第5章【1】

 夏が着実に近付いている。夏休みが待ち遠しい季節だが、その前に試験が待っていることを考えると憂鬱にもなる。去年は蒼に叩き込まれて挑み、それなりの成績を取ることができた。今年も蒼の世話になることになるだろう。

 教員に呼ばれて行った蒼を中庭で待っていると、初夏の日差しがじりじりと肌を焼くようだった。日陰に入れば少しはマシかもしれないと思い、葉桜の下を目指す。陽光を遮るために目元に当てていた手を外したとき、花壇に座る人影に気付いて顔を上げた。癖のある茶髪の男子学生が、本から視線を上げて律を見る。

「こんにちは」

 穏やかに言う男子学生に律も挨拶を返すと、彼は柔らかく微笑んだ。

「暑いですね」

「僕もここで涼んでいいかな」

「どうぞ」

 男子学生の隣に腰を下ろした律は、あることに気付いて問いかけた。

「もしかして二年生?」

 この学校はネクタイの色で学年が判別できる。律たち二年生は濃い緑色に白線が入ったデザインだ。男子学生のネクタイは、律と同じ色だった。

「うん。僕は三組の岡部」

「僕は一年の藤堂。いつもここで本を読んでいるの?」

「中庭ではここが一番、涼しい場所だから」

「図書室のほうが涼しいんじゃない?」

「涼しいけど、図書室は少し静かすぎて逆に集中できないんだ」

「へえ……」

 学生にはそれぞれ、校内に気に入りの場所を持っている。律もこの桜の木の下が好きだ。春には満開の桜がはらはらと降り注いで美しい光景が見られる。

「律」

 呼びかける声に顔を上げると、蒼が歩み寄って来る。律が立ち上がったとき、一瞬だけ蒼が顔をしかめたような気がして、律は首を傾げた。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。帰ろう」

「うん。あ、それじゃあ」

 律が岡部を振り向いて会釈をすると、岡部も穏やかに微笑んで彼を見送った。

 学生たちの放課後の過ごし方は実に様々だ。さっさと学校を去る学生もいれば、教室に残って友達とお喋りに興じたり課題をこなしたりする学生もいる。部活動に勤しむ学生も多く、香川のように門限ぎりぎりまで学校に残る学生も少なくない。律と蒼はどちらかと言うとさっさと学校を出るほうだ。ふたりとも部活動には参加していないし、同じ家で暮らしているため教室に残ることもない。ふたりには、授業を受けることの他に学校にいる理由がないのだ。

「彼は?」

 校門を出たところで、蒼が律に問いかけた。いつもと少し調子が違うように聞こえる。

「三組の岡部。さっき知り合ったんだ」

「ふうん……」

 蒼の表情がまた険しくなる。蒼は普段、表情があまり動かないほうだ。そのため何を考えているかわからないことが律でもいまだにある。その彼がここまで顔をしかめるのは珍しいことである。何か引っ掛かることがあるようだ。

「律! 蒼!」

 大きく手を振りながら、ハンナが路地の向こうから駆け寄って来た。そのまま飛び付いて来るのを、律は笑いながら受け止める。

「ハンナ。学校、お疲れ様」

「律も蒼もお疲れ様!」

 ハンナの中学校は律と蒼が通う高校とさほど離れておらず、下校中に合流するのが毎日のことで、そのまま佐久間家の律の部屋で勉強会をするのが恒例だ。

 佐久間家に向かう途中、ハンナが学校での出来事などを律に話す。律が相槌を打つと、ハンナはよく笑って楽しそうに話すのだ。蒼はそれを静かに聞いている。だがいまは、考え事をしてふたりの話は聞こえていないようだった。ハンナもそれに気付いているようだったが、声をかけることはなかった。


