこにありました。僕は接客のときと同じ慣れた手順で薄い微笑みを貼り付け、彼に向けました。

 彼が特殊なわけではありません。それらは実は、当然のように人の傍にあるものらしく、大抵の人にとって、手を伸ばさずとも与えられるものらしいのです。

 けれど僕は、化け物なので。

 手を伸ばしても与えられないものが、そこにありました。悪いのは僕のほうなのでしょう。

 薄い氷のような、多少の衝撃や僅かな温度でなくなってしまう微笑みの下で、僕は静かに彼を恨みます。彼は本当になにも悪くないのです。温かいところで優しく強く育まれた彼が、恨めしいほど羨ましく、僕はなんの罪もない彼を責め、胸を黒く重くしてしまうのでした。

 そういうとき、僕は心のなかで、君を思い出します。

 今も布団のなかで眠れずに、縮こまっているだろう君。疲れの取れないままに身体を起こしたら綺麗な下着をつけて、顔に色を塗りたくり、仕事に行くのでしょう。それしか生きる道がないのでしょう。学もなく経歴もなく、保証人もいない君ですから。

 ああ、可哀想に。

 いつものようにそう思った、罰が当たったのでしょうか。

 店の自動ドアが開き、来店を知らせるチャイムが鳴って、接客用の笑顔を向けた僕は、そのまま硬直しました。

 その人は、白昼夢のようにそこに立ち、変わらぬ弛んだ身体をぴんと伸ばし、僕と共通点のある顔立ちで微笑んでいました。僕以外に向ける笑顔だけは、完璧な人なのです。いつだって外面は良いのでした。

 店内を見回ることなく、一直線にカウンターに近づきました。その人は彼に笑顔を向けて、こんにちは、と挨拶をしました。顔の良い男が好物なのです。彼は戸惑った顔をしつつ、いらっしゃいませ、と言いました。僕は咄嗟に、どうしたんですか、と口を挟みました。その人はそこでやっと僕を見ました。彼から僕へ意識を向けられたことに安堵しました。

 照準が僕に定められ、先ほどとは鋭さの違う、それでもまだ対外用の笑みを見せています。

「きょうは何時までなの?」

「なんの用ですか」

「答えなさいよ、何時までなの」

「……二十時までです」

 正直に教えたのは、恐怖からでした。

 僕は例えそれがどれほど不本意であろうと、金銭を稼がねばなりません。そうしなければ生きられないからです。自分以外に、いえ自分でさえ、頼れる人は誰もいないのです。ここで抵抗をすれば、この人は対外には優雅に微笑みながら、合法的に僕をこの場所から追い出すのでしょう。それをできる立場にこの人はありました。

 満足そうに微笑み、そう、と答えて、去り際に再度彼に愛想を振り撒き、店を出て行きました。どう濁そうかと逡巡する僕より先に言葉を出したのは、彼でした。

「知り合い?」

「そんなところです」

「綺麗な人だ」

「……そうですね」

 弛んだ身体、それなのに線を強調する服装。一見した姿はとても美しいとは言えないのですが、よくよく見れば、もし痩せたなら、或いは若いころは、顔の良い人間だったのだろうことは伺えるのです。またあの人は、実年齢とは離れた格好をするので、肉体の年齢より服装の年齢で評価され、顔や体は若くなくとも、その全体的な雰囲気は確かに若く感じられるかも知れません。

 それがまた、あの人の醜い自信になっているのです。

 彼はまた、家族の話を続けました。何事もなかったかのように。実際、なにもなかったのです。

 事が起きたのは僕とあの人の心の中、いえ、僕の精神のみでしょう。

 彼が見たのは同僚の知り合いがアルバイト先に尋ねて退勤時間を訪ねるさまであり、日常の一場面以外の何事でもないのです。

 彼は健全な笑顔を見せています。昨日の自分の誕生日祝いはそれほど楽しかったようです。話より想像できる彼の「家」は緩く囲われた安全地帯のようでした。

 だから僕はまた、薄氷の笑顔の下で心を黒く沈めるのです。



 二十時はすぐに来ました。彼も共に退勤でした。話しながら当然のように共に帰ろうとする彼に断って、一人留まって店のガラスに寄りかかりました。彼の姿が見えなくなってもなお、あの人が来ないことが唯一の救いに思われました。ただでさえ耐えられないのに、これ以上惨めな思いをしたくないのです。

