最終話 死に損ないたちへ
煙草を吸わなくなったのはいつからだろう。
いつか切らしたときからそのままで、何度か買おうかとも思ったけれど長いあいだ買わなくて、ライターは捨てたし灰皿はどこかへやってしまった。
あんなに吸っていたのに、もう必要がなくなったみたいだ。
今はもう吸おうとも思わない。そんなことにお金を使いたくないし、なにより婚約者は気管支が弱い。おれのいないところなら吸っても構わないよと言うけれど、共にいるなら、損なわずいたいからもう吸うつもりはない。
婚約者ができたから、離婚届を出した。
そう言ったなら何人が、正しくこの状況を理解してくれるだろう。浮気をしたわけではない。浮気には当たらない。そういう契約だった。私とあいつの間には感情ではなく利害が一番大きく鎮座していて、片方が求めればすぐに解消できる取り決めだった。
あのアパートを抜け出して、私とあいつは結婚した。感情なんて欠片もなく、ただ必要に迫られて。たくさんの書類をさばくとき、部屋を借りるとき、就職をするとき。なにをするにしても「家族」の存在が必要だったから。ひとりではあまりにも、生きづらい仕組みだったから。
私は
未成年だったから婚姻届は多少悪さをしたけれど、結局ばれずに五年が経つ。
「ただいま」
やっと言えるようになった人間の言葉を口にしながら、宮西とふたりで住んでいる部屋に戻る。最初に住んだところと同じくらいの狭さのワンルーム。お金がないから仕方ないけれど、途中からはダンボールで仕切りを作って無理やり二部屋にした。
お帰りなさい、とまだ慣れない口調で言いながらやって来た宮西は、両手に大きなゴミ袋を持っている。私が退くのを待ってどさりと靴置き場に置いた。
「どうでしたか」
「問題なく受理された。これで私もあんたも晴れてバツイチよ」
「そうですか。どうでもいいですね。君がどうかは知りませんけど」
「別にどうでもいい。彼はちゃんと理解してくれてるし」
「僕はいまだに、君の男を見る目が正しいのか分からないのですが」
出会ったころよりずっと喋るようになった宮西は、その丁寧な口調とは裏腹に度々失礼なことを言う。きっと自覚はあって、たまに後悔もしているようだからなにも言わないけど。
「朝比奈。要るものだけはちゃんと持って行ってくださいよ。なにを置いていっても捨てますから」
宮西が朝比奈と呼ぶのは、別に離婚して苗字が戻ったからではない。私が宮西だったときからこいつは私を朝比奈と呼ぶ。お互いに名前を知ったのは最初のアパートを出たあと、出会って一年ほど経ったころという、いま思うと有り得ないタイミングだけれど、そのときからずっとこの呼び方だ。私もそう。
下の名前で呼び合うような仲じゃない。
なによりその距離に安心した。友人でも恋人でも家族でもないその関係には安心感があった。いまなら分かる。私たちには、家族や友人より、他人のほうがずっと近いのだ。
「分かってる。さすがに荷造りは終わってるわよ。あとはゴミをまとめるだけ」
「前日になってゴミをまとめるなよ」
「あんただっていまゴミ捨ててるじゃない」
「僕はまだ猶予があるので」
こんな軽口を叩けるようになったのはここ一年ほどのことだ。親交を深めたと言えばそうなのかも知れないが、この生活ももう終わりなのでこれ以上深まることはない。
明日、私はこの部屋を出て行く。
ここを出て、婚約者と暮らすのだ。
「あんた、生きていけるの」
「君に心配されるとは思いませんでした」
電気を消した部屋。ダンボールで仕切った向こうでは、宮西が私と同じように布団にくるまって寝ているのだろう。すこし灯りが漏れているから、電気スタンドをつけて本でも読んでいるようだ。最近知ったことだけれど、こいつは案外読書が好きらしい。手続きもせず逃げるように中退したみたいだけれど、順当に行っていれば大卒だったんだし。少なくとも私よりは随分頭が良くて、勉強も好きみたいだ。理解できない。私は本や勉強は嫌いだし、学校も大嫌いだった。
一年近くあのアパートで生きて、それから五年ここで暮らしているけれど、人間らしい生活が形を得てきたのは最近のことで、宮西と共有したことは少ない。こいつのことよりも二年前に出会った婚約者のことのほうをよく知っているくらいだ。
「あんたひとりになるじゃない」
「まあそうですね。でも大丈夫でしょう。学生のときとは違うので。そもそも君とこうして暮らしていること自体、おかしかったんですよ」
「そうだけど。ね、無理だったら頼っていいよ」
仕切りの向こうで嘲るような笑い声がした。こういうところは本当に変わらない。だからいつまで経っても、六年同じ部屋で生きたって、こいつのことは嫌いなんだ。
「そういうセリフは、自分の世話ができるようになってから言ってください」
「……進歩はしたけど」