 家に着くと、先に始めていてくれ、と言って蒼はすぐリビングへと入って行った。律とハンナは顔を見合わせつつ、律の部屋で勉強会を始める。

「蒼はどうしたの?」

 教科書を開いたハンナが問う。ううん、と律は顎に手を当てた。

「どうしたんだろうね。僕にもわからないんだ」

「今日、何か変わったことはあった?」

「別のクラスの人に会ったとき、変な顔をした気がするんだよね」

 律がそう言うと、ハンナが一瞬だけ表情を強張らせた気がした。それから何かを考えるように口を噤むので、律は首を傾げる。

「ハンナ?」

「……ううん、なんでもない」

 ハンナは曖昧に笑う。彼女も何かが気に掛かるようだ、と律は思った。

 蒼もハンナも、それから暁も自分に何か隠し事をしている、と律は常々から考えている。蒼は、人間なんだから隠し事のひとつやふたつくらいある、と言っていた。それはその通りなのだろうが、それが律を不安にさせる。蒼が自分に隠し事をすると蒼はいつも大変な目に遭う、となんとなくそう感じたことをいまでも思っている。なぜそう思うのかはいまだにわからないが、その勘が正しいとすれば、蒼はまた大変な目に遭う。それが律には不安だった。

 夕食のとき、蒼も暁もいつも通りに見えた。ふたりが何を話していたかはわからないが、律には話せない何かがあったということはわかる。それはどこか、自分のためであるのではないかという気がした。



   *  *  *



 私には友人があった。

 離れ離れになっても、ふとした瞬間に思い出した。

 静かだったからかもしれない。

 思えば、私はひとりでいる時間が多かった。

 そんなとき、友人は私に笑いかける。

「熱心なのはいいことだが、少し休憩しないか?」

 私はそれが嬉しくて、離れるなんて思ってもいなかった。

「考え事か?」

「ええ、少し」

 思えば、話を聞いてくれるのはいつも友人だった。

 唯一無二と言える友人だった。

 友人はいつも笑いかけてくれた。

 それが、ただ嬉しかった。

「報告書は終わったのか?」

「ええ。急かされてしまって」

「そうか。じゃあ、休憩にしないか。あいつがお茶を淹れてくれている」

 唯一無二の友人だった。

 自分から離れることはないと思っていた。

 神を恨んでいないと言えば嘘になる。

 だが、これが運命だと言うのなら、従うことしかできそうにない。

 私と友人がそういう運命であったのなら。

「あなたはどうしてそんなに私を気に掛けてくれるのですか?」

「うーん……気になるから、かな」

 私には友人がいた。

 唯一無二の友人だった。

 心のどこかではわかっていた。

 いつか失うのだと。



   *  *  *



 目を覚ますと、律はまた泣いていた。どんな夢だったかは覚えていないが、何か悲しい夢だった気がする。それでいて、どこか懐かしいように思えた。

 夢には何かしらの意味があるという。夢占いというものもあるところから考えると、律が夢を悲しくも懐かしいものだと感じることにも何か意味があるのかもしれない。夢の内容自体を覚えていないためそれがなんなのかは検討もつかないが、何か意味があるのだとしたら、自分に何か伝えようとしているのかもしれない。律は、なんとなくそんなふうに思った。


 この日の放課後、昨日と同じ場所に岡部の姿があった。律が歩み寄って行くと、本から視線を上げて律に微笑みかける。簡素に挨拶を交わし、律は岡部の隣に腰を下ろした。あのさ、と口を開く律に、岡部は本を閉じる。

「岡部は、蒼と会ったことはある?」

「蒼って?」

「昨日、僕のところに来た学生がいたでしょ? 彼だよ」

「ああ……。会ったという記憶はないかな。クラスも違うし。どうして?」

 律はまさか、岡部に会ってから蒼の様子がおかしかったとは言えず、なんとなく訊いてみただけ、と曖昧に笑って話を終わらせた。

「いつもなんの本を読んでいるの?」

「これは神話の本だよ。かつてこの大地を戦争や疫病から救った女神がいた、というのがいま読んでいるところ。面白い本だよ」

「へえ……。なんていう名前の女神?」

「アナスタシアだよ。アナスタシアの伝記は各地に残されているらしい」

「ふうん……」

 そのとき、律の頭の中で砂嵐が流れた。何かの映像が過ったような気がした。

「律」

 蒼の呼びかける声で、律は我に返る。蒼は相変わらず険しい表情をしていた。

「帰るぞ」

「あ、うん。それじゃあ」

 岡部に声をかけて律が立ち上がると、岡部は穏やかに微笑み返す。蒼は岡部を見ることもなく先を歩き出した。蒼は何か、岡部に対して良くない感情を懐いているのかもしれない、と蒼はそんなことを考えた。

 蒼のあとについて歩いているあいだ、律は岡部から聞いた女神のことを考えていた。その名前を聞いたとき、何か夢から覚めたときと同じような感覚になったのだ。その感情の正体はわからない。何か、思い出してはならないことのような気がする。その女神のことを聞いたのは、今日が初めてのはずである。

