第3章【2】

 十歳の誕生日を迎えた日の夜、西村ハンナは不可解な出来事に見舞われた。自分がラクリマ・エヴァーソンであったことを思い出したのだ。

 ハンナは混乱した。ラクリマの記憶が蘇った理由も意味もわからなかった。

 その中でも鮮明に憶えているのが、ジル・アナスタシアのことだった。アナスタシアにもう一度だけでも会いたい。そう願ったが、叶わないことはわかっている。アナスタシアはいまもどこかでたれかを救っているのだろう。

 ラクリマ・エヴァーソンの記憶は、西村ハンナには大して影響を及ぼさなかった。アナスタシアに教わった製薬技術も十歳の子どもには意味をなさないものだったが、将来は薬剤師か製薬会社に勤めよう、となんとなくそんなことを考えた。

 母はハンナに、急に大人びたわね、と微笑んだ。それは当然だ。ハンナは十歳だが、ラクリマは十四歳。一気に四年分も成熟したことになる。記憶が蘇った理由はわからないが、精神的に成熟したことは僥倖だったと何度か思った。



 それから四年が経ち、ラクリマと同じ十四歳になった。同じ境遇の者に出会うこともなく、ラクリマの記憶が役に立つことも特になく、ラクリマとして生きていた頃のことが徐々に薄れていく。

 西村ハンナとしての人生を楽しんで暮らしていたある日、ふと、いつもは通らない道に足が向いた。学校からの帰り道、その路地は遠回りになる道だ。それは無意識の行動で、気付いた頃には通りの半ば辺りを歩いている。なぜこんなところにいるのかと考えていたとき、肌がピリと痺れた。

 何かに駆られたように走り出した。角を曲がった先に、男物の学生服のふたりが歩いている。ハンナは迷いなく茶髪の少年の腕に飛びついた。

 間違いない。間違えるわけがない。

 目を丸くするのは少年だが、ハンナの中には確信があった。

 ――アナスタシアだ。

 泣き出しそうになりながら口を開こうとしていたハンナは、不意に腕を引かれてよろめいた。隣を歩いていた黒髪の少年が、茶髪の少年からハンナを引き離す。少し待っていてくれ、と言いながら黒髪の少年はハンナの手を引いた。

 茶髪の少年から充分に離れると、黒髪の少年が険しい表情で言う。

「名前は」

「……ラクリマ・エヴァーソン」

 この人はきっと自分と同じだ、とハンナは思った。そうでなければ止めるはずがない。この少年の正体について、ハンナは確証はないが心当たりがあった。

「あなたは天使様ね?」

 数回しか会ったことがないが、そうであるという確信をハンナは持った。退屈そうに木に座ってアナスタシアを見守っていた者――ルーベルだ。

 彼は小さく息をついた。それから、厳しい顔で言う。

「きみの考えている通りだ。だが、彼はアナスタシアだった頃のことを何も憶えていない。思い出させるわけにはいかないんだ」

「どうして?」

「それはきみには関係のない話だ。彼には関わらないでくれ」

 にべもなくそう言うと、彼はハンナに背を向けた。ハンナは簡単に引き下がるわけにはいかず、彼の腕にしがみつく。彼は鬱陶しそうに眉をひそめた。

「アナスタシアのそばにいたいの」

「彼はきみのことを憶えていない」

「それでもいい。アナスタシアのそばにいさせて」

「…………」

 アナスタシアとは別れの挨拶すらできなかった。ラクリマが暮らしていた村を発ったあと、彼女がどこでどう過ごしていたのかは知ることができない。しかしこうして再会することができたのだから、今度こそずっとそばにいたい。

 彼はハンナの気持ちを理解しているようだったが、険しい表情のままだ。

「アナスタシアの頃の記憶を取り戻すとどうなるの?」

「それはきみには言えない」

「記憶を蘇らせるようなことはしないから」

「何がきっかけになるかわからないんだ。きっかけになり得る人間をそばに置くわけにはいかない」

「一番きっかけになり得るのは天使様じゃない」

 苦し紛れに発した言葉だったが、それには彼も言い返せないようだった。アナスタシアの記憶を取り戻すとしたら、アナスタシアのそばにいたルーベルのことが最も大きいだろう。

