第10話 殺意の行き先
もとより上手くない睡眠が、ますます困難な行為となっていました。睡眠薬を規定量より多く飲んでも布団に入っても、目が冴えて眠れないのです。元々長時間勤務しているコンビニに加えて短期のアルバイトも入れていて、身体は確かに疲労しているはずなのに、意識は高くを飛んで降りることをしないのです。
常に視界が回るようになり、頭痛と吐き気が一向に止みません。
それでも働かなければいけません。生きるために。ここに居るために。
きょうも、君の挑戦は止みません。できないことはできないと早々に諦めるか、そうでなければさっさと決してしまえば良いものを、足りないのは覚悟が熱量かそれとも運か、君はあの男の来襲から数日経った今でも、生きています。
今回も僕が阻止に成功しました。ベランダに出て、取り上げたロープにライターで火を付けます。しばらく放っておけば燃えて炭になってしまうほど、頼りなく細いロープでした。何度も君の自殺を阻止しているように思えるけれど、本当は僕のいないところでも実行し、そして失敗しているのでしょう。
本当は死にたくなんてないのでしょう。
死のうとすることで溜飲を下げているのです。
うっかり成功してしまったところで、君に不利はないから都合が悪いのです。
「ねえ」
カバンを背負って靴下を履いて、君に話しかけました。
君は、仕事に出る回数が減ったようでした。外に出るのが恐ろしいのでしょう。あの男が怖いのでしょう。それでも、稼がなければならないので。重い心身を引き摺って、泣き喚く子どもを叱りつけて、仕事に行くのです。僕と同じです。
自殺を邪魔された君は、布団の上で小さくなって頭から毛布を被って、それでも視界を遮るのは嫌なようで、両目だけは外界と接したまま、空襲をやり過ごすかのように縮んでいます。
僕の声には応えません。
無視をして、僕の存在すらなかったことにするのです。何もかもが敵影なのです。区別がつかないのです。
「君はいくつなんですか」
同じ部屋で生きて数ヶ月が経つというのに、君のことを何も知りません。正確な名前も、苗字の書き方すら分からないのです。けれどここに来て、僕の壊れた口はやっとそう問いました。
嘲笑するために。
あの雪の日、君は制服を着ていました。おそらくは高校生です。留年などをしていれば違うでしょうが、最高で同い年、ともすれば二つ年下です。
「僕はまだ十八なんです。あと一年とひと月」
解放されるまでの刑期です。
「長い、ですね」
もしかしたら、君のほうが長いのかも知れませんけれど。
君は布団にくるまったまま、何も言い返しません。聞こえているのかすら分からないのです。警戒心の壊れていた君は、とうとうその精神すら完全に崩壊させてしまったのでしょうか。
自殺と労働と停滞しかしない人形のようでした。さながらあの早朝のようです。
君も僕も逃げられません。死に逃げることも許しません。
「ねえ」
――可哀想に。
「うーわ、生きてる?」
事務所に入ると、珍しく店長が居ました。お疲れ様です、と言った僕の言葉も聞かずに、開口一番そんな感想を述べます。
「見ての通りです」
「外見通りならゾンビなんだけど。きょう休みなよ。やばいって」
「人、足りないでしょう。それに金がないと困るので、働かせてください。大丈夫なので」
「本当に? お前他所でも働いてるってことだけどちょっと減らしなよ……」
「店長はどうされたんですか」
ロッカーにカバンを押し込み、制服に着替えながら話題を逸らします。ここで働き始めて一年ほど経ちますが、店長のスーツ姿を初めて見ました。普段はラフなTシャツにジーンズです。
「なんか本部に呼び出されてさあ。怖いから急いで準備したら早く着いちゃって。ここで時間潰してる。本部までめっちゃ近いのここ」
「そうですか」
「反応薄い! ていうか身体も薄いっていうかアバラ見えてるし……やだこわい……」
店長の嵩のある話し声は、疲労の溜まった頭に痛みを誘います。無視していると事務所の扉が開きました。入ってきたのは彼です。
「お疲れ様です。あれ、店長じゃないですか」
「おうお疲れ! 店長だよ!」
店長の相手は彼に任せて、少し早いですがカウンターに出ます。先にいたのは磯崎さんでした。ほとんど話したことのない磯崎さんさえ、僕の顔を見てぎょっとします。
「うわ、大丈夫かそれ」
「問題ないです」
きょうの僕は、そんなに酷い顔をしているのでしょうか。
