第3章【3】
授業中、生徒たちは静かに教師の話に耳を傾けている。板書を取り、次のテストに備えなければならない。律はあまり勉強が得意ではないため、帰宅後に蒼と復習をする。そのためにノートをしっかり取らなければならなかった。
教師の声だけが聞こえる中、ふと、律は誰かに呼ばれたような気がした。顔を上げて前を見ると、教師は特に指名して問題を解かせるような素振りはない。クラスメートが呼んだ様子もない。この静かな授業中に誰かを呼べば目立つだろう。
どこか懐かしさを感じる声だった。その声にこれまでも呼ばれたことがある。そんな気がした。
蒼にそれを話すと、彼は険しい表情になった。
「今後、もし呼ばれることがあっても応えないようにしてくれ」
そんなことを言われるとは思っておらず、律は首を傾げる。
「誰に呼ばれたのかもわからないのに、応えるなんてできないんじゃない?」
「それでもだ」
頑なに言う蒼が律には不思議だった。律を呼んだ声に何か心当たりがあるのかもしれない。だが、一体なんなのかは律にはわからなかった。
午後の授業、律はぼんやり考え事に耽った。
(やっぱり、蒼は僕に隠し事をしてる)
蒼だけではない。ハンナも
(蒼が僕に隠し事をするとき、蒼はいつも大変な目に遭う)
そう考えたところで、律ははたと首を傾げる。
(いつも……? そんなときあったっけ……)
不思議な感覚だった。蒼がそんな目に遭っているようなことは記憶にない。だが、自然とそう思ったのだ。なぜそう思うのかはわからなかった。
* * *
私が失敗すると、彼はいつも悲しそうな顔をする。もう何度目かわからない。彼ももう慣れた頃だろう。だから、そんな顔をする必要はないのに。
何も知らなかった頃に戻ることは許されず、永遠の死は叶わない。私は闘い続けなければならない。それが、私に課された使命なのだから。
彼が悲しむ理由はない。私の力が及ばなかっただけだ。失敗は私には許されざる行為であり、彼は私の死を見届けるのが役目。ただ、それだけのこと。
だと言うのに、彼は悲しそうな顔をする。そんな顔はもう見たくないのに。そんな顔をさせたくないのに。その力が私にはない。いつか私がこの生を終えることがあるのなら、彼も解放されるのだろうか。そんな日は永久に来ないのかもしれないし、私には祈ることしかできない。その祈りが届いてほしいと願わずにはいられない。そうすれば、彼はもう、悲しまなくて済むのに――
* * *
目を覚ますと、律は涙が溢れて止まらなかった。何か悲しい夢を見た気がする。よく覚えていないが、誰かのために祈らなければならないと思った。
目元を擦って涙を拭っていると、部屋のドアがノックされた。
「律さん」暁の声だった。「起きていますか?」
「起きてるよ、
ベッドから出て時計を見遣れば、いつもより寝過ぎたことがわかった。手早く制服に着替えてリビングに入った律に、おはよう、と蒼が微笑みかけた。
「もう少しで寝坊するところだったな」
「皆勤賞を逃すかと思ったよ」
そう言って律が笑うと、蒼は肩をすくめる。特段、皆勤賞を目指しているというわけではないが、規則正しい生活をしている蒼につられて律もそうしていた。
学校へ向かうあいだは、律が話をして蒼は聞き役に徹する。蒼はあまり口数が多い性質ではなく、律は話をするのが好きであるため自然とこうなるのだ。
「それで、そのときハンナが……――」
蒼を振り向いた律は、ふと言葉を切った。
いま、何かが蒼と重なった。
「律? どうした?」
蒼に問いかけられ、律はハッと我に返る。
「なんでもない」
何か、忘れてはならないことを忘れているような、そんな気がした。遥か遠い昔のことのように思う。なぜそう思うのかはわからない。蒼を見たとき、ふとそんな感情が湧いてきたのだ。それは、悲しい夢に繋がっている気がした。
* * *
昼休み、律が食堂に姿を現さなかった。授業が終わったときに教室を出て行ったのは見掛けたが、その後にどこへ行ったのかはわからない。別のクラスの誰かに用事があるのかと、それが終われば食堂へ来るだろうと思っていた。
