暴いた秘密は檻になる

悠井すみれ

火葬場にて

 喪服姿の女は美しい、というのは嘘だな、と思う。黒と悲嘆は男の色気だって惹き立てる。黒を纏って青褪めた顔色の佑希ゆうきは、匂い立つように艶っぽかった。


「この度は──大丈夫か、佑希」

涼介りょうすけ。……ありがとう、わざわざ」


 下世話な感想は、沈痛な口調の定型文で覆い隠す。それなりに人生経験を重ねた俺の面の皮は厚く、佑希は何も気付かずちらりと笑んだ。

 佑希の父は長く定職に就いていなかった。父子家庭で、さらに親戚付き合いも絶えて久しいのだとか。家族葬とは名ばかり、納棺して火葬場に直行するだけの見送りに、参列者がひとりでも現れるのは嬉しいのだろうか。あんな父親でも?


 胸を灼いた苛立ちは無視して、俺は佑希の肩に手を置いた。


「俺とお前だろ。うちの患者さんでもあったし。医者が言うのもなんだが、ぽっくり、だろう? まあ……寿命、ってやつだろう」


 佑希の父親は、脳出血で運び込まれ、いったん退院してリハビリを始めたところで再発、今度は助からなかった。下手に助かって介護で疲弊するよりはよほどマシ──とは口に出しては言えないが、佑希も頭の片隅で考えはしただろう。眉を下げながらも、弱々しくも微笑み、小さく頷いた。


秋津あきつさんには良くしてもらって……。我が儘で厄介な親爺、だったろう?」

「いや、可愛いもんだったよ。もっと強烈な患者はいくらでもいる」


 佑希が口にしたのは俺の姓、かつ、地元では知られた病院として親しまれた名だ。

 つまりは年寄りの溜まり場だし、同級生の家庭の事情ってやつも嫌というほど垣間見ている。慰めではなく、万感を込めて呟くと、俺は目で出よう、と合図した。佑希はほんらいは喪主の立場だが、火葬場の待合室は閑散として、相手すべき参列者はほかにいない。

 ふたりきり、人目につかない場所で話をしても何ら問題はないはずだった。




 建物の裏手の駐車場は閑散としていた。人気ひとけがない代わり、式場の名を車体にプリントした送迎バスがずらりと並んでいる。今日焼くのは佑希の父親だけだとか。実に都合が良い。


 ライターから火花が散る。紫煙がほの白く曇天に立ち上る。上空で、佑希の父を焼く煙と混ざったりもするのだろうか。

 葬儀の場でするのは、故人の話だと相場が決まっている。


「親父さん、何かっちゃ孝行息子だって言ってたぞ」

「そう、なんだ……?」

「よく世話してくれるって。昔から何もかも家事をやってくれて、って」

「まあ……うちは母親が、いなかったから」


 血の気のない顔でぼそぼそと答える佑希は、呼び出された理由を判じかねているようだった。顔だけでなく手も白いのや、細い顎や薄い唇は母親譲りだ。それを知っているくらいには付き合いは長いが、年を重ねるごとに自然と会う機会は減っていっていた。


 声をかけて話し込むほど、それほど案じられるような関係の深さではなかったのに、と訝っているのだろうか。──それとも、不安に怯えている?


 煙草を吸わない佑希は、自販機のコーヒーのカップを握りしめている。そのぬくもりに縋ろうとするかのように。爪まで白くなった指先が微かに震える様は、どうも俺の嗜虐心を煽る。


 仔兎を追い詰める狼の気分で、俺はゆっくりと牙を剥いた。


「食事とかも、好みに気を付けてくれて──酒も、呑ませてやったんだって? 我慢ばっかじゃ辛いだろうから特別に、って?」


 目を見開いて頬を強張らせた佑希の顔も、良かった。やや色素の薄い目が俺だけを見ているのも愉しくて。目を細めながら、浮かれたように続ける。


「看護師に言うと怒られるから先生との秘密、って──なんで俺は怒らないと思うんだよって話だよな」


 男は呑むもの、分かるだろ……みたいな偏見を持ってそうな爺ではあった。それとも、下衆のよしみで俺の内心を見透かしていたか。通院の時に、付き添いの佑希を追って動く俺の視線に気付いてひけらかすことにした、とか? 佑希との、特別な関係を。そのほうがありそうでは、ある。


「涼介」


 知らなかったとは言わせない。飲酒後の血流や血圧の変化。リスクの上昇。家族みんなで治してきましょうね──食事制限について説明したのはこの俺だ。


「昔から酒好きだったんだってな。頼み込まれて気の毒になったか? 機嫌を取るためってこともあるか。──それとも」


 思わせぶりに言葉を切ると、コーヒーのカップが大きく揺れて、黒い飛沫がこぼれる。喪服で良かったのか、レンタルだったら面倒になるのかもしれない。まあ、そんなことはどうでも良くて。


「死んでほしいと思ったのか」

「俺、は」


 佑希の手から、コーヒーのカップが滑り落ちる。服を汚されるのを避けて、俺は一歩退いた。その間も、目は佑希から離さない。


 ああ、やっぱり良い顔だ。密かに抱えた悪意を、秘密を暴かれた、絶望の顔。


 こいつの動揺、不安、恐怖。ひとつたりとも見逃すまいと、目を凝らす。どくどくと高鳴る心臓の音さえ聞きたくて、耳を澄ませる。鼓膜を震わせるのは微かな吐息、そこに宿る緊張も堪能して。


 そうして、楽しみに待つ。佑希が、何をどう言い訳するかを。


「ごめん。俺……えっと。自首──」


 なんだ。認めちまうのか。


 失笑を隠すため、俺は短くなった煙草を口に運んだ。


 諦めが早い上に的外れなコメントだ。お前のやったことが、法で裁かれる罪になるとでも? 一〇〇パーセントの善意でお前と同じことをやるヤツだっているのに。未必の故意とさえいえるかどうか。警察だって困るだろうよ。


