第6章【1】

 あれ以来、律が危険に晒されるようなことはなく、夏休みは蒼が望んでいた以上に穏やかに過ぎた。蒼と律はバイトに勤しみ、ハンナとともに課題をこなした。律に何か変わった様子も見られず、神の手から離れられたのかもしれない。危機が去ったわけではないだろうが、律は安定していた。

 そうして夏休みが明けると、彼らのいつも通りの日常が始まった。



「あーあ。夏休み、早かったな~」

 ハンナが頬杖をつき、つまらなさそうに呟く。夏休みの一ヶ月半弱、ハンナはほとんど毎日、こうして佐久間邸を訪れていた。ハンナは、夏休みの宿題を余裕を持って終わらせられたのは律のおかげだ、と喜んでいた。

「進路希望調査があって、受験が控えてるって実感しちゃったわ」

「早い人はもう対策を始めてるよね」

 ハンナは重い溜め息を落とす。受験を憂鬱に思うのは、人間なら誰でも同じことだ。

「律と同じ高校に行くには、推薦をもらわないといけないわ」

「ハンナまで……」律は苦笑いを浮かべる。「僕に合わせる必要はないんだよ」

 中学校二年生の頃、蒼はすでに律と同じ高校に希望を絞っていた。彼らの通う高校は偏差値としては低くないが、蒼はもうひとつ上の高校にも行けた。だが、蒼に律から離れるつもりはなかった。

「律と一緒に学校で過ごしたいの。絶対に楽しいわ」

「うーん……。まあ、ふたりがそれでいいならいいよ」

 律は以前、ふたりが自分のレベルに合わせることに不満を懐いていた。ふたりが何を言っても聞かないことは、夏休みでよく理解したようだった。その表情には諦めすら感じられたが、蒼とハンナが何を言われても主張を変える気がないのは確かだ。律はきっと、それもわかっているのだろう。



   *  *  *



「佐久間くんは海外留学するらしいね」

 残暑の陽を遮る木陰。思い出したように岡部が言った。

「え? そうなの?」

 目を丸くする律に、岡部は首を傾げる。

「知らなかったんだ」

「うん……初耳だ」

 蒼はこれまで何度も、律と同じ大学に行く、と言って主張を変えていない。律がいつ訊いてもそう言うため、それ以外の選択肢が蒼にあることは考えていなかった。

「意外だな……。佐久間くんは律になんでも話すと思っていたよ」

「……そうかな……」

 蒼はいつも何か隠し事をしている。そもそも口数が多い性質ではなく、何を考えているかわからないときも多い。それでも、嘘をつくことはないと思っていた。蒼はいつも律に対して誠実で、適当なことを言うこともない。そんな蒼が、律に黙って海外留学の準備をしているとは俄かに信じがたい話だ。

「でも、蒼は成績が良いから、そういう可能性も選択肢のひとつとして考えていても、おかしくはないよね」

「まだ一年だから、選択肢としてはあるだろうけど……。佐久間くんが律にそういう隠し事をするとは思えないよ」

「そうかな……。蒼は秘密主義なところがあるから」

「……確かに……」

 小さく呟いた岡部に、上手く聞き取れなかった律が首を傾げると、なんでもないよ、と岡部は微笑む。岡部も人のことを言えない、と律はいつもそう考えていた。



   *  *  *



「海外留学!?」

 心底から驚いた様子のハンナが、手にしていたペンをぽとりと落とす。蒼が席を外している隙に律が話したことは、彼女も初耳だったようだ。

「あり得ないでしょ。蒼は律と同じところにしか行かないわ」

「断言するね……」

 律は苦笑いを浮かべるが、ハンナには確信があるらしい。それは自信を湛えた表情を見れば明らかだった。

「だって、就職先まで同じにするって言ってるのよ?」

「でも……蒼は、何を考えているかわからないときがあるから……」

「それは、そうかもしれないけど……。でも、蒼が律にそんな嘘をつくはずがないわ」

「そうかな……」

 自信を持てずに俯く律に、とにかく、とハンナは拳を握り締める。

「何度でも言うけど、蒼が律を置いて海外留学なんてあり得ないわ」

「……そうだね」

「だいたい、その話の出所はどこなの?」

「岡部の友人が話していたらしいけど……」

「当てにならないわ。そんな噂話より、蒼を信じるべきよ」

 ハンナは呆れたように目を細める。確かにただの噂話でしかないが、なぜか律には、根拠のない噂話だと切り捨てることができなかった。蒼のことは信じている。ただ、蒼はいつも何か隠し事をしている。その事実が、律の中にかすかな疑惑を生じさせた。

