第6章【3】
自分の担当を終えると、掃除当番たちは順番に帰宅を始める。じゃんけんに負けて少々面倒な仕事を任された蒼と律は、結局、最後まで残ることになってしまった。
「やっと終わったね。帰ろう」
「学生に掃除をやらせる仕組みはいつになったらなくなるのかね」
溜め息を落とす蒼に、律は困ったように笑う。律が物事に対して文句を言った姿は見たことがない。それはアナスタシアも同じだった。
教室のドアを開くと、廊下はしんと静まり返っている。廊下に生徒の姿はなかった。
「そんなに時間がかかったかな」
律は不思議そうに首を傾げる。先ほどまで、廊下から生徒の声が聞こえていたはずだ。視線を巡らせたところで、蒼は窓の外を見て眉をひそめた。
「真っ暗だ」律が呟く。「僕たちは寝ていたのかな」
窓の外は暗闇に覆われている。校舎の照明は点いておらず、暗闇に包まれているのではなく、ただ外の空間が黒しかないのだ。
「わっ」
律が小さく声を上げた。その視線を追い足元を見遣ると、小さな人型の何かが走っている。ドレスやジャケット、鎧などを身に着けた人形が右往左往していた。
「なんだろう、これ」
不思議そうに呟いた律が手を伸ばすので、蒼はその無防備な手を握り締める。蒼には、この状況に心当たりがあった。
「こいつらに捕まるな。蹴散らして構わない」
「え……?」
「外へ向かうぞ」
首を傾げる律の手を引き、蒼は廊下を歩き出す。蒼に蹴り飛ばされる人形は、ケタケタと笑い声を立てた。律は困惑して辺りを見回しながらも、蒼のあとに続いた。
(これは『神の領域』だ)
堕天した者を捕らえ、粛正するための空間だ。周囲は結界により閉ざされ、内側から脱することは不可能になる。神は、アナスタシアの魂をまだ諦めていない。この領域内で奪うつもりでいるのだ。
そのとき、蒼はがくんと体が揺れた。突如として足元が抜け、体が暗闇に吸い込まれる。天使の力を失った蒼に抵抗することはできない。しかし、寸でのところで律が手に力を込めた。蒼の体は闇の中で宙ぶらりんになり、なるほど、と心の中で呟く。
(狙いは私か……。私をここで滅して、律を奪うつもりだな)
律が腕に力を込め、蒼を引き上げる。天使の頃のような身軽さはなく、支えのないまま律の手だけを頼りになんとか穴を脱した。律は肩で息を整えつつ、安堵したように微笑んだ。
「何が起きているんだろう」
「さあな」
ひとつ息をつき、蒼はスマートフォンを手にする。どうにか香川にでも連絡を取れないかと考えたが、無情にもアイコンは「圏外」を示していた。
もし、と蒼は考える。もし、律がアナスタシアの力であった“祈り”を使えるのなら。「神の領域」を打ち破れるとしたら、アナスタシアの祈りだけだ。だが、ここで律に記憶を取り戻させるわけにはいかない。
蒼は、律の右手を握る手に力を込めた。
「私の手を離すな」
律は小さく頷く。その表情は強張っているが、怯えている様子はない。その澄んだ瞳に湛えた強さは、あの頃から何も変わっていない。
神の領域内に足を踏み入れることが許されるのは、罪人を粛正するための天使だけである。ここに天使が踏み込んでくれば、蒼に抵抗する力はない。だが、神の行為はあまりに身勝手である。賛同する天使はいないだろう。
蒼は徐々に体が重くなっていくのを感じた。蒼はかつて天使であった魂を持っている。律にはなんということもないだろうが、蒼は神の執念が肩に圧し掛かって来るようだった。
「蒼、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「これくらい、なんてことない」
律は状況を飲み込めていない。アナスタシアの記憶が封じられているのだから当然だ。神の領域内にいれば、律はいずれ記憶を取り戻すかもしれない。なんとしても、ここから抜け出さなくてはならなかった。
ザッとノイズ音が耳の奥に響く。頭上に砂嵐の流れる画面が映し出され、人の声とも似つかぬ不快な音声が辺りに響き渡った。