眩暈も頭痛も倦怠感も、いつもあるものです。確かに最近はそれに拍車がかかってはいますが、こんなに周囲に反応されるほど、酷いとは思えないのですが。
「うっわあ」
引き継ぎを終えて磯崎さんと入れ替わりに事務所から出てきた彼でさえ、見たことのない表情で聞いたことのない声を出しました。
「……黙ってください」
「いやでもそれさあ……」
「散々言われました」
ため息を吐くと、普段から僕を心配する心根の綺麗な彼は困ったように微笑んで、それ以上の言及をしませんでした。
「母親、喜んでたよ」
突然言われたので理解が追いつきません。
「タッパー、こないだ返してくれたじゃん、美味しかったって。あの人料理が趣味でさ。味見させられすぎて家族はみんな反応しないから、褒められて嬉しかったんだって」
「……そうですか」
それ以上を言えませんでした。
確かに、あの日もらった煮物は美味しかった。本当に美味しかったのです。ただ、一口しか食べられず残りはすべて君にあげたことは、彼には話せていません。
あの料理には、害意も嫌味もありませんでした。ひどく美しく、清廉で、だから僕には毒だったのです。人間には薬となるはずの優しささえ、化け物の僕には毒になり得るのでした。彼は日常的にあれを摂取していると思うと、もはや理解の範疇を超えた生き物のように思えました。
僕にはあまりにも。
彼が遠いのです。
カウンターの少し離れた場所で、また遠い国の逸話が紡がれます。相変わらず、寄り付きもしない温かい話です。普段はほとんど何も思わずに聞けるそれらも、疲労のせいでしょうか、やけに胸にせまりました。僕の世界にはない感情。彼の世界にはない感情。
温かいものと熱く凍てつくもの。
「……う」
それまでゆるく回っていた視界が、突如ぐるぐると速度を持って回り始め、視界がモノクロに映ります。脳から血の気が引くようにこめかみが冷えて、並行感覚を失った僕はその場に両膝と手を付きました。
「うわ、どしたの!」
彼の声が降って来ますが、声を出すために口を開いたら、あらぬもののほうが先に出てきてしまいそうでした。胃の中には何もありませんが、胃液くらいは出るでしょう。口を押さえて目を閉じてやり過ごすと、五分ほどで元の視界に戻りました。
「すみません、もう大丈夫です」
立ち上がるとふらついて、カウンターに腰をぶつけます。
「いやフラフラじゃん。事務所行こう」
彼は僕の上腕を持って、半ば引き摺るようにして歩かせました。血が通っていないかのように、脚が冷えてあまり力が入りません。事務所の椅子を並べて、そこに僕を寝かせました。
視界いっぱいに広がる天井は、未だにゆるゆると回転しています。
「店長いないね。もう出たのかな。あれ、でもカバンある」
「……すみません」
「良いって。とりあえず休みなよ。きょうはお客さんも少ないし」
「すみません」
「謝んなくて良いよ。体調悪いときなんて誰にだってあるんだからさ」
彼はそう言いましたが、他に言葉が思いつかず、僕はまた謝りました。
体調を崩しているときに優しくされた経験はありません。あの人はいつも、僕が不調を訴えると機嫌を悪くし、お前が悪い、自己管理ができていない、と詰ったのです。やはり弱っているのでしょうか、いつのものかも判然としない記憶が脳裏に流れて行きます。
視界が回ります。空のままの胃が不快感を増加させます。
「しばらく寝てなよ。店は大丈夫だから」
客が店員を呼ぶ声がして、彼は出て行きました。たった一人の事務所、遠くに聞こえる接客の声。ああ、仕事をしなければ。働かなければ。このまま帰ってしまっては金銭の計算が狂うのです。僕は生きるために、金が必要なのです。
可能なら大学を卒業するまで。
せめて二十歳まで。
あの人の支配下に戻らないで済むだけの時間が必要なのです。
できると思っていました。金を稼いで、学費と生活費を賄って、やっていけると思っていました。やってやるとさえ思っていました。自棄のような意地がありました。けれどいま、口座の金は尽きかけ、学費になるはずだった奨学金は消え、逃亡の終わりはもう、目の前に迫っているのです。
気持ち悪く動く天井を眺めながら、半ば諦めのうちに考えます。
どうすればいいのか。
このまま生活費を賄えず家賃を払えなくなったなら、あの人は僕を家に戻すでしょう。そうして適当なところで働かせ、ずっと金銭を吸い取って行くのでしょう。そうなれば抜け出せる術などありません。