 彼の家や家族は、僕とは違うもののようでした。同じ家庭などこの世に二つと無いでしょう。それでも「違う」と断言できるほど、その隔絶は明白でした。性質が根本から違うのです。同じ樹から枝分かれしたのではなく、全く違う土壌から全く違う樹が生えているのです。いえ、植物という共通項があるかどうかさえ怪しいのです。

 そうやって違うので、そこに結実した彼と僕も違うのです。同じ人間の中で違うのではありません。彼は人間ですが、僕は人間ではないのです。

 その証左に、僕は会いたくもないあの人を、二十時を三十分過ぎてもなお待っています。内心震えながら、心底怯えながら、泣き喚きながら、それでもなんでもない顔をして待つのです。

 犬のように。

 与えられた戒律が染み付いて離れない、捨てられた野犬のように。

 あの人が来たのは、二十一時を過ぎたころでした。

「あら、あの子帰っちゃったの」

 第一声がそれでした。

「あの子、って」

「さっき一緒にレジにいた子。可愛い子じゃない、利発そうだし。あんたとは違って」

「用事は」

 昼に来たときの、対外用の笑みはもうありませんでした。僕にとってはいつもの、「母親」の顔です。切りつけるように鋭利な、敵意に優越感の混じった表情。

「あたしがあんたのところに来る理由なんていくつもないでしょ、分かりなさいよ。本当に鈍い子。だから誰からも相手にされないのよ」

「今月分は振込みました」

「足りない」

「……約束は」

「そう、約束だったでしょう。あんたが家を出ることであたしに迷惑をかけない。あんたが家にいればこうやって来ることもなくていいのにね」

 約束は、月に三万でした。

 高校を卒業する前、大学に進学させてくれと言った僕を殴りつけ、それでも僕が折れないので、この人が渋々取り付けた約束。学費も生活費も自分で払う。迷惑はかけない。高校生のときに家に入れていた金銭も今まで以上に振り込む。そういう、条件でした。けれどこの人は度々バイト先に訪れては、こうして月に決まった以外の金を無心するのでした。

 あと二万、と言ったので、僕は職場であるコンビニに入りました。僕と入れ違いで勤務している同僚は、ちょうど誰かに呼ばれて奥の事務所に入って行きました。この隙にと、僕はATMから二万円を引き出します。本当は時間外の手数料さえ惜しいのですが、それをこの人が負担するはずもありません。店から出て、裸のままの札を渡しました。

 この人はそれを事も無げに受け取って、カバンに仕舞い、僕に笑いかけるのでした。対外に向けるそれでもまだ優美な笑みではなく、ただただ醜い、笑い方でした。

「ありがと。これからも頑張ってね、大学生」

 僕は薄氷の笑みも返さずに黙り込みました。なにを言ってもこの人の精神を逆なでする可能性は否めないのですから、なにも言わないのがまだましな回答であるのです。目の前の化け物は、口角ひとつ動かさず、僕の頬を張りました。人気のない夜に高い音が響きました。

 そう、これくらいで済むのです。

「本当に可愛くない。精々頑張りなさいよ、大学なんて行くなら、良い会社に入りなさい。給料の良いところよ。それで、あんたを育ててあげた恩を返して」

 毎度飽きずに同じことを言い含めて、踵を返しました。ぴんと張った背筋は堂々と、けれど弛んだ身体を強調しています。醜い化け物でした。さすが、僕を生んだ生き物でした。

 自分の醜さの結晶を、どうして愛せるでしょうか。

 はやく帰りたいと思いました。帰る場所などないことは無視をしました。胃の奥から競り上がって来る胃液を無理に飲み込んだら、喉が焼けて咳が出ました。止まらない手汗を服の裾で拭きました。震えさえ、拭えた気がしました。

