第2章【2】

 その次に訪れたのは、魔物の侵攻を受ける国だった。この大地で魔物は珍しい存在で、多くは人間と対立するため討伐対象となっている。現れ始めた当初は、魔物を倒すのは難しいことではなかった。だが魔物が進化を重ね次第に力をつけていくと、人間が押されることが増えていく。アナスタシアが降り立った国は、魔物の侵攻により多くの犠牲者を生んでいた。

 アナスタシアは軍事的知識を最大限に活かし、人間の軍隊を作り上げた。魔物の研究は充分に進んでおり、その情報をもとに組まれた作戦は完璧と思われた。

 しかし、アナスタシアの作戦は失敗に終わった。人間軍は壊滅し、アナスタシア自身も命を落とした。魔物の力が人間の力を凌駕したのだ。

 このとき、ルーベルがアナスタシアに授けた祝福が初めて作用した。

 ルーベルには、時を司る女神に与えられた力がある。それによる祝福で、アナスタシアは時を遡れる。自分自身の死をきっかけとして。

 初めてその力が行使されたとき、アナスタシアは困惑した。彼女だけでなく、戦いで命を落とした民も復活したためだ。アナスタシアは戸惑いつつ、前回の記憶をもとに新たな作戦を練り、そうして人間軍を勝利へ導いたのだ。


「ルーベル、あなたは時を操れるのですか?」

 国を去ったとき、アナスタシアはそう問いかけた。ルーベルにとって誤魔化すことは簡単だったが、この先も同じことが起きることになる。アナスタシアにはそれを知る権利があると考え、ルーベルは答えた。

「操れるわけではないよ。条件が整えば巻き戻せるだけだ」

「そうですか……」

 アナスタシアは、その条件が自身の死であることまでは気付いていなかった。そのため、自分の運命を理解していない。ルーベルにそれを説明してやる気はなく、アナスタシアもルーベルを疑うようなことはなかった。


 それからアナスタシアは様々な地へ赴いた。多くの人々が戦争や病から救ったが、それに比例してアナスタシアは幾度となく命を落とした。ルーベルの祝福による復活は、死ぬ前の記憶を保持したまま蘇ることになる。苦しんで死んだことを忘れることができないのだ。死ぬ直前の恐怖や苦痛を幾度となく繰り返したアナスタシアは、次第に心を蝕まれていく。アナスタシアから笑顔が失われるまでに、そう時間はかからなかった。

 ルーベルは何もしてやることができなかった。天秤にかけた末の結果であるが、彼もまた神の遣い。神の意思に背くことはできず、アナスタシアを戦地へ導くことしかできなかった。有無を言わさず戦い続けなければならなかったアナスタシアにとっては、ルーベルもまた敵だったかもしれない。

 そうして、アナスタシアは自らの永久の死を望むようになった。その願いを聞き入れることができるのはルーベルだけ。ルーベルが力を使わなければ、アナスタシアが蘇ることはない。人間と同じ死を迎えることになるのだ。

 天使が人間に対して特別な感情を懐くことはないとされているが、このときルーベルの中に存在していたのは確かに“情”だった。アナスタシアを苦しみから解放してやりたいと、ルーベルはそう願うようになったのだ。彼女にこの運命を辿らせた責任もある。アナスタシアは、ひとりで負うには充分すぎるほどの命を救った。彼女の使命は、充分に果たされただろう。

 ルーベルがアナスタシアの願いを聞き入れたのは、これが最初で最後だった。



   *  *  *



 律の席は、蒼の席の斜め左前にある。授業中でさえ気を抜くことはできないと思っている蒼は、たびたび律の様子を観察した。律は時々、ぼんやりと窓の外を眺めていることがあった。

 アナスタシアにもそんなときがあった。町に滞在するために借りた宿で、ぼんやりと夜空を眺めていた。そのときのアナスタシアの横顔はよく憶えている。憂いを湛え、悲しみを懐き、沈痛な横顔だった。

 ルーベルは一度も声をかけなかった。かける必要はないと思っていた。声をかければまた何か変わったのだろうかと思うことはあるが、いまとなっては確かめようのないことである。