大学に行かせてくれと頭を下げ、詰られ殴られ、必死に働いて得たはずの生活は、これまでの時間は、すべて無駄だったことになるのです。
このままあの人に絡め取られるくらいなら。
事務所には誰もいません。カウンターからは、彼の接客の声が聞こえます。事務所はロッカーも兼ねているので、防犯カメラはないはずです。机の上には、店長のカバンが無防備に置かれています。高価そうなビジネスバッグでした。
このままあの人に支配されるくらいなら。
刑務所も悪くないな、と思いました。
罪を犯して刑務所に入れば、衣食住を確保できます。あの人のもとでなく生活ができるのです。前科がついてしまえば、良い企業に就職しろ、というあの人の希望も潰えるでしょう。
万一発覚しなければ、金銭が手に入ります。ひとまずの生活は出来るかもしれません。
最低な考えだという自覚はあります。けれどもうこれしか、道はないように思いました。逃亡の先の逃亡には、もうこの道しかないのです。
周囲に気を張りつつ、ゆっくりと起き上がります。音を立てないよう細心の注意を払って、店長のカバンのファスナーを開けます。いくつかの書類やファイルの中に長財布がありました。
指先を使って、慎重に、財布を抜きます。このままを持って行ってしまっては困るでしょう。またゆっくりと音を立てないように、財布を開けます。
心臓の鼓動が大きくなって、浅い息しかできません。それなのに呼吸の音は段々と五月蝿さを増しています。これが罪悪感なのでしょう。弁解の余地なく、悪しきことをしている、という自覚はこれ以上ないほどありました。これを一生背負っていくのだという、予感めいた確信がありました。
財布には紙幣が数枚入っていました。万札だけを選び取って、財布をバッグに押し込みます。
「なにやってんの」
いつになく硬い、震えた声でした。
振り返ると彼が立ち尽くしていました。初めて見る、眩しくはない表情でした。まるで立場が逆転でもしているかのように、僕よりも彼の顔のほうが歪んでいるように思えました。
僕の片腕は未だ店長のカバンに入っていて、他方の手に握った万札は隠されてもいません。視界が容赦なく回ります。不摂生の結果でしょうか、それともこの状況の精神的負荷からでしょうか。どちらも同じ意味のように思えました。
何も言わずにいると、呆然と、彼が呟きました。
「なんで」
なんで。
その言葉に、僕は決して渡ることのできない断絶を見たのです。彼には分からないでしょう。どうしてこんなことをするのか。息をしているだけで生活が成り立つ彼には分からないでしょう。生活を営むということの厳しさも、この寒さも、きっと彼は一生知らないのです。
言い訳にしかなりませんが、ひとつだけ、言わせて貰えるのなら。
彼のように生きられたなら、こんな風にはならなかった自信が、僕にはあるのです。
家があり、生活に必要な金があり、食事があり、頼れる家族がいて、暴力ではなく温かい食事を与えられ、帰りたいと思える場所があったなら、こんなことはしていないのです。
それは傲慢でしょうか。甘えなのでしょうか。
もしも彼が僕と同じ生活を強いられ、同じ状況に陥ったなら、どうするのでしょうか。優美に微笑んでいられるのでしょうか。
この惨めな感情を共有できないことこそ、僕と彼の溝なのです。
彼は普段の清廉や優美とは程遠い、悲しそうな、責めるような視線で僕を捉えました。
どんな叱責の言葉が、高みからの説教が降ってくるのかと思いました。
けれど彼は言ったのです。僕の矮小な想像を悠々と超えて。
「なんで、言ってくれねえの」
出された言葉に責めるような響きはありませんでした。それどころかこちらを気遣うような声音にさえ感じられました。
彼の言動はいつも、僕には理解ができないのです。
ゆっくりと近づいてきた彼は僕の手から金銭を取り上げ、店長の財布に戻します。そして自分のロッカーを開けて。何をしているのか分かりません。携帯を出して通報でもするのでしょうか。それは幸いのように思われました。この行為の本懐なのです。
けれど彼の手が取ったのは、携帯ではなく財布でした。
ちょっと待って、と言い置いて、事務所から出て行きます。戻ってきた彼の手にあったのは、紙幣でした。それを差し出して。
「はい」
「なにを」
「困ってるんだろ」
いつかタッパーを差し出されたときのように、やはり彼の行動の意図がつかめず、僕は受け取れませんでした。これを受け取ったなら、今度こそ僕は、どうにかなるのでしょうか。