 姿が見えなくなったのを確認してから、僕は帰路を行こうとしました。裏口の開く音がしたのは二歩ほど歩いたときでした。誰かが休憩にでも入ったのでしょうか、さほど気にせず、振り返りもせずにそのまま行こうとしたら、名前を呼ばれました。

 彼の声でした。

 視界が一瞬ぐらりと揺らいで、脊髄がすっと冷えて、僕はゆっくりと振り向きます。そこにいたのは確かに彼でした。先に帰ったはずの彼でした。健全で汚されない、僕とは違う生き物です。言葉を失っていると、彼の腕に抱かれた毛玉が動きました。

「猫がさ」

 彼が視線を逸らせつつ、控えめに言いました。

「道に捨てられてて。どうすれば良いか相談したくて、待ってたら来るかなと思ってしばらくいたんだけど、来なかったから店に戻ってみたんだよ。そしたらあの人と話してたから、裏口から店に入って磯崎さんに相談しててさ」

 彼は、居心地の悪そうに視線を動かします。この反応をよく知っていました。

 彼は聞いていたのでしょう。どこからどこまで、なにを、聞いたのかは分かりませんが、そしてどこがそれに当てはまるに足るものだったのか分かりませんが、彼が反応に困るような場面を、僕の視界の外で見てしまったのでしょう。それでもなお僕に声をかけたのは、彼の善良な性質ゆえなのでしょうか。或いは、人の事情を暴いて頭に入れておきたいだけの性根ゆえなのでしょうか。

 なんにせよ僕も、対処は慣れたものなのでした。

 揺れ叫ぶ精神を殴りつけて黙らせて、今にも割れそうな、すっかりヒビの入った薄氷より脆い笑みをどうにか貼り付けて、僕は彼に返しました。

「猫ですか。どうするんですか」

「あ、ああ。とりあえず家に連れて帰るよ。戻すとか無理だし。弱ってそうだから病院とか連れて行ってやらないと」

「そうですか」

「それよりさ」

 よくある反応のひとつでした。

「大丈夫、なの。ていうかさ、誰なのあの人。知り合いって本当?」

「はい」

 すべてに対してそう答えました。彼は納得をしていないようでした。

「母親です」

 追い打ちをかけると、彼は絶句したように息を吸いました。それを吐き出せもしないようでした。そんなに衝撃的なことなのでしょうか。ニュースなどでよく聞くでしょう、親に殺された子どものことなんて。それに比べればまったく、些細な話であるはずなのに。

 わけの分からないものを見るような目で、腕に抱く捨てられた動物を見るより憐れむ視線で、僕を見るので。温かい場所で生きた彼は、僕のような人間でないものから生まれ、人間でない生き物のことは、理解の及ばない化け物だと感じるのかも知れないと思いました。或いはさまざまなニュースが流す、育ちの悪い殺人者のことを、僕に重ねているのかも知れません。

 あの人に金を取られるより、あの人の子どもだと自覚するより。

 他人からの視線のほうが、よっぽど僕を槍の谷に突き落とすのです。

 彼がなにも言わないので、笑みを外さず、お疲れさまですといつものように挨拶をして僕はその場を離れました。早足で彼の視界から消えて、それから、駆け出しました。周囲はもうどっぷりと夜に浸かっていて、僕を見咎める人間はありません。ただ、走って。この惨めさと、この情けなさと、この恨みと憎しみを。灼ける感情を、失くしてしまいたくて。

 そんなことは無理だと分かっているのに。

 ――あんたは誰からも相手にされないのよ、可愛くない子。

 これまで何万回とあの人に言われた言葉が頭を駆け巡りました。何度も殴られた顔が、肩が、腹が、なんでもないのに痛みました。反応に困ったように視線を彷徨わせる彼の表情が脳裏から離れません。それらから解放されたくて駆けました。そんなことは無理だと知っている僕が駆け込めるのは、あの空気の滞った、苦い煙の匂いの充満するアパートだけでした。

