第6章【2】
「佐久間サンは海外留学するんスか?」
放課の時間。律が教室から出て来るのを校門前で待っていると、香川がそう問いかけて来た。蒼は眉間にしわを寄せる。
「は? 海外留学?」
「クラスの人がそう話してたんスよ」
「なんでそんな話が」
「さあ。出所はわからないっス。海外留学とかしそう、みたいな話を誰かがしてたんじゃないスかね」
人の子は噂好きだ。誰かが話していたことを耳にし、本当かもしれない、と思うと他の人間に話したくなる。人の子はそういった性質を持っているものだ。
そこで、蒼の頭の中に、律の複雑な表情が思い浮かぶ。
「まさか、律の耳にも入ったのだろうか」
「あー、その可能性はあるっスね。どこで誰が話してるかわからないっスからねえ」
蒼には、律の複雑な表情の理由がようやくわかった。あれほど口を酸っぱくして「律と同じ大学に行く」と言っておきながら、陰で海外留学の準備をしている。それは律にとって、蒼が嘘をついていたと感じることだろう。このまま放置すれば、律の信用を失うことになるかもしれない。
「しかし、そんなつまらない噂を流すほど人の子は暇なのか」
「人の子は噂好きっスからねえ。アナスタシアの伝記だって、人の子のそういった性質によって各地に伝わっていきましたからねえ」
アナスタシアが大地で人の子を救い続ける最中、その“女神”の噂は各地に広がっていった。それと同時に、救世の女神を騙る詐欺師が湧いたのも確かだ。火消に走った者もいたが、ルーベルはそちらに関与しなかった。関与する暇はなかったのだ。アナスタシアを待つ民は世界中に山ほどいた。その手を擦り抜けた者も。それが、アナスタシアの心を蝕む一端となっていた。ルーベルとしては、その伝記は歓迎できたものではなかったのだ。
「つーか、早くその誤解を解かないと、佐久間サンが本当にそのつもりだったら、嘘をついてたことになっちゃうんじゃないっスか?」
「ああ……早急に律と話さなければならない」
蒼が溜め息を落としたところで、律が校舎から出て来るのが見えた。律はいつも通りに微笑んでいるように見えるが、やはり表情には微かに何かの感情が見える。律がこんな表情をするのは、この噂を律も耳にしていることの証明だった。
適当な挨拶をして香川と別れると、蒼と律は並んで歩く。律はいつものように蒼に話しかけた。しかし蒼には、律に話さなければならないことがあった。
「律。俺に関する何かを聞いたかもしれないが」
律の瞳が微かに揺れる。やはり、あの噂話は耳にしていたらしい。
「俺は律には隠し事もしていないし、嘘もついていない。いつも、いつまでも、きみのそばにいると、そう言ったじゃないか」
「……でも……蒼は成績が良いから、僕に合わせる必要はないんだよ」
律の表情に、寂しさのような色が見える。それは噂話が本当だとしたら、という表情のようで、その噂の通りなら、という表情にも見えた。
「成績なんてどうでもいい。律には俺がついていなければならないんだ」
「それ、なんなの?」律が小さく笑う。「僕はひとりじゃ何もできないってこと?」
「いいや。だが、たったひとつ、律だけではどうにもできないことがある」
それは神の手から逃れること。先日は自力で神の手を振り払うことができたようだが、次もそうであるとは限らない。いつか、神の手が届いてしまう日が来るかもしれない。その日のために、律のそばには蒼がいなくてはならないのだ。
「それって?」
「いまはまだ話せない」
それが、蒼が律にする唯一の隠し事だ。話すことが律のためになるとは思えない。話すことで律が記憶を取り戻せば、神の手が律に伸びることになる。それだけはなんとしても防がなければならなかった。
「蒼がそう思うなら、きっとその通りなんだろうね」
律はやはり寂しそうな色で微笑む。その表情に、どうしてもアナスタシアを重ねざるを得なかった。
「もし話せるときが来きたら話して」
「ああ、約束するよ」
律は安堵したように微笑む。
この微笑みを失わぬよう。律が幸せに微笑めるよう。それが、ルーベルのアナスタシアへの最後の誓いだ。
* * *
律が目を開くと、そこは何もない、ただ暗闇だけが広がっている空間だった。足が地についている感覚はある。だが、右も左も上も下もわからなかった。
――藤堂律。
不意に聞こえが声に辺りを見回す。女性の声に聞こえた。何度か辺りに視線を巡らせると、律の目の前に、輪郭のぼんやりとした光が瞬いた。
――彼を守ってあげて。
右手に何かが触れる。それは律を包み込むような温もりだった。
――彼を守れるのは、あなたしかいない。
――どうかお願い。
懇願するように言い、光は消えていった。それと同時に、律の意識も遠くなる。
* * *
律が目を覚ますと、窓の外はまだ薄暗かった。律は体を起き上がらせて、小さく息をつく。
(僕には、守らなければならない人がいる)
右手には、まだ微かに温もりが残っているようだった。
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