 蒼が部屋に戻って来るので、律とハンナは話すのをやめる。律を見た蒼が、ほんの少し眉をひそめて首を傾げた。

「どうかしたか、律」

「ん、何もないよ」

「そうか?」

 蒼は目敏い。律の変化にはすぐに気が付いてしまう。律に気になることがあるのは、すでに察知しているだろう。律が真実を問えば、きっと迷いなく否定するはずだ。それでも、もしかしたら、という思いが律に口を噤ませた。蒼にはきっと、何もかもお見通しなのだろう。



 夏も終わりに差し掛かり、日が暮れるのが早くなった。ハンナが佐久間邸に滞在する時間も自然と短くなり、律と過ごせる時間が減った、とぼやいていた。それでも、暗くなってから帰るのを見送るのは不安だから、という律の言葉を律儀に守り続けている。律としても、ハンナを追い出すようなことはしたくなかった。

 律がシャワーを終えてリビングへ行くと、暁が夕食の支度をしている。蒼は自室にいるようだった。

義父とうさん。蒼の進路で何か聞いてることはある?」

「なんとなくは……と言うより、律さんと同じ大学に行くということしか聞いていません」

「そう……」

 父にそう話すということは、多少なりとも信憑性が出てくる。律も蒼も大学に“行かせてもらう”側だ。海外留学するつもりなら、まずは父に相談する必要がある。加えて、準備は早めに行うべきだろう。それでも、蒼がいつも何か隠し事をしているという事実が、律の自信を失わせた。

「何か気になることでも?」

「ううん……」

「まだ一年生ですから、進路が決まっていなくても気にする必要はないですよ。ゆっくり考えればいいんです」

「うん……ありがとう」

 律はまだ進学先を確定していない。夏休み明けの進路希望調査では、パッと思い浮かんだ大学名を書いただけだ。蒼が律の調査表を見て大学名を記入しているところを見たが、進路希望調査ではなんとでも書ける。暁の言う通り、律も蒼もまだ一年生。この先、進学先が変わってもおかしいことは何もないのだ。



   *  *  *



 蒼が日直の仕事を片付けて校舎を出ると、律はいつもの木陰で岡部と歓談をしていた。蒼を待っているとき、律はいつも岡部とともにいる。あれから、岡部は律の普通の友達になった。アナスタシアについて触れることもなくなったようだ。

「律」

 蒼の呼びかけに顔を上げた律が、一瞬だけ、何かいつもと違う表情をしたように見えた。それでも、岡部に別れの挨拶をしたときにはいつも通りに微笑んでいる。その一瞬の表情が、アナスタシアの面影と重なった。何か、話したくても話せないことを抱えているときの顔だ。こういったとき、蒼はいつも無力だった。アナスタシアは、いつも口を噤んでいたからだ。



 ハンナを交えての勉強会。律は、いつもと同じように振る舞っている。ハンナが律の変化に気付いているかは判然としないが、律はいつも通りに見えるように振る舞っているのかもしれない。アナスタシアの頃から変わらない。口を噤んでいることがすぐにわかる表情をするのだ。


 律がシャワーに向かって行くと、蒼は夕食の支度をする暁に言った。

「ここ最近、律から何か言われたことはあるか?」

「言われたこと……。そういえば、兄さんの進路について訊かれましたね」

「進路? そんなこと、聞くまでもないだろう」

 律は複雑な表情をしていた。どうやら、蒼の進学先が気になっているらしい。しかし、蒼は律と同じところにしかいない、と度々主張してきた。いまさら気になることなどないはずだ。

「本気にしていないんじゃないですか?」

「私を疑っているのか」

「何か引っ掛かることがあるんでしょう。兄さんは秘密主義なところがありますから」

「律に隠し事はしない」

 とは言え、アナスタシアとルーベルのことはいまだに秘匿している。これは話すべきではないことで、その点においては、秘密主義だと言われても致し方ないことだ。

「兄さんのことは信用しているでしょうが、誰かに何か聞いたのかもしれません」

「なるほどな……」

 噂話は、誰でもどこでも流れている。律は、蒼に関する何かしらの噂話を聞いたのだ。あの微妙な表情は、噂話の真意を掴めずにいるということだろう。それを蒼に問うことに躊躇っている。いったいどんな噂話かは知らないが、はた迷惑な噂話だ。ルーベルの頃であれば、周囲にいた神族に探らせればすぐに答えが見つかった。そういった存在がいないいま、蒼自身が確かめるしかないだろう。





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