第4章

 いまでも、優しい両親の夢を見る。

 十年前の今日。燃え盛る炎に呑まれていった強く優しい父と、柔和で穏やかな母。律は両親を心から愛していた。

 悲しい夢を見るようになったのは、両親の命日が近付いていたからかもしれない。あの火事は、この先、これ以上の苦しみと悲しみを味わうことはないだろうと律に思わせた。

 警察によると、出火の原因は分からなかったらしい。家は不自然なほど全体的に激しく燃え、放火の痕跡はなかったと言う。

 なぜ自分だけ生き残ったのだろう。律はいつもそう思っていた。せめて、両親と同じところに行きたかった。救急隊員が助け出せたのが律だけだったらしい。両親を探し出すことはできず、鎮火後、一階のリビングで発見された。同じ場所で、寄り添っているようだった、と後々に聞いた。離れ離れでなかったことが、せめてもの救いだった。

 律は祖父母が苦手だった。とにかく厳しく、遊びに行くと何度も注意された。だから、蒼の父に引き取られることになったときは心から安堵していた。蒼のそばにいれば大丈夫。そう思った記憶がある。それはきっと、間違いではなかった。



   *  *  *



 律の両親はおそらく、神によって殺された。神にしては事を急いたように思う。その頃、蒼はまだルーベルの記憶を取り戻していなかった。両親を殺し、保護する者がいなくなった律が親戚に引き取られて蒼から離れれば、魂を取り戻すことを邪魔する者がいなくなると考えたのだろう。だから、蒼は急がなければならなかった。

 父・暁はすでにパテルとしての記憶を取り戻していた。そのため、律がアナスタシアの魂を持ち神がそれを狙っていると話せば、暁が蒼の意図を理解するのはすぐだった。

 暁が蒼を引き取ることを親戚に伝えたとき、祖父母は迷いを見せたらしい。律は祖父母を嫌っているように見えたが、祖父母は両親を失った孫に対する責任感があったようだ。それでも、暁が説得すればすぐに受け入れた。それが律のためになるなら、と祖母は言っていたらしい。律への愛情はあるが、自分たちが嫌われていたことは自覚していたようだった。

 律はしばらく塞ぎ込んでいた。毎晩のようにうなされた。蒼は律が神の手招きに応えないよう、気を張っている必要があった。ルーベルの頃のように魔法を使えたなら、もっと確実に律を守れただろう。律だけではない。きっと律の両親も。

 蒼は髪を憎んだ。どれほどアナスタシアを苦しめれば気が済むのか。なぜアナスタシアを苦しめるのか。その理由がまったくもってわからない。感じるのは執着や執念、そういったたぐいのものだ。

 蒼はこれまで、アナスタシアを守りきれていない。だがそれは、神もまた同じこと。神はアナスタシアに、そして律の両親の愛を凌駕することができなかった。神がアナスタシアを愛しているのだとすれば、本物の愛に勝つことはできないのだろう。

 あとは、アナスタシアが記憶を取り戻すトリガーがわかれば、アナスタシアが神の手を完全に振り切ることも可能だろう。

 アナスタシアは強い心の持ち主。神に完全に打ち勝つ日が必ず来るはずだ。



   *  *  *



 梅雨が明け、じめじめと湿気った生温かい空気が、歩くたびに体の発汗を誘う。律の両親の墓がある寺は、坂を登った先にある。墓参りのたびに汗だくになった。

 ようやく墓地に辿り着くと、律の両親の墓の前に人影があった。律の祖父母だ。

「おじいちゃん、おばあちゃん」

 律の声に振り向いた祖母は、相変わらず険しい表情をしている。

「あら、来たの。遅かったのね」

「ごめんなさい……」

「また身長が伸びた気がするわね。どうも、暁さん、蒼さん。律が元気そうで安心しましたわ」

「お婆様もお元気そうで何よりです」

 蒼が言うと、祖母は薄く笑って肩をすくめる。あまり愛想の良い性質ではないのだ。

 花台を直していた祖父が、ようやく顔を上げてひたいの汗を拭った。

「やあ、どうも。毎日毎日、暑くて敵わんですな」

「そうですね」暁が微笑む。「今年の夏も暑くなりそうですね」

「いや、まったく。こら、律。背中が丸まっているぞ。しゃんとしなさい」

「うん……気を付ける」

 きっととても愛情深い人たちなのだろう、と蒼は思う。ただ律に対する態度が冷たく感じさせているだけだ。神の仕打ちを知っている蒼は、それでも優しいほうだと思っている。

 彼らは父方の祖父母で、母方の祖父母は律が産まれる前に亡くなっている。母方の祖父母が生きていたらきっと優しい人たちだった、と律が一度だけ溢したことがある。

 アナスタシアの母は若くして亡くなったらしい。長女であるアナスタシアが母代わりとなり、兄弟は無事に大きくなったのだとか。アナスタシアは十六歳で人間として死んだことになる。人間界において彼女がどう人間人生を終えたかはルーベルは知らないが、妻亡き後、娘も失うこととなった父親の心情は察するに余りある。神のためならばと送り出したのだとしたら、こうしていまでもアナスタシアが苦しめられていることを知れば、きっと怒り狂ったことだろう。アナスタシアは神の遣いとなって以降、家族との関わりの一切を断つこととなった。アナスタシアから感じたのは気高き誉れだったが、家族にとってはどうあったのか、それを知る術はもうない。

