第1章【2】
ラクリマ・エヴァーソンは、美しい金髪の可愛らしい少女だった。身長はさほど高くなく、手足は痩せ細っていた。健康さとは程遠かったかもしれない。
西村ハンナは、どこかラクリマの面影を保っている。よく手入れの施された長い茶髪が誇りのようだ。程良く健康的で活発な少女である。
ノートと睨めっこしていたハンナが、顔を上げて小さく息をついた。
「わかりやすかった! ありがとう、律」
「どういたしまして」
学校が終わったあと、三人で集まって勉強会をするのが恒例だ。ハンナの勉強を律が見るのがいつものことで、蒼は自分の課題を黙々とこなす。
「きみに勉強を教えていたら、律が自分の勉強をできないじゃないか」
蒼が呆れて言うと、ハンナは唇を尖らせた。
「私が帰ったら蒼が教えてあげたらいいじゃない」
「俺は見てやれるほど勉強ができるわけじゃない」
「まあまあ」律が笑う。「僕は自分でもできるから」
ハンナは蒼にほんの少し対抗心を持っている。アナスタシアに自分より長く付き添っていたことに、悔しさを懐いているように感じられた。
ラクリマがアナスタシアと行動をともにしたのは、一年にも満たなかったと蒼は記憶している。ラクリマはアナスタシアとともにあることを望んでいたようだが、アナスタシアの運命がそれを許さなかった。
「でも、律のおかげで成績が上がったのよ。一年のときは散々だったから」
「そうなんだ。もともと良いのかと思ってたよ」
「勉強する気がなかったもの。三年になってから頑張ればいいや〜ってね」
「僕もそう思ってたから何も言えないな……」律は苦笑いを浮かべる。「蒼がいなかったら、受験には失敗していたんじゃないかって思うよ」
「あのときは苦労したよ」蒼は肩をすくめる。「高校に上がれないかと思った」
「ふうん……」
律はお世辞にも頭が良いとは言えないし、勉強が好きというわけでもない。アナスタシアの勤勉さは継承しなかったようだ。アナスタシアはいわゆる理系の頭脳で、薬学にも精通していた。神に召し上げられたあとも、研究や勉強に没頭していたようだ。それも、闘いに出る前の話だが。
藤堂律にアナスタシアの面影はない。ふとしたときの表情が重なって見えることはあるが、性別が違うこともあり顔立ちは異なる。それでも、蒼には律がアナスタシアであることがはっきりとわかった。魂までは変わっていない。継承した天使の感覚が、アナスタシアの魂を判別したのだ。ハンナも同じだったようだが、人間であった彼女がアナスタシアの魂を判別した理由はわからない。
部屋のドアが静かにノックされるので、どうぞ、と部屋主である律が応える。顔を覗かせたのは、蒼の父である
「ハンナさん。今日はご飯を食べて行きますか?」
「ううん、今日は私が当番だから帰ります」
「じゃあ、おかずをタッパーに詰めておくので、持って行ってくださいね」
「ありがとう!」
暁に微笑みかけたハンナは、帰り支度を始める。時刻は十七時前。ハンナの家まではそう遠くなく、歩いて帰れる距離だ。外は暗くなり始めているが、この一帯は住宅地で、街灯の多い道で車通りもあるため、少女がひとりで歩いても危険はそう多くない。初めの頃は律が送迎を申し出たが、それをハンナが断固として頷かなかった。そのときに律が折れ、これまでずっとハンナはひとりで帰路に着いている。
律と蒼が家の前まで見送りに出ると、ハンナは笑顔でふたりに言った。
「また明日ね!」
「うん、また明日。気を付けて帰ってね」
「はあい」
駆け出したハンナが、少し離れてから手を振る。それに応えるように律も手を振ると、満足したようにハンナはふたりに背を向けた。
ハンナと出会ってから、毎日のように顔を合わせている。ハンナの目的はほとんど律だ。蒼はハンナの眼中にはないようだが、嫌っているというわけではない。前世での関わりがあまりなかったこともあるが、ふたりとも律にしか興味がない。律がいなければ出会うことのなかったふたりだ。貴重な出会いと言えばそうだが、関心はあるが興味はないというだけである。
見えなくなるまでハンナを見送ると、ふたりは家の中へ戻った。
「ところで、律。明日は数学の小テストがあるが、忘れてないだろうな」
「えっ、そうだっけ。範囲どこだっけ」
「まったく聞いていなかったわけか」
「うん……そうみたいだね……」
ここは星野家。蒼の家だ。律は蒼の幼馴染みで、この星野家で暮らしている。律の両親は、律が六歳の頃に家が火事になり亡くなった。
藤堂家を包み燃え盛る炎を呆然と眺めていたとき、蒼の中にルーベルの記憶が蘇った。蒼も六歳だったため、当初は困惑し、混乱した。初めは薄ぼんやりとしていた記憶だったが、時間が経つに連れ鮮明になっていった。一週間も経てばルーベルとしての意識が確立し、律がアナスタシアの魂を有していることにはすぐに気が付いた。そして、それと同時に確信した。
――神が、再びアナスタシアを欲している。
アナスタシアを――律を守れるのは自分だけだと決心し、律から離れるまいと行動をともにして来た。以来、十年間は律を守り通せている。律が天寿を全うするまで彼を守り続けるつもりでいるが、アナスタシアが再び転生しないとも限らない。神がいつまでアナスタシアを狙い続けるかも判然としない。だが、長丁場になる可能性の覚悟はできている。これでも天使として何百年と過ごして来た。人間の短い一生分くらいなら戦い続けられるだろうと決意している。