 玄関を開けて勢い飛び込んで、倒れこみました。肩を強打しましたが、痛くはありません。

 それよりずっと、頭が、精神が、煩いのです。

 思い出とは、いかに、くだらないものでしょうか。

 僕のこれまで見聞きしたものが、経験したことが、頭の中を駆け回ります。まるで走馬灯のようです。そうであればどれほど良かったでしょう。このまま死んでしまえるのなら、不可抗力で逝ってしまえるのなら、どれほど良いことでしょう。けれど身体ならともかく、精神はどれほど殴りつけられても死ねないのです。

 積み重なったあの人との思い出は、澱のように溜まった年月は、いつも痛みが伴います。それでも幼いころは甘い感情がありました。そう、好きだったのです。求めてさえいたのです。父に捨てられ泣くあの人を、慰めた夜さえありました。心の底から可哀想に思いました。共に泣きました。この人の悲しみは自分の悲しみでもある、この人の喜びは自分の喜びであるとさえ、感じていた時期があったのです。どれほど殴られても詰られても、あの人が好きでした。僕にはあの人しかいなかったので、あの人が好きでした。嫌われることが嫌でした。

 どれほど嫌われても、好きであったし、好きでいて欲しかったのです。

 僕は脱げない靴をそのままに、床を這いました。台所と風呂場がある廊下を行けば、僕と君の存在しか有り得ない一間があります。幸い、君はいないようでした。

 敷いたままの自分の布団にたどり着くと、そのまま横倒しに転がって、枕元の睡眠薬に手を伸ばしました。手元を見ずに掌に大量に出して、いくつか取り落としながらも口に放りました。噛み砕いて、飲み下します。口内に残った分は、手の届く場所にあった、澱の浮遊するペットボトルの水で流しました。

 意識を強制終了させること。

 それが、僕が二十年に満たない人生で発見した、自分を保つ方法です。騒がしい脳も、焼け焦げる精神も、それで一先ずは感じなくて済むのですから。

 薬が効くまでを目を瞑って耐えていると、玄関が開く音がしました。不本意ながら、僕は君の音に随分と慣れたようです。君は猫ですから、可能な限り物音を立てないよう慎重に動くのです。一瞬張られた緊張の糸が聞き知った音で緩んでいくのを感じました。

 君は部屋に入るなり、足を止めました。靴も脱がず鞄も下ろさず横たわっている僕を観察しているのでしょう。周囲に散乱した錠剤を認めて、息を吐いたようです。何も言わず、君は自分の布団に向かいました。猫のように、壁の中に入ろうとするように、隅に小さくなって座るのでしょう。いつものことです。

 君は、臆病ですから。

 僕と同じに。いえ、それ以上に。

「ねえ」

 沈む意識をどうにか掴んで、口を動かしたのは僕でした。君は応えません。これもいつものことです。君にとって、自分の存在を失くすことがなによりの美徳なのですから。

 それでも、問いかけました。

「殺したくはないですか」

 率直な問でした。もし君にそう聞かれたなら、僕は一笑に付すでしょう。意味のない質問だと、言うまでもないことでしょうと。けれど君は僕とは違うらしく、聞き返したのです。


「――自分を?」


 僕は、笑ってしまいました。

 君、まだそんなことを考えていたんですか。そんなことより、優先すべきことがあるでしょう、やるべきことがあるでしょう。せっかくここまで逃げてきて、今まで出来なかったことをまだ望むのですか。君はまだそんなことを思うのですか。今更それをするくらいなら、ここまで消費した体力は、耐えた時間は、なんだったのですか。

 自分を殺すより。

 殺すべきは、他にいるでしょう。

 乾いた笑いだけを返した僕に、君は何も言いません。立ち上がり、窓を開けてベランダに出たようでした。

離した意識の上澄みのなか、君の決めたマルボロの煙が、うっすらと鼻にかかります。

 毒の香りでした。

 僕に気遣ってこのタイミングで吸ったわけではないのでしょう。君にそんな甲斐性があるわけがありません。いくら共通言語があろうとも、この内情まで知ることなどないでしょう。

 強制的に沈められる意識のなかで感じたのは。

 僕に対する憐憫ではなく。

 君へ贈る「可哀想」でもなく。

 燻るあの人への殺意と、それを覆う煙草の香りでした。

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