昼休みが終わっても、律は教室に戻って来なかった。教師がその所在を誰かに訊くことがなかったため、律は許しを得て教室を離れているようだった。
「藤堂クンはどうしたんスかね」
帰り支度をしながら香川が言った。香川は律にアナスタシアの頃の記憶が蘇ると死が訪れることは知らないが、律自身を気にかけているようだ。
スマートフォンから視線を上げた蒼は、鞄を乱暴に持ちながら言った。
「今日の掃除当番、替われ」
「えっ?」
「任せたぞ」
「えっ、ちょっ……」
香川の制止には耳を貸さず、有無を言わさずに蒼は教室を出る。多少の恨み言は覚悟の上だ。香川に文句を言われたところで無視すればいいだけの話だが。
暁から連絡が来ていた。律が帰って来て様子がおかしいという旨が書かれている。
朝から雰囲気が違うとは思っていた。もっと気にかけるべきだったのだ。
走ったのは久々だった。どんなことがあっても走ることはなく、焦ることも滅多にない。しかし、律のことなら話は別だ。暁がわざわざ蒼に連絡を入れるほど律は異常だということだ。そんな状態の律を放っておくわけにはいかない。
暁は蒼の帰宅を待っていたようだった。蒼が玄関を開けると、すぐにリビングから出て来る。その表情には心配と焦りの色が浮かべられていた。
「おかえりなさい。律さんは部屋です」
「ああ」
汗を拭いながら律の部屋のドアをノックしようとしたとき、それより早くドアが開く。部屋から出て来たのはハンナだった。
「遅かったじゃない」
「ハンナ……」
「私も律を守りたいの。神様に取られるのは嫌なの」
「……知っていたのか」
蒼の問いに、ハンナは真剣な表情で彼を見つめる。
神が律の魂を欲していることは、ハンナには話たことはない。アナスタシアの記憶が蘇ることが不都合であるということから、その答えを自分で導き出したのだろう。そうして、彼女なりに律を守って来たのかもしれない。
「ありがとう、ハンナ」
ハンナは優しく微笑み、蒼を律の部屋へ促した。
蒼が声をかけながら部屋に入ると、律は布団をかぶってベッドに横になっている。小さな嗚咽が聞こえた。
「律、どうしたんだ」
蒼が肩に触れると、律はようやく体を起こす。その顔は涙に濡れ、悲痛な苦しみが滲み出ていた。いままでに見たことがない表情が、蒼の中に暗い陰を落とした。
「……夢を見るんだ。蒼が……黒い天使になって、僕から離れて行くんだ……」
律の瞳からは次々と涙が溢れた。その夢に頭の中を支配されているようだ。
「すべて悪い夢だ。そんなことがあるはずはない」
律は顔を手で覆う。その隙間から、消え入りそうなか細い声が漏れた。
「……あなたは……私のせいで……――」
蒼には、その言葉を最後まで紡がせるわけにはいかなかった。これ以上、思考を巡らせるわけにはいかない。強引に唇を重ねていたのは、苦し紛れの行動だった。律は驚いた様子で肩を震わせたが、それが深いものに変わっても蒼を拒むことはなかった。
支えを失った律がベッドに倒れ込むと、服の隙間に指を滑らせる。重ねられた唇がぴくりと震えるが、空いた右手が抵抗することはなかった。
思い出させないために。忘れさせるために。そんなものは詭弁でしかない。
天使は人の子に特別な感情は懐かない。
誰がそんなことを言ったのだろうか。
(ああ――醜悪だな)
涙の理由が変わっても、その手が拒絶することはない。
この感情の正体が何であるか、それは考えなくても明らかなことだった。
* * *
蒼がリビングに入って行くと、暁とハンナが彼を振り向いた。
「律さんは……」
「寝たよ。……律は、アナスタシアの記憶が蘇りかけている」
テーブルに着きながら言う蒼に、暁とハンナは表情を強張らせる。
「何がきっかけになったのでしょう」
「おそらくだが……十六歳になったことだ」
「どういうこと?」