律の部屋から勉強道具を回収し、自分の部屋で片付けをしていると、部屋のドアがノックされた。どうぞ、と応えた声でドアを開けたのは暁だった。
「ご飯できましたよ、兄さん」
暁の言葉に、蒼は苦笑いを浮かべる。
「律の前で兄さんって言うなよ、パテル」
「ああ、すみません……。兄さんだと思うと、つい……」
暁は困ったように笑い、頬を掻く。
蒼の父・暁は、天使ルーベルの弟だった。名はパテル。アナスタシアのことはもちろん知っている。蒼より先にパテルとしての意識を確立させていた。
律が親戚でもない星野家に引き取られたのは、蒼にルーベルとしての記憶が蘇ったことにある。蒼は暁に律がアナスタシアであることを話し、神が再びアナスタシアを欲していると告げた。暁は蒼と同様にアナスタシアを守るため、律を引き取ったのだ。幸い藤堂家の親族と争うこともなく、律は十年前からこの星野家で暮らしている。律がこの家に慣れるのもそう時間はかからなかった。
ただ、パテルはアナスタシアの最期を知らない。
そして、ルーベルの最期は、パテルもアナスタシアも知らない。
* * *
「ひゃあああ可愛いいいいい!」
わらわらと群れる猫を前に、ハンナが奇声を上げた。
ハンナの希望で訪れた猫カフェで、彼女の表情は緩みっぱなしだった。猫は基本的に客には寄って来ず、つんと澄ましている。猫カフェの猫は人に慣れているため、動じることがないのだ。それでもハンナは喜んで、写真撮影が延々と続いていた。店員からおやつが手渡されると、待ってましたと言わんばかりに猫が寄って来る。そうしてハンナが奇声を上げるに至ったのだ。
「ひとりで来ればいいのに」
離れた場所のテーブルに着いて溜め息混じりに言う蒼に、隣の椅子に腰掛け紅茶を飲んでいた律が、まあまあ、と微笑みかけた。
「蒼も抱っこしてみたら? 可愛いよ」
「猫は好きじゃない」
天使だった頃は、様々な動物に囲まれていた。神の趣味という場合がほとんどだったが、人間社会で言うところの「部署」によっては激務に追われていた天使もおり、彼らが癒しを得るために集められたのだ。ルーベルも動物に出会うことは多かったが、そういった
「じゃあ無理して付き合わなくてよかったのに」
「律とハンナだけじゃ危なっかしくて目が離せないからな」
「過保護ね〜」
猫を抱っこしたままハンナが呆れて言うので、蒼は肩をすくめてそれを流した。過保護という自覚はあるが、律からは目が離せない。いつ神に狙われるかわからないからだ。ハンナではおそらく神から律を守れない。それに加え、律を狙った神のなんらかの力にハンナも巻き込まれる可能性がある。過保護になってしまうのは致し方ないことだと蒼は考えているのだが、それはふたりにはわからないことだ。
「僕とハンナを子どもだと思ってるの?」
「子どもだろう」
「僕が子どもだったら蒼も子どもだよ」
「精神年齢の話さ」
「それはズルいよ」
「もー、喧嘩しないでよ」
こういった会話は何度もしている。ハンナに「過保護ね」と言われるのもよくあることで、そのたびに律は不満げな顔をする。蒼はそれに慣れているのだ。
ラクリマはアナスタシアの最期を知らない。アナスタシア――律のそばにいたい、ただそれだけだ。律を神から守らなければならないことを、蒼はハンナには話していない。別段、知る必要もないと思っている。
「律もこっちに来て撫でてみない? 可愛いよ」
「そうだね。おやつが残っているうちが好機だね」
「なくなったらきっと離れちゃうわ」
ハンナがラクリマの記憶を保持している理由はわからない。アナスタシアの力によって命を救われたためだとも考えられるが、ラクリマはアナスタシアに救われた大勢の人間のうちのひとりでしかない。その中でラクリマだけが記憶を保持しているのは、蒼にとって不可解でならない。しかし、出会っていないだけでラクリマの他にも記憶が蘇った者がいるかもしれない。その者が律に気付かず出会わなければ、その記憶を不可思議なものとして一生を過ごすことになるだろう。ハンナも家が近くなければ律と再会を果たすことはなかった。ともすれば、蒼も律と出会わなかった可能性もある。たまたま、運良く幼馴染みになれただけだ。もしそうならなければ、アナスタシアは神によって再び召し上げられていたかもしれない。そう考えると背筋が凍る。魂を神に奪われれば、普通の人間として転生した蒼は、二度とアナスタシアに手が届かなくなることだろう。それを回避することができたのは、蒼にとっては僥倖だった。ハンナも、もしかしたら律の魂を守ることができるのかもしれない。ただ、アナスタシアの最期を、ラクリマに話すわけにはいかないだろう。
帰路のあいだ、律とハンナは先ほど撮った写真を眺めて笑い合っていた。ハンナは随分と満足したようで、ハンナが笑っていると律も嬉しそうにしている。律にとってハンナは妹のような存在になったのかもしれない。
電車に乗っているあいだも、律とハンナは小声でくすくすと笑い合う。蒼がそれを眺めつつ本を読んでいるのはいつものことで、あの過酷な運命を生きたアナスタシアがこうして笑っていることは、蒼にとっては安堵することだった。
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