「……わかった」彼は溜め息混じりに頷く。「少しでも記憶を取り戻しそうになったら、すぐに彼の前から姿を消してくれ」

「わかったわ」

 彼とハンナが戻って行くと、茶髪の少年は不思議そうにしながらも微笑んで迎えた。

「急にごめんなさい。昔の友達に似てたから間違えちゃった」

「そう。僕は平気だから気にしないで」

「私、西村ハンナ。もしよかったら、また会いに来てもいい?」

「もちろん。僕は藤堂律。よろしくね、ハンナ」

 そう言って優しく微笑む律の表情は、アナスタシアの頃と何も変わらない。アナスタシアが笑いかけてくれると、いつも安心感を覚えた。だからアナスタシアの笑顔が好きだった。律にアナスタシアの面影はないが、その微笑みは変わっていない。またアナスタシアのそばにいられることが、ハンナにとってこれ以上ないというくらいに嬉しかった。


   *  *  *



 それからハンナは、事あるごとに律のもとへ行った。律は優しくハンナを受け入れてくれたが、ルーベル――星野蒼はそれが不服のようだった。ハンナは律にアナスタシアの記憶を取り戻させるきっかけとなり得る。それがわかっていたため、ハンナも慎重に律と接した。

 出会って数週間後、律の誘いでハンナは星野家を訪れた。律の部屋で勉強会が行われ、律は熱心にハンナの勉強を見てくれた。ラクリマのときは村民たちの厚意を無駄にするまいと必死に学んでいたが、今世の勉強は――贅沢なことだが――あまり好きではない。前世では学べば学ぶほど誰かの役に立った。勉強していなければ、アナスタシアの手伝いをすることもなかっただろう。


 律が席を立ったとき、ハンナはノートに視線を落としたまま言った。

「律がアナスタシアの記憶を取り戻すことができないと知ってるってことは、これが初めての生まれ変わりじゃないってこと?」

「さてね」

 蒼は肩をすくめて流すが、ハンナにはそれが肯定のように感じられた。

 もしこれが初めての転生だとしたら、律にとってアナスタシアの記憶を取り戻すことが不都合であると知らないはずだ。二度目でそうなったとしても、勘が良くなければ気付かないかもしれない。三度目にしてようやく判別するのではないかとハンナは思う。ハンナの考えが正しければ、アナスタシアとルーベルはすでに三回以上の転生をしているということだ。そうであれば、ルーベルはアナスタシアの“不都合”を何度も目の当たりにしているのかもしれない。そのたびに記憶を取り戻しているなら、ルーベルは辛い思いをしているのではないだろうか、とハンナは思う。そのため、記憶を蘇らせるきっかけとなり得るラクリマがそばにいることを快く思わなかったのだろう。

「アナスタシアは何者なの?」

「きみが知る必要はないよ」

「…………」

 ハンナは思考を巡らせる。

 ラクリマがルーベルを見つけたとき、自分に言っているのか、とルーベルは言っていた。人間には見えない存在なのだとしたら、ルーベルは天使であることに間違いはないだろう。それはハンナの考えている通りだと蒼は言っていた。天使がそばにいたということは、アナスタシア自身も天使か、本当に女神だったか、もしくは神の遣いだったのだろう。そう考えると、アナスタシアがラクリマの暮らしていた村に突如として現れ村を救ったことにも説明がつく。

 律がアナスタシアの頃の記憶を取り戻すことが不都合である理由は、ハンナには判然としない。アナスタシアの記憶が律にとって辛く苦しいものであるなら、取り戻さないほうが律は幸せだろうアナスタシアが神の遣いであったとしたら、神に課された使命でラクリマの村に来たと思われる。その頃の記憶を律は捨てるべきということだ。ルーベルにとって、それが自分の記憶を取り戻すより重要なことなのだ。それならきっと、自分もそうして律に接するべきだろう、とハンナは思う。それがきっと、律のそばにいることを許容している蒼へのせめてもの恩返しになるだろう。





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