頑なに手を出さない僕を見てもなお、その紙幣を引っ込めません。
今度は僕が問う番でした。
「なんで」
「遊んで金がなくて、人のものを盗るような奴だったら、俺だってこんなことせずに警察に通報してるよ。でもそうじゃないだろ」
まるで教祖にでもなったようでした。彼は僕を信じ過ぎているのです。
先ほど、仕方のないことだ、これしか道はない、と確信したものが、ほろほろと崩壊していくのを感じました。違うのです。僕のせいなのです。僕が悪いのです。生い立ちのせいにした僕が劣悪なのです。それを彼に肯定して貰わなければ、僕は自分の世界を保っていられなくなるのです。
動けずにいると彼は僕の手を取りました。自分とは差のある他人の体温に驚く暇もないほど素早く、金銭を握らせます。
何も言えず首を横に振りまいた。触ることさえ尊大に思えて手を握れなくて、彼の金銭を床に落としました。彼は無言で拾い、また握らせます。
「いいから、本当に。おれが受け取って欲しいだけだ」
彼は、一体どういった生き物なのでしょう。
「きょうはもう帰りなよ。店長には伝えておくから」
人間ではないようにすら思えました。それより高次元の何かに思えました。その証左のように、いつもの優美な微笑みを湛えてこう言いました。
「明日、電話して。困ってるなら一緒に考えるよ」
握った手の力を緩められたのは、部屋に帰り着いてからでした。玄関扉にもたれ掛かって、ゆっくりと、手を開きます。彼から手渡された金銭があります。
今まで手にしたどれよりも、神々しい金銭に見えました。
同時にひどく惨めでした。
そして重たい絶望感がありました。
部屋の奥に進むと、君が今朝のまま生きていました。いつもは帰らない時間に帰宅したことすら疑問にせず、ただ虚空を見つめています。いつものように可哀想にと思いましたけれど、今は嘲りよりずっと、君の哀れさが身に迫るのです。君も僕と同じ末路を辿るのですから。
「ねえ、君にも見えますか」
目の前にしゃがみこんでも、やはり大した反応をしません。君の壊れた警戒心に、僕の壊れた口が語りかけます。自分の声は、震えているようにも思えました。
「もうすぐ終わりですよ」
彼にもらった金銭は、けれど、何の解決にもならないのです。生活の足しにはなるでしょう。今月の家賃はこれで払えるはずです。寿命は伸びました、けれど短命であることに代わりはないのです。
君もこのままではいられないでしょう。あの男に連れ去られるのが先か、あの男のせいで精神を壊すのが先か、自ら生命を絶つのが先か。
時間が止まればいいのでしょう、そんな奇跡は起きないけれど。
すべては時間の問題であり、遅いか早いかの違いに過ぎません。
僕にも君にも、変わらず、致命的な終わりがすぐそこまで迫っているのです。
君と僕の逃亡は、終わりです。
「ねえ君、どうしますか」
反応はありません。答えが欲しいわけでもないのでした。
壊れた口が、機械のように動きます。
手の内には、先ほど味わった彼との広大な差異が抱えきれないほどあります。
「ここで死にますか。戻されるくらいならそれが良いですか。いっそ一緒に死にましょうか。世間は僕たちを情死と言うでしょうか。絶対的に違うけれど、死んだらそんなことどうでも良いですよね。……君はまだ、自分を殺すことを考えているんですか。もう好かれることなんてないのに、まだそんなことをするんですか。もう誰も許してくれないのに、自分を痛めつけて、損ねて、責めて。死のうと思ってなお、そんなことに執心するんですか。ねえ、知っているでしょう。もうなにをしても、平和な世界なんてここには来ないんです。仕方がないじゃないですか。僕たちは人間になんてなれないどころか化け物から生まれた化け物で、精神には生霊が住んでいて、他人に触れなくて、会話すらできなくて、なにもあげられなくて、なにも受け取れなくて、君と僕のような、こんな、感情の共有のない会話すら成り立たないような関係しか、結べなくなったんですから。期待して期待して、諦めたふりをしてそれでもまだ期待を捨てられなくて、待ちくたびれて疲れて、一歩も歩けなくなって、這ってたどり着いたのがこの部屋で。初めからなにもなかったはずなのに、損ない続けてさらになにもなくなって。もうここからはどこにも行けませんよ。ねえどうしますか」
君の野良猫の瞳が、静かに僕を見ています。
その首には、今朝ついたロープの細い跡があります。
