第5章【2】
闘いは神のためのものであり、人間のためのものであった。
天使にも神族にもなれず、人の子に戻ることもできず、それでも、闘うしかなかった。
私には人の子を救う力がある。私の力は、誰かを救える。
そう信じていた。だから闘い続けた。
だというのに、神はなんて残酷なのだろう。
「……シレオ……どうして……」
横たわる友人の姿が、まるで自分のようで。
――ああ……彼もきっと、こんな気持ちで……。
胸が締め付けられ心臓が止まりそうなこの悲しみを、二度と、味わわせたくない。
その願いが神に届くのなら、それ以上に良いことはないだろう。
* * *
目を覚ますと、また涙が溢れていた。何か、大きな悲しみを湛える夢を見た気がする。内容は覚えていないが、とても悲しい夢だった。
蒼は先に学校に行ってしまったらしい。蒼ならこの悲しみの理由を教えてくれるのではないかと思っていたが、もう自分とは口を利きたくないのかもしれない。そう考えると、どうしようもなく悲しかった。
* * *
「じゃあ、その人が?」
ハンナが窺うように蒼を見遣る。蒼は重々しく頷いた。
「おそらく、地に堕ちた神族のシレオだ」
「神族って?」
「神の遣いの一族だ。天使より人間に近しい存在だ」
天使は神に近しく、神の意志を遂行する。神族は天使の補佐のような存在だ。蒼はかつて天使だった。神の意志により、アナスタシアとともに地に降り立っていた。
「シレオとアナスタシアは友人だったようだ。だがシレオは神を裏切り、アナスタシアが制裁を下した」
あのときのアナスタシアの悲しみは、天使のルーベルでも見ていて胸が苦しかった。天使であるルーベルに悲しみを理解してやることはできないが、この制裁はアナスタシアの心を蝕むには充分すぎた。
「その岡部って人は記憶はあるのかな」
蒼は一目見ただけで、岡部がシレオだということがすぐにわかった。蒼にはまだ天使の頃の感覚が残っている。この世界にシレオが転生していることは初めて気が付いたが、律が接触してしまうのは、律にもアナスタシアの頃の感覚が残っているのかもしれない。
「わからない。記憶を保持し、アナスタシアの記憶を取り戻させようとしているようにも感じられる」
「何が目的なのかな。アナスタシアに記憶を取り戻させて、また友達になりたいのかな」
「それはどうだろうな。アナスタシアが記憶を取り戻せば、シレオに制裁を下したことを思い出す。記憶を取り戻させるのは得策ではないように感じる」
律は十六歳になった。これまでと同じであれば、アナスタシアが記憶を取り戻す頃だ。記憶を取り戻したアナスタシアは酷く動揺し、困惑する。アナスタシアはその直後に死ぬ。きっと、あの瞬間を思い出したアナスタシアには、気が狂いそうになるほどの苦しみだろう。
「その人が何を考えているかわからないけど、蒼が律のそばにいなくちゃ。律を守らなくちゃ。律を守れるのは、蒼しかいないのよ」
「……そうだな」
だが、これまで蒼は、一度も律を守れていない。ルーベルはアナスタシアの死を食い止めることはできなかった。たったの一度でさえも。ルーベルの目の前で、アナスタシアは何度も散っていった。ルーベルはただ、それを見ていることしかできなかった。
* * *
律は、もう一度、岡部の話を聞かなければならないと考えていた。女神アナスタシアのことを、もっと知らなければならない。そんな思いに駆られていた。
岡部はいつものところにいた。律が声をかけようとすると、強く腕を引かれる。振り向いた先で、蒼が険しい表情をしていた。
「帰るぞ」
厳しい声で言い、蒼は律の腕を引いたままきびすを返す。先を歩き出した蒼の手を、律は振り払うことができなかった。
「蒼、どうしたの?」
律の問いに蒼は応えない。その雰囲気が律を不安にさせる。蒼が何を考えているかわからなかった。
そのまま帰宅すると、蒼は律を部屋に押し込んだ。後ろ手にドアの鍵を閉めた蒼は、黙ったまま律を少し乱暴にベッドに縫い付ける。性急に覆いかぶさった蒼は、律が言葉を発する前に口を塞いだ。
まるで、何かを見えなくするように。
* * *
蒼にとって、律が岡部に接触するのはよくないことらしい。その理由は律にはわからない。それでも、なんとなくいつもの場所を覗いていた。
木陰の花壇に岡部の姿はなかった。いたとしても、蒼の表情を思い出せば声をかけることはできなかっただろう。それなのに、なぜ覗いてしまったのか。自分の行動に首を傾げていると、スマートフォンが鳴った。ハンナからメッセージが届いている。「校門の外で待ってるから一緒に帰ろ」という文面に可愛らしい絵文字が添えられていた。
校門まで来るのは珍しいと考えながら、律は行き交う学生たちに紛れて校門を目指す。校門を出れば、みなそれぞれ目的の方向へ散って行く。その中で、ひとりだけ違う制服のハンナは目立っていた。
「藤堂」
校門を出ようというところでかけられた声に振り向くと、岡部が薄く微笑んで軽く手を振っている。律は昨日の蒼の険しい表情を思い出しつつ、それに応えようと口を開いた。