「じゃあ、私たちはお先に失礼しますわ。律、お義父とう様の仰ることをよく聞いて、しっかり勉強するのよ」

「うん。おじいちゃんとおばあちゃんも元気でね」

 祖母は日傘を差し、祖父はずれた帽子を被り直す。高齢のふたりがこのきつい陽射しの中、わざわざ暁に時間を聞き出して同じ時間に墓参りに来るのは、律に会うための口実だろうと蒼は思っている。養子に出したからと言って、血を分けた親族であることに変わりはない。彼らなりに心配しているのだろう。

「ねえ、蒼のお母さんはどうして亡くなったの?」

 御散供おさごを墓石に撒きながら律が言った。

「随分と今更な質問だな」

「あんまり聞かないほうがいいかと思ってたんだ」

「別に何も問題ないよ。ただ病死したというだけだ」

「そうなんだ……。寂しいと思うことはある?」

「どうかな。ほとんど記憶にないからね」

「そっか……」

 律はぼんやりと呟く、蒼の中に蒼の母の記憶はほとんどなく、病死した母がいたという記憶だけと言っても過言ではない。ただ、母が生きていればきっと律のことを愛してくれただろう、という確信だけがあった。

 神が愛のためにアナスタシアの魂を欲しているのだとすれば、アナスタシアに必要なのは本当の愛だ。アナスタシアの魂を引き留めるため、錘となるものが必要だ。それが、律のそばに生まれた者たちの手であるなら、それ以上に良いことはないだろう。

 墓参りを終えたとき、寺の住職が暁を呼んだ。星野家と住職は昔からの付き合いがあるため、こうして呼び止められるのはいつものことだ。

「ふう……暑いね」律がひたいの汗を拭う。「どこか日陰に入っていよう」

「あの辺りなら木が生えているよ」

 蒼の指差した先に律は歩いて行く。その後ろ姿を眺めながら、蒼もともに木陰に入った。初夏を通り越して夏本番を思わせるような陽射しが容赦なく照り付け、動いていなくても汗が噴き出すようだった。

 そういえば、と蒼は考える。アナスタシアがラクリマの暮らす村へ訪れたのは夏季だったが、アナスタシアの真っ白な肌をラクリマが羨ましがっている姿も見られた。

「……蒼? どうしたの、ぼうっとして」

「いや、なんでもないよ。暑くてぼうっとしていただけだ」

「……ねえ、蒼。僕と話してるとき、いつも何を見ているの?」

 蒼の目を真っ直ぐに見つめる澄んだ瞳が、どこか悲しげな色を湛えている。質問の意図を掴みきれず言葉に詰まる蒼に、律は寂しそうに目を伏せた。

「僕と話しているとき、蒼は僕を見ていないような気がするんだ。僕を通して……どこか遠くを見ているような、そんな気がする」

 蒼はこれまで、律の前で動揺を見せたことはなかった。ルーベルがアナスタシアの前で動揺したことはなかった。だから今回もそのつもりだったが、律は蒼の瞳がほんの少しだけ揺れるのを見逃さなかった。律の薄い微笑みが視界の奥でアナスタシアと重なったとき、蒼はそれを振り払うようにひとつ息をつく。律はアナスタシアの魂を持っているが、アナスタシアではない。それを忘れていたようだ。

「俺には懐かしい人がいてね。その人がきみと似ているから、重ねていたのかもしれないね」

「そう……。そんなに似てるんだね」

「そうだな。よく似ているよ」

 同じ魂を有しているからね、と蒼は心の中で呟いた。

 アナスタシアはいま、藤堂律として生きている。魂はアナスタシアだが、律はアナスタシアではない。そんな単純なことを見誤っていた。おそらくハンナはすでに気付いていただろう。彼女は、律が大好き、と言っていた。

「お待たせしました」暁が戻って来る。「帰りましょう」

「うん。もう汗だくだよ」

 蒼が星野蒼として生きるひとりの人間であるように、律も藤堂律として生きるひとりの人間。神に気を取られたばかりにそんな単純なことを失念していたとは。神に責任転嫁するのは簡単だが、それもなんだか癪だった。



 


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