 これから荼毘に付されるみたいな顔色で震え始めた佑希が気の毒で、俺はにこやかに笑った。患者さんを安心させる時に纏う、爽やかな若先生の顔だ。


「落ち着けよ。責めてるんじゃない。なんでそんなことしたのか──俺は、知ってる」


 にこやかに、爽やかに。俺は佑希を甚振いたぶった。俺の目はきっと笑っていない。欲望にぎらつく目の色は、たぶんこいつには馴染みのもの。だからこそ分かっただろう。ハッタリなんかじゃなく、俺は本当にと。


 佑希は本当に色が白い。羞恥に真っ赤に染まって、それから、ざあって血の気が引く音が聞こえそうな勢いで青褪めて。心の揺れが、肌を透かしてありありと見て取れる。唇まで色を失って、酸素を求めて虚しく喘ぐ。


「うそだ……」

「本当さ」


 本当に、可哀想に。親に殺意を抱いたことよりずっとずっと、知られたくないことだったろうに。

 あの死に損ないが俺に漏らしたのは、酒のことだけじゃなかった。看護師が席を外した隙を狙って、ヤツは下卑た顔つきで囁いたものだ。得意げに、自慢げに。ひけらかした。


 


 顔色変えた俺を見て、ヤツはけたけたと耳障りな声で笑ったものだ。あんたが触れたことがない熱や滑らかさを知ってるぞ、と言いたげに。


 ちびた煙草を落とすのは、脳裏に焼き付いたムカつく汚い笑顔の上。それを思い切り踏み躙って、俺は佑希との距離を詰めた。アスファルトにこぼれたコーヒーは、もう靴を汚す心配がないくらいに広がり切っている。


「黙っててやるよ。お前が親父さんをことも。親父さんに何をされたかも」

「いつ、から。なんでっ」


 罪──と思っていること──と秘密を暴かれた佑希は、必死に俺から顔を背けようとしている。だから立木の影に追い込むのは簡単だった。いわゆる壁ドンの格好だ。木の幹についた手と腕で佑希を囲い込む。怯え引き攣った顔を捕らえることができたのが、ひどく愉しくて。柄にもなく胸が弾む。


 身体を縮こめた佑希には、俺を突き飛ばす選択肢は頭にないようだった。おどおどと俺の表情を窺っては目を逸らし、震える声で問うてくる。


「……あ、秋津先生から?」


 佑希が先生、と呼ぶのは俺の親父のことだ。


 ああ、そうだな。親父は俺らの学校の校医だったからな。明らかに性的虐待を受けてる児童が見過ごされたのは、そういうことだ。たとえ本人が泣いて頼んだって、見なかったことにするわけにはいかない。普通なら、まともな大人なら。


 でも、今の佑希の問いかけに対しては、答えはノーだ。親父は、佑希の父親よりは一応慎みがあった。


 だから俺はゆっくりと首を振る。指を伸ばして、佑希の首もとにかかった髪をそっとのける。介護を理由に休職中だと聞いている。散髪をする余裕もなかったのか。それでも指の間を流れる細い髪は滑らかで心地良い。


「──っひ」


 リンパ節を診るように首筋に触れると、佑希はさらに身体を強張らせた。くずおれそうな佑希を抱いて支えて、俺は唇でシャツの襟を掻き分け、軽く歯を立てた。


「体育の、着替えの時。痕が見えたから。その時から、ずっと」


 佑希はお袋さんにそっくりなように、俺は親父にそっくりなんだろう。まともでないところも似たってわけだ。


 幼馴染がをされてるって知ったら、普通は憤るものなんだろうか。助けようとするんだろうか。


 でも、俺が覚えたのは激しい嫉妬だった。大人だから、親だからってこいつを良いようにできるヤツらへの。ズルい、と思った。俺だって同じことをしたいのに。


 それでも、歪んだ思いなのは分かっていたから封じ込めようとしたのに。会わなければ忘れられたかもしれないのに。──今になって隙を見せるのが悪い。


 そう、だからは佑希がさせたことだ。


「誰にも言わないでいてやるから。──だから、な?」


 分かるな、と言い聞かせるように、震えわななく唇も噛んだ。必死に噛み殺そうとしているらしい嗚咽を、舌で味わえる気がして興奮する。


 せっかく父親から逃れたのに、またすぐに捕まるなんて。何より恥ずかしくて知られたくないことを握られて脅されるなんて。悔しいか? 悲しいか?


「佑希。泣くなって」


 馬鹿で優しい佑希。あんな父親、ちょっとリスクを上げてやっただけで毒を盛ったみたいに罪悪感を抱え込むのは、どう考えても割に合わないだろうに。


 都合良く二度目の発作が起きたのを、おかしいとは思わなかったのか。飲酒のことを知っていながら咎めなかったのは、医者にはあり得ないだろうに。数値を弄って、見過ごして。処方を誤魔化して。殺したのは、俺のほうだっていうのに。


 お前よりもよっぽど重い罪を、俺はお前のために犯したんだ。


「やっと自由になれたんだろ? 人生これからじゃないか」


 もちろん、俺の秘密を佑希に言う必要はない。自分が父親をせいで、と勝手に思っていれば良い。そうすれば、罪悪感で勝手に縛られてくれる。逃げようなんて気は起こさないだろう。


「な。佑希──」


 一生俺のだ、という宣告は、正しく伝わったことだろう。二度目のキスは、想いのほかに抵抗なく受け入れられた。

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暴いた秘密は檻になる 悠井すみれ @Veilchen

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