(これは、神の言語だ)
天使だった頃、魂は神と繋がっていた。神の言語は神の意思を込め、天使たちはそれに従っていた。いまの蒼に神の言語を聞き取ることはできない。普通の人間には神の言語を理解することができないのだ。だが、アナスタシアだけは特別だった。
不協和音は次第に大きくなっていく。責め立てる声のように聞こえた。
(これは、私に対する呪いだ)
いまの蒼には、呪いに対抗するだけの力がない。ここで呪われてしまえば、神の領域を脱することができなくなってしまうかもしれない。しかし、不快なノイズ音はどんどんと大きくなっていった。
こめかみを刺されたような痛みに、蒼は足を止める。頭の血管が破裂するのではないかと思うほどの頭痛。神の言語の呪いが、蒼に届こうとしていた。
不意に、律が蒼の肩に手を添える。その途端、一瞬にして頭の痛みが消えた。
「あなたが私を守ってくれたように、今度は私があなたを守る番です」
凛と澄んだ声が響く。律は胸の前で手を組むと、蒼のそばに片膝をつく。そして、美しい歌声を辺りに響き渡らせた。アナスタシアの“祈り”だ。その旋律が、蒼を吞み込もうとしていた呪いを晴らす。神の力は、いつでもアナスタシアの前では無力だった。それは、神がアナスタシアを愛していたからだ。
パキン、と甲高い音とともに、辺りを覆っていた重苦しい結界が弾けた。崩れ落ちた破片が水蒸気のように消え去ると、夕陽が射し込むのが見える。神の領域は完全に消え去った。
歌が止むのと同時に、律の体が揺れる。蒼が受け止めると、律は眠っていた。
もし、これがきっかけで律がアナスタシアの記憶を取り戻したら。そう考えたところで、ふっ、と蒼は小さく笑う。
(そのときは、また私がサポートすればいい)
アナスタシアの後ろを歩むことには慣れている。ルーベルはアナスタシアを見失わない。いままでも、これからも。
* * *
目を覚ますと、あの不可解な現象の中ではなかった。律は辺りを見回す。ただ何もない空間が広がっていた。
不意に、肩に手が添えられる。振り向いた先に、人の形をした光が微笑んでいた。
『彼を守ってくれて、ありがとう。私は、あなたを愛しているわ。いまも、いままでも』
美しい声は遠ざかり、きっともう二度と出会うことはないだろう、とそう感じさせる。だが、それでいい。きっと、それが正しいことなのだ。
* * *
再び目を覚ますと、そこは自室のベッドだった。そばには蒼の姿があり、戻って来た、とそんな感覚になる。
「目が覚めたか。戻って来られたようで何よりだ」
蒼が薄く微笑む。その表情に、何かが重なったような気がした。
「……不思議な夢を見たんだ……」
「どんな夢だ?」
「……どんな夢だったかな……」
思い出す必要はない。そう思ったことは、きっと間違いではないのだろう。
* * *
「じゃあ、律がアナスタシアの記憶を取り戻すことはなかったのね」
いつもの公園。ハンナはいつもと同じようにブランコに腰掛けている。
いつもと同じ。それが彼らの現実であり、日常だ。
「おそらくね。律は二度、神の手から逃れている。また同じことがあっても、きっと神の手がアナスタシアに届くことはないだろう」
「よかった……。律がいなくなったら、どうしようかと思ってたわ」
ハンナは安堵して微笑む。それから、ねえ、と思い立ったように顔を上げる。
「アナスタシアがいなくなったあと、あなたはどうしていたの?」
「さてね。ご想像にお任せするよ」
蒼は軽く肩をすくめる。ルーベルはもういない。アナスタシアも。
「蒼、ハンナ」
律が軽く手を振って歩み寄って来た。蒼がその表情にアナスタシアを重ねることは、もうない。彼は藤堂律。生まれてからも、これから生きていく先も。
おわり
イフの葬列〜天使は人の子を愛す〜 加賀谷 依胡 @icokagaya
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