「一人前って言葉を知っていますか」
「あーもううるさい!」
「そっちから話かけて来たんでしょう」
イラついた声が返る。
確かに私は、まだ一人前とは言えない。なにがというと、生活が。人間的な生活が。宮西と注意しあっていないとすぐに生活も部屋も荒れる。食事は取らなくなるし、おはようとかおやすみとか言うのもまだ慣れない。フライパンに殴る以外の用途があることを知識の上ではなく実感として知ったのは半年前だ。冬には重ねた布団がとても暖かいこと、夏にはクーラーをつけて涼んでも構わないこと、お風呂に水ではなくお湯を張るのは贅沢ではないこと、それらもこの五年で知った。常識とか物の名前とか感情とか、知らないことはきっとまだたくさんあるんだと思う。まだまだ、一人前にはなれない。だけれど。
曲りなりとはいえ六年も一緒に生きたやつの心配くらいはしても良いと思う。
いつもなら、こうして喧嘩になったらどちらともなく黙る。こじれては戻せる自信がお互いにないから。壊れたものの直し方は知らないし、直るとも思ってないから。ただ私は明日出て行くから、少しくらいは怒らせても良いだろう。ここで壊れるのも明日壊れるのも多分一緒だ。
だけど再び声を掛けようとしたら、先に仕切りの向こうから飛んでくる。
「無理だったら、戻って来てもいいですよ」
「……なに、やっぱ寂しいの」
「そんなわけあるか。朝比奈の男を見る目が信じられないって話ですよ。繰り返すって言うでしょう、こういうことは」
「うーん、いい人選べたと思うんだけどな。本当に好きよ?」
私だって気楽に婚約なんてしない。彼に婚約を申し込まれたときは怖くて怖くて泣いてしまった。それからずっと考えて、半年も待たせてやっとOKの返事ができた。正直に言うと今でも怖い。感情の絡まる結婚とか、その先のこととか。未来が怖いのは生まれてこのかただけれど。
「主観じゃ分からないものです。こんなはずじゃなかったって思うことはいつになってもあるでしょう」
「私中卒だから難しいことわかんなーい」
「大検通ったろうが」
「それ言うのやめていまだに悪夢見るから」
ふふ、と笑いが漏れる。こいつとの生活は始めたときこそ最悪で、暮らしと言えるようなものではなかった。お互いにお互いを利用するために近くにいただけで、大事にしようとか、保って行こうなんて少しも考えていなかった。それでも段々こうして血が通ってきたのだ。いまでは二人とも、少しは穏やかになれた。まだまだ分からないことも多いけれど、癇癪だって起こすけれど、まあこれからだよね、と思えるようになったのもこの生活があったからだと思う。
絶対に言ってやらないけど。
宮西は案外世話好きらしい。いや、世話好きになった、のかな。
たまにぽつりぽつりと話すようになった、以前のアルバイト先で出会った友人の影響かも知れない。
「無理だと思ったら連絡して来ても良いですよ。電話番号は変えないので」
「うん」
連絡する予定はまったくないけれど、頭の隅くらいには入れておこう。
おやすみ、と言った。おやすみなさいと返って、ダンボール越しの灯りが消えた。
翌朝目を覚ますと、宮西はもう着替えてまた本を読んでいた。ダンボールの仕切り越しに見つめても気がつかない。こいつはこの五年間で少しは気遣いみたいなものを覚えて、私が寝ている間は極力音を立てないようにしているみたいだ。
台所に目を向けると朝食を食べたあとがある。しかし私の分はない。いつものことだ。私も余り物を押し付けたことはあっても、こいつの食事を自主的に用意したことはない。
家族ではないのだなあと思った。書類上は家族というものをしていたけれど、その間だっていまだって、宮西を家族だと思ったことはなかった。恋人だとも友人だとも思ったことはない。まあ家族って今でもよく分かっていないんだけれど。ではなにかと問われればなんだろうか。
同士、というのが一番近いかも知れない。ただそれよりずっと冷たいものだ。
温度も感情もない。だけど近かった。
「おはよ」
声を掛けるとこちらを向いた。できる限り挨拶というものをしてみようと提案したのは三年前、私からだった。
「おはようございます。良いんですか、時間。迎えに来るんでしょう」
「ううん、やばい」
彼が迎えに来る時刻まであと一時間もなかった。荷造りはしているしゴミは昨夜のうちにこっそり出した。あとは身支度を整えるだけだ。
宮西から見えないように、寝巻きから着替える。昔はわざと見えるように着替えていた。
「ねえ、覚えてる? 私があんたの目の前で着替えてたこと」
「不快極まりなかったので覚えてますよ」
「私ね、あんたに手を出して欲しかったの」
「……」