「自分を殺しますか。こんなところまで来てやっと出した結論がそれですか。それなら今まで過ごした時間はなんだったんですか。殴られ詰られ捨てられ犯された時間はただそれだけのための時間で、無駄に過ごしただけのことなんですか。ねえ、違うでしょう。殺すべきは自分ではないでしょう。僕でも君でもないでしょう。ねえ、ここまで来たのに、ねえ」
ねえ。
「死ぬべきは、他にいるでしょう」
声に出すと同時に、気がつきました。たった一つの別の道。
刑務所に入るのなら別に、窃盗でなくてもいいのです。
そしてついでに消せるものがあるのなら、それほど素敵なことはないでしょう。
刑務所から出た世界は、あの人のいない世界。やり直すのにそれほどいい環境はありません。
応えない君を放って、僕は部屋を出ました。
実家の扉を開けようとしてやっと、まだ彼にもらった金銭を握り締めていたことに気がつきました。くしゃくしゃになってしまったそれをカバンに押し込んで、木製の引き戸に手をかけます。すんなり開きました。鍵が掛かっていないということは、あの人はいるはずです。
一人暮らしを始めてから一度も訪れていない、十八年間暮らした家というものですが、懐かしさはありません。家屋の所々に記憶がぶら下がっていて、それが視界に入る度にフラッシュバックとして目の前に現れます。目を閉じてやり過ごして、上がり框に足を掛けます。
「呼んでないけど」
あの人は居間にいました。醜い図体を伸ばして寛いでいます。
「僕の金、返してくれませんか」
あの人は一瞬ぽかんとして、つぎに笑いました。ここには僕とこの人しかいません。繕う必要のない笑みは、よく知った醜悪なものでした。
僕の母親の笑い方でした。
「なに言ってんの? あたしのだから。あんた育てるのにいくらかかったと思ってんの」
変わりません。このままでは何も変わらないのです。
僕は台所に回り、包丁を持ち出します。長年使われた形跡のない、錆びかかった汚い包丁でした。居間に戻ると、僕の手にあるものを見て、あの人は驚いたようでした。それでもまだ僕を侮っているのか、これまでの十九年抵抗しなかった僕の不甲斐なさを信仰しているのか、やはり嘲るように醜悪に笑いました。
「なに、どうする気なの」
この人がいなくなれば、人生はいくらか生きやすいでしょう。金銭を毟り取られることはなく、会う度に土足で布団に倒れこむ必要もありません。
その代償が刑罰なら、それはとても安い買い物のように思われました。
包丁を振り上げるとさすがに防衛本能が働いたのか、母親は立ち上がり逃げようとしました。振り下ろした刃が空を切ったので追い立てて、居間の隅に来たところで足払いをかけて転ばせました。畳に倒れ込むと、質量に応えた、鈍い音がしました。
逃げていた背中が反転して僕の方を振り向き、母親は壁を背に座り込む形になりました。
ひどく重い既視感を覚えました。
幼い頃ここでよく殴られたのです。台所でも居間でも、この人の独擅場は部屋の隅なのでした。僕を逃げられないよう追い込んで、その前に女王のように仁王立ちをして、暴行を加えるのが常でした。
今、立ち位置は逆転しています。醜悪な笑みが溢れそうになります。
ふと悪戯心に火がついて、包丁を下ろしました。露骨にホッとした表情をした母親に、一つ、蹴りを入れます。顔は目立つでしょう、脚も露出されます。腹を狙いました。脂肪で固められた体は、大きなタイヤを蹴ったかのような感触があり、ともすればこちらの足が壊れてしまうように思いました。腹を蹴られた当人は無様に呻き、咳き込みます。
ねえ、どうしてでしょうか。
なにひとつ溜飲が下がらないのです。全然楽しくも、気持ちよくもないのです。
ああもういいやと一気に興ざめて、高く、包丁を振り上げました。
母親の表情は、見たことがないほど哀れに歪んでいました。情けなく、笑いすら洩れません。いつか見たいと願っていた表情が目の前にあるのに、なにも感じませんでした。ただ感じたのは、冷静な熱、それと希望でした。
僕は、明日を生きるためにこの人を殺すのです。
胸には希望がありました。昏く重たいなにかの感情もあるように思われました。
例えなにを失おうとも、こうすればまだ明日を生きられるのです。
なにもない世界ですけれど、僕を冷遇した世界ですけれど、それでもまだ。
明日を。
振り下ろす瞬間。僕は。
――明日、電話して。
彼の清廉で優美な笑顔を見ました。
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