そのとき――
「律! 危ない!」
ハンナの悲痛な叫びが響き渡る。体に激しい衝撃が加わった次の瞬間、律の意識は暗い中に引き摺り込まれていった。
* * *
報せを受けた蒼が病院に駆けつけると、病室の前に暁とハンナの姿があった。蒼に気付いたハンナが、涙で濡れる顔を上げる。蒼の胸のざわめきが騒がしくなる。
「律は」
「怪我は大したことないのですが、意識が戻らないのです」
沈痛な面持ちの暁に、蒼は肺の中の空気が消失したような気になった。
届いてしまったのだ。神の手が。
そのまま廊下の椅子に腰を下ろす蒼を気遣いつつ、ハンナと暁は病室に入って行く。蒼はそのあとを追うことができなかった。意識が戻らない律の顔を見れば、あの後悔を重ねた日々を思い出してしまいそうだった。
微かな足音に顔を上げると、遠慮がちに歩み寄って来るのは岡部だった。
「……アナスタシアが神から逃れる手はないのでしょうか」
俯いたままの岡部に、蒼はひとつ舌を打つ。やはり、彼はシレオなのだ。
「アナスタシアは記憶を取り戻すことで死を迎える。アナスタシアには、その呪いのような運命が付与されている。人間の死……それが人間が神に最も近付く事象だからだ」
岡部の表情が曇る。やはりその事実を知らなかったらしい。この事実は、アナスタシアとともに何度も転生を繰り返した蒼しか知り得ないのだ。
「神はアナスタシアの運命を操ることでアナスタシアを手に入れようとしている。死を繰り返してもアナスタシアの魂が奪われないのは、アナスタシア自身の力だろう」
ルーベルはアナスタシアを守れなかった。だが、神もまた、アナスタシアに手が届かないでいる。アナスタシアは、自分の力で神から逃れ続けている。
「だが、アナスタシアは死を回避することができない」
「アナスタシアは、あの頃から何度も……」
「そうだ。だが、今回はいままでと違うことがある」
冷静な声で言う蒼に、岡部は先を促すように首を傾げた。
「前回までは、アナスタシアと私のふたりきりだった。いまはラクリマやパテル、アルゲオときみがいる。何かが変わるかもしれない」
「そうですか……」
「アナスタシアの力が保てばという話だがな」
「…………」
アナスタシアがいつ力尽きるかわからない。律がアナスタシアの記憶を取り戻せば、あの頃のことを思い出す。酷く動揺することだろう。律がどうなってしまうのかは、蒼にもわからない。あの恐怖が律を壊してしまわないことを祈るばかりだ。
* * *
誰かが呼んでいる。目を開けば、辺りはただ暗闇の中で、自分以外には誰もいない。
『――……』
また誰かに呼ばれた気がした。背後に光を感じて振り向くと、招き入れるように淡い光が広がっている。
ふと歩き出そうとしたとき、左手が何かに引かれた。左手は温かいものに包まれ、導くように律の手を引く。
再び呼ぶ弱々しい声に、律は首を振った。
「私が行くのは、もうそちらではありません」
くるりと踵を返す。声は追いすがるように投げかけられる。しかし、もう振り向くことはない。歩みを進めるのはそちらではない。待っている人々がいる。だから帰らなければならない。帰るべき場所は、もうあの光の中ではない。
* * *
目を覚ますと、影が覗き込んでいた。カーテンの隙間から漏れる月光に照らされているのは蒼だった。律の視線を受けると、蒼は律の左手を握る手に力を込めた。それから、触れるだけの穏やかなキスを落とす。
「律、二度ときみの手を離さない。だから、きみも離さないでくれ」
「……うん。僕が蒼から手を離すわけがないよ」
蒼から伝わる温かいもの。自分の中に溢れるもの。きっと、これを愛と呼ぶのだろう。
* * *
律は大した怪我をしなかったため、すぐに退院が決まった。退院の日、蒼とハンナとともに岡部も病院の前でその帰りを待った。
「律は無事だったが、きみを許したわけではない」
「はい、わかっています。僕は彼を危険に晒しましたから」
ハンナも警戒した表情で岡部を見ている。ハンナはあの日、目の前で見ていたのだ。
「神はいつでもアナスタシアの魂を狙っている。だが、今回のように持ち直したことはいままでにはなかった。我々の想いが、アナスタシアの魂を引き留められたのなら、我々ならアナスタシアを守れると思いたいものだ」
律に記憶を取り戻した様子はなかった。だが、油断できないのはこの先も同じことだろう。
暁とともに律が病院から出て来る。その表情はどこか晴れやかだった。
「律! 退院できてよかったわ!」
「うん。心配かけちゃったね」
穏やかに微笑む律は、真剣な表情で蒼を見た。
「蒼、僕は岡部と友達になりたいんだ」
「…………」蒼は小さく笑う。「きみがそう望むなら、俺にそれを止める権利はないね」
「ありがとう」
その安堵した微笑みに、あの日のアナスタシアが重なる。だが、いま蒼の目に映るのはアナスタシアではない。藤堂律という、ただひとりの“人間”だ。
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