「律。いつも授業中にぼーっとして、何を見ているんだ?」

 帰宅途中、蒼はそう問いかけた。あのときの後悔を取り戻すように。

「なんで知ってるの?」

「後ろの席だからな。見ればわかるよ」

「そっか……。うーん、何かを見てるわけじゃないんだけど……。ただぼーっとしてるだけ」

「ふうん。ちゃんと授業を聞いているなら特に言うことはないがね」

「うん、ちゃんと聞いてるよ」

「律、目を見て話したまえ」

 あはは、と律は困ったように、はたまた誤魔化すように曖昧に笑う。アナスタシアの頃はあれだけしっかりしていたのに、と蒼は常々から思っていた。

 アナスタシアの魂を持っているからと言って、アナスタシアのような人間に必ずなるということはもちろんない。アナスタシアの魂は、その時々で様々な人間になる。そのすべてがアナスタシアであることに間違いはないのだろう。

「律! 蒼!」

 大きく手を振ってハンナが駆け寄って来る。毎日こうして走って来るのだから、彼女も相当な筋金入りだ、と蒼は心の中で呟いた。

 ラクリマ・エヴァーソンがアナスタシアと過ごした時間はそう長くない。彼女がアナスタシアに恩義を懐いていることはもちろんだが、蒼が思っているよりも随分と親しみを感じているようだ。

「律、見て!」

 ハンナがスマートフォンの画面を律に見せる。

「わあ、可愛い。赤ちゃんだ」

従姉いとこの子どもが産まれたの! もう可愛くて授業中でも眺めちゃう」

「授業はちゃんと聞いたほうがいいよ」

「きみの言えたことじゃないな」

 呆れて言う蒼に、律はまた困ったように笑う。それで察したようで、ハンナも目を細めて律を見た。

 アナスタシアが最も気に病んだのが、赤ん坊を救えなかったときだった。赤ん坊は生命の象徴のような存在。そして希望だ。疫病はそれすら奪っていく。アナスタシアは民に責められても屈することはなかったが、手のひらから零れ落ちた命を気に病むことが次第に増えていった。それが着実にアナスタシアの心を蝕んでいた。

「今度の日曜に会いに行くんだ〜。よかったら律も来ない?」

「うーん……産まれたばかりなら、知らない人は遠慮したほうがいいんじゃないかな」

「そっか……それもそうね。律って普段ぼんやりしてるのに、時々、妙にしっかりするときがあるわね」

「ええ……」

「時々でなければいいんだがね」

「そんな、蒼まで……」

 蒼とハンナは時々、こうして律を困らせて楽しんでいる。素直な律は、そんな蒼とハンナの言葉を真正面から受け止め、弱気な顔になる。律の感情がそのまま出る表情が、蒼とハンナに安堵を与えることだった。

 アナスタシアはいつでも微笑んでいた。どんなときでも笑顔を絶やさなかった。自分の心を保つために。感情を押し殺すために。

 自分の手のひらから零れ落ちた命を想い、悲しみに暮れた。いくら泣いても気が済むことはなかっただろう。それでも、次の目的地に着く頃には微笑みを湛えていた。それが痛々しかった。

 それでも、ルーベルは慰めることをしなかった。慰めればアナスタシアの心が崩壊する、そんな気がしたからだ。辛いと溢せばより辛くなる。アナスタシアがひとり泣いて自分の中で一定の決着をつけること、それが彼女の心を保つために必要なことだと思っていた。それが正しいことだったのか間違いたったのかは、いまとなっては確かめようのないことだった。



   *  *  *



「アナスタシアは本当に記憶を受け継いでないんスね」

 校庭の花壇に腰掛け、頬杖をつきながら香川が言った。蒼はスマートフォンから顔を上げ、そうだな、と小さく頷く。

「お前まで転生しているとは思わなかったがな、アルゲオ」

 天使アルゲオは神の側近というような存在だった。地位としてはルーベルより下だが、神のそばで補佐をしていた。アナスタシアのことは知っているが、その最期は知らない。アナスタシアの最期を知るのはルーベルのみだ。

「まったく別の人間なのにこうしてそばに生まれるっていうのは、神の仕業としか思えないっスよね。しかも前世の記憶を保持しているなんて」

「我々はまだ、神の手を離れられていないということだな」

 香川の言うことは一理あるが、蒼には不可解なことがある。もし神がアナスタシアの魂を欲しているのだとしたら、アナスタシアを独りにする必要がある。そばにルーベルがいれば、彼女の死を防ぐ可能性があるからだ。転生により彼らがそばに生まれるのは、アナスタシアの願いなのではないかと彼は思っている。彼女は神のもとに戻りたくない。それを防げるのが彼らなのだ。