「アナスタシアの魂が神に召し上げられたのが十六歳の頃。律はこれまで、十六歳になると記憶が蘇り、そうして死んでいった」
暁とハンナの表情が曇る。これまで、ふたりにこのことを話したことはない。アナスタシアが十六歳になると神の手がかかることをふたりは知らない。蒼が話さなければ、彼らの知り得なかったことだ。
だが、蒼には不可解な点がふたつある。
ひとつは、夢に苦しんでいるのになぜ朝は平然としていたのか、ということだ。多少の様子の変化はあったが、あれだけ悲しむほどではなかった。昼休みに入る前までは教室にいて授業を受けていたはずだ。何がきっかけとなって夢のことを思い出してのかはわからない。徐々に蝕まれていったのかもしれない。
もうひとつは、律の言う黒い天使とはルーベルのことだろうが、アナスタシアは自身の死後のことは知らない、ということだ。アナスタシアの死後、ルーベルがどういった運命を辿ったかをアナスタシアは知らないはずだ。それが夢となって現れるのか不可解でならない。彼女の記憶にはないはずなのだ。
「アナスタシアは、いままで一度も十七歳になったことがないんだ」
「どうしたらいいの?」
「とにかく律から離れないことだ。神はアナスタシアが独りになった瞬間を狙っている。この先、少しでも律を独りにすれば魂を奪われると考えろ」
「わかった。絶対に律を守るわ」
その思いは蒼も同じだが、蒼はいままで一度もアナスタシアを救えていない。だが、そのときはハンナも暁もいなかった。彼らがいればもしかしたら守り切れるのかもしれないが、その確証はない。油断はできないだろう、と蒼は考えていた。
* * *
アナスタシアの心は徐々に蝕まれていった。
人の子のために身を削り、何度も死を繰り返す。十六歳の普通の少女であったアナスタシアに、耐え切れるはずもなかった。
各地で戦争は収束し、流行病から人々は救われた。人間が大量に死ぬことも減少し、世界の均衡の崩壊は回復の兆しを見せる。アナスタシアは各地で英雄として讃えられ、女神として語り継がれるようになった。
だが、アナスタシアひとりだけが救われない。
犯罪団から救った国を発ったある日、アナスタシアは涙ながらに言った。
「故郷の紛争で、家族が亡くなったそうです」
紛争は各地で引っ切り無しに起こる。アナスタシアは多くの国を救ったが、アナスタシアひとりで担うには多すぎるのだ。アナスタシアの苦しみは、死を繰り返す痛みや苦しみ、恐怖より、民を救えなかった後悔と無力感、悲しみのほうが重かったように感じられる。アナスタシアの責任感はそれだけ重かった。
「大事な家族を守れないなんて、私はなんのために闘っていたのでしょう」
アナスタシアが自分の故郷の紛争を止めるためには、現在地が離れすぎていた。たとえ向かっていたとしても、家族は守れなかったかもしれない。それはアナスタシアの心を壊す大きな一因となった。
人には戻れず、天使にも神族にもなれず、永久の死を迎えることはできず、与えられたのはただ永遠だけ。アナスタシアが心を壊したのは、当然の結果だろう。
「もう故郷へ帰れないのなら、せめて……家族のところへ行かせてください」
アナスタシアはもう限界だった。もう闘えない。闘う意味がない。
「……同じ場所へ行けるかはわからない。だが、少し眠るといい」
その言葉に、アナスタシアはようやく安堵したように微笑んだ。
「ありがとう……。あなたがそばにいてくれてよかった」
涙に濡れたその笑顔は、初めて出会った頃と同じように美しかった。
そうしてアナスタシアの生は終わり、ルーベルは――人知れず堕天した。
神の遣いであるアナスタシアの運命を閉ざした罪が降りかかったのだ。
ルーベルには、神の追手を待つ気はなかった。ルーベルの追手にはパテルが含まれているはずだからだ。自ら翼を落とし、そうして地に堕ちた。神の追手が追いつかなかった結果、ルーベルの最期を知るのは神のみである。
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