「いや違うな。なにもして欲しくなかった。けどするだろうなって思ってた。男ってそういうものだって。仕方ないんだって思いたかった。でもあんたは、最後まで私になにもしなかった。私の欲することも欲しないことも、なにもしなかった。ほんの少し信用できたわ」
「興味がなかっただけですよ」
「たった一人を少しでも信じられたら、そこから生きていけるのよ」
分かったような口をきいてみた。だけどこれは本当だと思う。たった一人を信じられたら、その経験を足がかりにして歩いていけるのだ。
宮西は言った。ダンボールに阻まれて、表情は見えない。見なくて良いと思った。私とこいつはそんなところまで踏み込めるほど、親しいわけではないから。けれどなんとなく、共通言語もあると思うのだ。
「知ってます。僕も、そうでしたから」
「私、感謝なんてしない」
「当然です。その代わり恨まないでくださいよ。この道を選んだのは君で、僕が選ばせたわけじゃない。先になにがあるかなんて僕には保証ができませんから。あのとき僕に自殺を邪魔されなかったら、あのとき僕についてこなかったら、なんて、思われても困ります」
「あんた、よく喋るようになったわ」
「声を」
躊躇うような間があって。
「声を、出せなかっただけなんですよ。怖くて。言いたいことはたくさんあったんです」
「私もよ、怖くて」
控えめの化粧をして身支度を整えたら、彼が迎えに来る時間になってしまった。携帯に連絡が入る。トランクを持って玄関に向かっていたら、普段絶対に見送りなんてしない宮西がついてきた。短くて狭い廊下を並んで歩くのを振り返ったら、不本意そうに眉を顰めて、さいごですから、と呟いた。
靴を履いて振り返る。私はこの部屋を出て行く。宮西と生きた六年間を終えて、自分の選んだ相手と生きていく。
さいごですから、と宮西は言った。そう、最後なのだ。きっともうこいつと会うことはない。友人ですらないのだから、別れれば二度と会わないのは普通だろう。
最後だから。
言いたいことは言っておく。
「アパートを出たあの日、あんたがどうして泣いてたのか分からなかった。経緯を聞いても意味不明だったわ。馬鹿みたいって思った。親の手を離すだけのことで泣くなんて」
そんなことは、私は十八の冬にやってのけた。家を出て親を捨てて死のうとした。こいつに邪魔をされたけど。そのときさえ私は泣かなかった。悲しくなんてなかった。むしろ清々しいと思った。
達成感と開放感でいっぱいだった。
でもこいつは、親を捨てたから泣いたのではなかったのだ。それを私が思い知ったのは半年前。彼と婚約をして、ここを出て行くのを考えたとき。自分の選んだ人と暮らすことを考えられたとき、私も泣いた。
この道で生きていくことを決めたとき。名前も過去も精神も変わらないけれど。
生まれ直せたような気がしたのだ。
「あんたも、生まれたときには泣くのね」
宮西はなにも言わない。肯定も否定もしない。こいつ自身、まだ分かっていないのかも知れない。私たちは、自分のことさえ、よく理解できない生き物だから。
「ねえ、彼にはまだ連絡してあげないの」
「彼って誰です」
「あんたの元バイト先の友人。何度も電話がかかって来てるでしょ、取ってるところ見たことないけど」
「……時間でしょう」
誤魔化された。
そう。彼が待っている。私はこいつと離れて別の道を行くのだから、もう関係ない。
玄関を開けてトランクを出す。背後で宮西が言った。
「せっかく死に損なったんだから」
出会って初めての、優しい言葉だった。
「どうか幸せに」
「あんたも幸せになんなさい。せめてそうあろうとしなさいよ。せっかく、死に損なったんだから」
ちょっと上からの物言いだったか。まあ良い。先に幸せに手を伸ばしたのは私だから、私のほうが先輩だ。宮西が笑っている気がする。よくよく見ても無表情だけれど、多分笑っている。
玄関の扉を締めようとしたら宮西がぽつりと呟いた。聞かせるつもりはなかったのかも知れない。そう思うほど微かな声だった。
「人間にはなれましたか」
「そうあろうとし続けることでしか、人間でいられないわよ、私たちは」
扉を締めた。トランクを引いて歩き出す。もう会うことはない。
だけどきっと私も宮西も、お互いのことを忘れないだろう。
私は幸せになれるだろうか。なるつもりはあるけれど、なれるのかな。まあいいや。
死に損なった。いくらそうあろうとしても、染み付いた色が消えることはないように、人間になんてきっとなれない。そうあろうとし続けるしかない。
私もあいつも。
生き続けるしかない。
宮西はきょうにでも電話をかけるだろう。確証はないけれどそう思った。
幸せになんなさい。
私はもう一度、あいつにそう贈った。
紫煙と白雪 成東志樹 @naly_to_shiki
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