 前世の記憶を保持しているのは、蒼、暁、ハンナ、香川だ。アナスタシアと関わりが薄かったアルゲオに記憶が蘇ったのは、蒼には解せないことだった。

「お前はなぜ転生したんだ」蒼は言う。「天使はそう簡単には滅びないだろう」

「ああ、自分、堕天したんスよ」

 あっけらかんと笑って香川が言うので、蒼は続きを促すように香川を見た。

「アナスタシアを見ていて、神のやり方に賛同できなくなったんです。あまりに残酷でしたから。あなただってそうだったんじゃないっスか?」

 香川の言う通り、アナスタシアの運命によって神に叛旗を翻した天使は少なくなかった。天使の大多数は、神の遣いとなったため当然の使命だと思っているように見えたが。人間から見ると、天使は案外に薄情なものである。

「アナスタシアに関しては」蒼は言った。「天使のあいだでも意見が真っ二つに割れた。お前のように考える者も少なくなかっただろうな」

「アナスタシアが解放されてよかったと思ってますよ、自分は」

 アナスタシアの解放を望む天使は少なくなかっただろう。ルーベルの行動を明かせば、賛同する者もいるはずだ。だが彼にそうするつもりはない。アナスタシアの最期を知れば、ルーベルの最期に気付かれる。ルーベルには、自分の最期を誰にも打ち明ける気はない。アナスタシアでさえ、彼の最期を知らないのだ。

「蒼、お待たせ」

 校門から律が出て来る。律は香川に気付くと、笑みを深めた。

「香川もいたんだ。待っていてくれたの?」

「たまたま星野サンに会ったんで、ちょっと話をしてたんスよ」

「帰ろうか、律。じゃあな、香川」

「俺も一緒に帰らせてくださいよ〜」

 蒼が香川を邪険にすると、律はいつもおかしそうに笑うのだ。

 アナスタシアの存在はほとんどの天使が認識していた。課された任務を把握している者も多く、人間に負わせるには酷すぎる運命に反感を覚えるのは当然のことだろう。だが、ルーベルは他の天使がどういった行動に出たのかは知らない。

 堕天――それは神に叛旗を翻すこと。神の翼を失い、神のもとへ戻ることは二度と許されない。堕天した天使は神の庭を追われ、他の天使による粛清が待っている。堕天した天使に神の力を持った天使の粛清から逃れる術はなく、行く末は消滅のみである。そうしてアルゲオも地に堕ちたのだろう。

「藤堂クンは部活に入ったりバイトしたりしないんスか?」

 香川の問いかけに、そうだね、と律は顎に手を当てた。

「夏休みに入ったらバイトはするつもりだけど、部活には入らないかな」

「あんま興味のある部活はないって感じっスか?」

「まあ、そうかな。香川は軽音部だっけ?」

「そっスね。中学の頃から組んでるバンドなんスよ」

 律と香川がいつ知り合ったのかを蒼は知らないが、律はあまり人見知りをしない。その上、香川はいわゆるコミュニケーション能力が高い。おそらく、ふたりが馴染むまでにそう時間は掛からなかっただろう。

「中学生の頃によく楽器を用意できたね。楽器って高いんでしょ?」

「高いっスよ。だから、いろんな人からお下がりをもらったんスよ」

「へえ。バンドのメンバーは、みんな同じ高校に来たの?」

「そっスね。バンドを続けるために進学したようなもんスから」

 おかしそうに笑いながら言う香川に、律は首を傾げた。

「部活に入ったら部費がもらえるじゃないっスか。楽器の手入れも安くないっスから。文化祭があるから発表の場もあるし、部活は何かと都合が良いんスよね」

「へえ……そんな方法もあるんだね」

「それだけじゃないっスけどね。うちの高校は進学率も就職率も高いじゃないっスか。一応その辺も考えて入ったんスよ。でも、みんなバンドばっかりやって成績が良くなかったんで、受験のときは必死に勉強したもんスよ」

「それは僕も似たようなものだなあ」

 香川は律がアナスタシアだとすぐにわかったようだったが、蒼がルーベルであることにはしばらく気付かなかった。アナスタシアの魂は特別な存在なのだろう。

 アナスタシアは記憶が蘇ると必ず死ぬ。神が死をきっかけに魂を奪おうとしているのだ。だが、天使の力を失ったいま、ルーベルがアナスタシアを守るには限界がある。アナスタシアはルーベルの目の前で何度も人生を終えた。それでもアナスタシアは転生を繰り返し、神の手から逃れようともがいている。しかしルーベルは、いまだ一度もアナスタシアを救えていない。





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