「律。さっき、あいつと何を話していたんだ?」

 蒼に問いかけられ、律は顔を上げた。

「岡部が神話の本を読んでるって話をしたよ」

「神話?」

「さっき聞いたのは、女神アナスタシアの部分を読んでいるって話かな」

「…………」

 蒼の表情がまた険しくなる。それから何かを考え込むように黙ってしまうので、律も口を噤んだ。蒼の表情がこれほどまでわかりやすいことはあまりない。何が引っ掛かっているのかは律にはわからないが、よくないことなのではないかという気がする。そうでなければ、蒼がこんな顔をするはずがない。

 ややあって、蒼はようやく律を振り向いた。

「律、あいつは関わらないでくれないか」

「どうして?」

「きみのためだ」

 そう言って、蒼は話を切るように律に背を向けた。説明する気はないようだ。

 蒼は理由なくそんなことを言う人ではない。律に何かを禁ずることはいままでにも何度かあったが、蒼は必ず理由を話す。今回のように説明する様子が見られないことはほとんどなかった。律が岡部と関わることをよく思っていないのは表情を見れば明らかだが、律にはその理由に検討もつかない。岡部と会ったのは今日で二回目だ。蒼が岡部に対してどんな感情を懐いているのか、律にはまったくわからない。その感情はどこから湧いて来るものなのだろうか。


 家に帰ると、蒼は何も言わずにそのまま部屋に入って行く。リビングから出て来た暁が、取り残された律に不思議そうに首を傾げた。

「喧嘩でもしたのですか?」

「……蒼が何を考えてるかわからないんだ」

 お茶を淹れますよ、と暁が律をリビングに招き入れる。子どもの頃から一緒に暮らしている律と蒼は、数えきれないほどの喧嘩をして来た。中学生に差し掛かると回数は減っていったが、暁もふたりの喧嘩には慣れている。だが、今回は喧嘩ではない。いつもと違う雰囲気を暁も感じ取っているようだった。

 暁の淹れたお茶を飲んでいると、ようやく気分が落ち着いていく。

「何かあったのですか?」

 律がこれまでの出来事を話して聞かせると、暁は難しい顔で顎に手を当てる。

「なるほど……。そんなことがあったのですね」

 そう呟くと、暁は黙り込んでしまった。何がそんなに引っ掛かるのかわからない律の不安が顔に出ていたのか、暁は優しく微笑んで言う。

「蒼さんが何を考えているかはともかく、律さんは自分が思うようにしていいと思いますよ。その人を友達だと思っているなら、それでいいと思います」

「……そうかな。蒼が何を考えてるかはわからないけど、蒼がやめろって言ったときは必ず悪いことが起こるんだ。でも、岡部と関わることの何がいけないのかわからない……。岡部は悪い人じゃないと思うんだ」

「蒼さんは勘の働く人ですからね。ですが、律さんの気持ちも大事ですよ」

「うん……」

 蒼が物事や行動に対して苦言を呈することはよくあることで、それを改めなかった結果、散々な目に遭うこともあった。そのため、律は蒼の勘を信用している。だが、特定の人物と関わらないようにと言われたのは初めてだ。その結果がどうなるのかがまったくわからない。蒼は、岡部に何を見ているのだろうか。


 夕食のあいだ、蒼は何かを深く考え込んでいる様子で、一言も発しなかった。暁が話しかけてもぼんやりしたまま曖昧に答えるだけで、会話になることはなかった。

 蒼とまともに話すことができないまま入浴を済ませ、明日の支度をする。ハンナからのメッセージに返信していると、ドアがノックされた。どうぞ、と応えた律の声でドアを開けたのは蒼だった。

「蒼、どうし――」

 律の言葉を遮るように、蒼が彼の腕を引く。強引に唇を重ねられ律が目を丸くしているうちに体はベッドに縫い留められ、律は腕を突っ撥ねた。蒼の冷えた手が頬に触れる。

「律、拒まないでくれ」

 切望のように感じられたその声に、律は腕の力を抜いた。

 拒もうとしたわけではない。少し驚いただけだ。

(僕が蒼を拒むはずなんてないのに)


 ――ああ……。

 ――もう二度と、そんな顔をさせたくなかったのに。




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